人称
私の多くが「私」ではないし、おそらく彼ら彼女らにとってもそうなのだろう。
人称に不気味さを抱くのは稀だろうか。99を100とみなすことになんら躊躇いはないが、51は……。私から私足り得るものを抽出したものを私と呼び、純粋な一人称を「私」と呼ぶことにする。私はスープであり、「私」はレードルとしよう。私が溶け出しているスープに、ぽちゃんとレードルを沈める。レードルを美味しそうなスープで一杯にして慎重に掬い上げる。手が震えたことでぽたっぽたっとレードルの端からスープがこぼれ落ちてしまう。が、そんなことは気にせずにそのまま持ち上げる。レードルの上に溜まっているものが私だ。レードルに掬われなかったもの、レードルからこぼれ落ちたものはもはや私ではない。私もどきだ。
ここに私の躊躇いが生じる。私の容量が99で「私」が100だとしたら何の問題もないと言えるだろう。誤差は易々と無視できる。でも私の容量が51だったら、200だったら、0だったら、1000だったら? それでも問題ないと言えるだろうか。このような違和感に直面し、私は「私」と再び接地し直す必要性に迫られた。「私」を私から解放しなくてはならない。これは非常に珍妙な戦いである。それにも関わらず私にのしかかってきた切迫感は相当なものであった。何せぺしょぺしょのトイレットペーパーに応援を頼みたくなったぐらいなものだったから。
「私」は境界である。私を私と私ならざるものに分節するもの、それが「私」なのだ。一般的に言えば、「私」は器である。境界を区切り、その内側に私が潜んでいると認識されている。「私」とは身体であり、外界との接地面であり、レードルであり、摩擦の生じる所である。摩擦が大きければ大きいほど、「私」は私と乖離していく。それは良いことでも悪いことでもない。ただ、少し不便である。「私」が私を規定するなど……。ごつごつしていて扱いにくい。言葉はもっと滑らかでなくては。邂逅と離別。言葉を縛り付けてはならない。特定のイメージに落とし込むことは認められない。自由に踊るから言葉なのだ。
拡張と収縮。「私」とは「我々」である。ひとつでありふたつでもある。「私」の複数形が「我々」なのでは決してない。我即ち我々なのだ。そして、「私」とは「彼」である。彼の影は私の影。『ひとりは誰でもなく、また十万人』なのだ。
「ひとつの妖怪が我々の間を徘徊している――『私』という妖怪が」
「私」だけでなく、私に関しても見直す必要がある。私は固有名詞であると認識されることが多い。私は固体であり、個体であり、唯一無二の、ほぼ不変の物質であると言われている。しかし、私とは液体に近くスープのようなものだと思う。500Lのプールに一滴の水色の雫を垂らしたもの、それが私だ。レードルが触れた途端に変容し、以前とは全く別物になってしまう。不安定で、揺らいでおり、脆く、歪な、滲んだもの。
欠落と空白。私とはドーナツの穴なのだ。そして、私とはかつてくじらだったもの、今魚であり、そして馬となるものである。
彼はピザなのだ。ふざけているのではない。本当にピザなのだ。何を言っているか分からないのなら、それはピザだからなのだ。そうでなくちゃ嘘だ。ピザにピザのことは分かるまい。なぜならピザだから。ピザは切っても切ってもピザであることに変わりはないし、いくらかき集めたところでそれはあくまでもピザなのだから!
人称を部屋の隅っこに押し込めるように幽閉するのではなく、投げやりに全てを委ねるのでもなく。私は人称なのだ。そして「私」も。どうしようもなく。良くも悪くも。幽霊は私を見ない。私こそが……。
冷蔵庫の扉を開けると紫色の花卉と出会った。そこにはうららかな草原が広がっていた。西の空が暗くなり始める。見る見るうちに、墨のような黒い雲が広がっていく。まるでバケツの水がこぼれたかのように。遠くから雷鳴が小さく、しかしはっきりと響いている。