4:リリィの願い
「わたし、お兄ちゃんに訊いたんです。『何かしたいことある?』って」
――じゃあ、リリィの声がたくさん聴きたいな。
――兄ちゃんはリリィの声が好きだから。
トードはそう答えた。『頼れる兄』に相応しい、優しい微笑みを浮かべて。
「だから……時間が許す限りお兄ちゃんと話をしたり、お兄ちゃんが好きな本の朗読をしたりしてたんですけど……ある日突然、喉にポリープができて……」
「なるほどね。――治すのに時間がかかるんだ?」
「はい……」
ノアの質問に頷く。
「薬で治ることもある、らしいんですけど……治らない可能性があるから、手術したほうがいいだろうって……」
リリィの声帯にできたポリープは一般的なケースと比べても割合大きく、薬剤を用いても自然治癒は見込めないだろうとのことだった。
現在は炎症を抑えるためのトローチを服用しながら病院側が勧めた喉飴を舐めているが、少し喋りやすくなる程度の効果しか見られていない。
「手術は一週間以上先だし、手術してからしばらくは、絶対に喋っちゃいけないって、聞いて、わたし……居ても立っても、居られなくて……」
掠れた声が、小さく、けれど溢れんばかりの悲痛な思いを紡ぐ。
リリィの声に明らかな異常が現れたのは、トードのために話すようになってちょうど二週間を迎えたときのことだ。
――なんか、喉が変な感じかも。
どういうふうに「変」なのか、本人であるリリィにも分からない。ただ、喉の奥に確かな違和感があって、うがいをしたり喉飴を舐めたりしてみても一向に治らなかった。
――この前、風邪ひいたからかな。
症状が出る直前、リリィは喉風邪をひいていた。
きっとそのときの症状がまだ残っているのだろう。だからそのうち治るはず――。
そう思っていたのに、いつまで経っても違和感が消えない。
そうして二週間が経過した頃、リリィの声は急激に掠れ始め、これまでのように話すことができなくなった。
――嘘、どうして?
これにはリリィも流石に驚き、トードと両親に勧められるまま診察を受けた。
『――声帯ポリープですね』
診断を下した医者が冷静に言う。
『少し前に風邪をひいたとのことですが、その前後で大声を出したことは?』
「ありません……」
トードのために普段より多く発声していたのは確かだが、それはあくまで日常生活の範疇だ。ポリープができるほど大声は出していないし、喉風邪をひいたときだって決して無理はしていない。
医師の説明によると、喉を酷使していないのにポリープができるのは「比較的めずらしいケース」らしい。治療方法は薬物治療か手術が一般的だそうだ。
「じゃあ、すぐに手術してください」
薬でゆっくり治療する時間はない。リリィは即答した。
だが――リリィを待ち受けていたのは、二度にわたるショックだった。
一度目のショックは、手術の日程を聞いたとき。
二度目のショックは、手術後に「絶対沈黙の期間」が必要だと聞いたとき。
事前説明なども含めると、手術日は最短でも一週間と数日後。しかも、手術後は五日程度声を出してはいけないのだという。
――それじゃ間に合わない!
トードの聴力は一か月以内に失われる可能性が高い。だが、リリィが再び話せるようになるのは短く見積もって二週間。その間にトードの聴力が失われない保証などどこにもない。
――どうして。どうしてよ。
恨むだけの日々とは決別したのに、その歩みを邪魔されて、トードにも心配をかけて。
もしこれが運命だというのなら、リリィの人生が終わるその瞬間まで「何か」を恨まずにはいられないだろう。
『――そういえばさ、模造骸骨の話知ってる?』
この世の不条理に呑み込まれそうになったリリィに希望の光が差し込んだのは、診察後、会計を待っているときのことだった。
『あのがいこつ、今はフラッタの会社で働いてるんだって』
『へー。そうなんだ』
鼻声の女性が、連れ合いの女性に相槌を打つ。
『でも、なんで働いてるの? 貴重なモノみたいだし、研究施設にいればいいのに』
『私も詳しいことは知らないんだけど、自分の特殊能力を役立てたいらしいよ。どんなヒトの声でも再現できるのは自分だけだからって――』
(――ヒトの声を再現できる?)
偶然耳にしたその会話は、リリィにとって急転直下と呼べるもので。
――そのがいこつなら、わたしの声でお兄ちゃんと話してくれるかもしれない。
そう思った次の瞬間、リリィは掠れた声で女性に声をかけていた。
「わたし、帰ってすぐに調べました。それで……エルさんとイストリア社のことを、知ったんです」
フラッタに居を構えるイストリア社は、他の会社が絶対に真似できない二つの特徴を備えている。
一つは、「現存する唯一の模造骸骨」が在籍していること。
もう一つは、その模造骸骨が「依頼された声」を本物そっくりに再現して、本人の代わりに会話してくれること。
「声を再現してもらうには、サンプルがあるほうがいいって、聞きました。でも……それじゃ、間に合わないんです」
「…………」
「……依頼料は、そんなにたくさん、払えません。声を再現してもらうための期間も、一週間くらいしか取れません。――無理を言ってることは、分かっています」
こんな依頼は誰だって断りたいと思うだろう。世間知らずの十四歳であっても、それくらい理解している。
「だけど……お願いします。わたしの声を、お兄ちゃんに、届けてほしいんです。わたしにはもう、それしか、できないから……」
掠れ掠れの声に想いを乗せ、リリィは深々と頭を下げる。
恥知らずな子どもだと思われても、リリィにはどうしても伝えたい言葉があった。
――大好きだよ、お兄ちゃん。
本当は自分で伝えたかった。トードが好きだと言ってくれた声で、何度口にしても伝えきれない想いを伝えたかった。
けれど、それはできない。今の自分には掠れた声しか出せない。
だからリリィはここに来た。自分の力だけではどうしようもない願いを叶えてもらうために。