3話
カリカリ……教室に響くのは、鉛筆の音と先生の声だけ。私はぼんやりとノートを開いたまま、教科書のページを見つめていた。
でも、視線の先に文字があっても、意識はそこにない。思い出していたのは、昨日の不思議な体験だった。
お父さんの笑顔。そして私を呼ぶ声。あれは決して夢じゃない。頭の中でぐるぐると思考が入り乱れていると、
「美鈴さん、この問題わかりますか?」
不意に先生に当てられた。黒板の見覚えのない数式に、思わず固まってしまう。頭の中が真っ白になってあたふたしていると、
「√3だよ、√3!」と、隣の席の女子友・真奈が口元を隠してそっと教えてくれた。 反射的に答えると、先生は軽く頷いて「正解です」と言ってくれた。
真奈がこっそりウインクをする。私はそっと口元をゆるめた。 はあ...助かった。
その後は真剣に授業に取り組み、時間は流れるように過ぎていった。放課後の教室は雑談をする生徒たちで賑わう。
「ねぇ、美鈴ちゃん、ちょっといい?」
そう声をかけてきたのは、授業中に助けてくれた真奈だった。
「大丈夫だよ。さっきはありがとね」
「友達として当然だよ。でも珍しいね、美鈴が授業中にぼんやりするなんて」
「うん、ちょっと考え事をしていて……」
私がそう答えると、なぜか真奈はイタズラっぽい表情を浮かべてにっこりと微笑んだ。
「もしかして、美鈴って陸斗君と付き合っているの?」
「な、なに言ってるの!?」
真奈の予想外の発言に、自分でもびっくりするくらい声が裏返った。慌てて口を押さえるけれど、すでに頬はぽっと熱くなっている。
「だって昨日もそうだけど、2人で並んで登校していたでしょ? なんかすっごくいい雰囲気だったよ?」
「そっ、それはただ腕時計の話をしてただけだよ!」
勢いよく答えると、周りのクラスメイトたちも興味津々に見つめてくる。
「じゃあ、もう行くね、また明日!」
私は急いで帰り支度をすると、逃げるように教室を飛び出した。
「ただいま〜」
「おかえり美鈴」
玄関のドアを開けると、いつもの家の空気がふわっと出迎えてくれた。靴を脱いで自分の部屋に向かい、ふと手首に巻かれた白い腕時計を見下ろす。
……カチ、カチ、カチ。
何の変哲もないように見えるけど、私は知っている。この時計が、ただの時計じゃないことを。私は何かに導かれるように、そっとリューズを回した。
——その瞬間、視界が滲み、世界が反転した。足元の床がふわりと浮き、重力から解放されたような不思議な感覚。時間そのものが揺らいでいく。
景色がぐるぐると回って、音も色も形もすべてが渦を巻き……気づけば、私は別の場所に立っていた。
街並みはどこか懐かしくて、でも今とは違う。電柱のデザイン、行き交う人の服装、そして漂う空気さえレトロな感じがする。
「……ここ、どこ?」
そうつぶやいた瞬間、ふと目に入ったのは、木製の看板。 《Avenir》——未来、という意味の時計店。
私は、何かに引き寄せられるようにその店に近づき扉を開けた。落ち着いた雰囲気の店内には、お父さんがいた。
今よりも若く、でも面影は確かにあった。まっすぐな目、やや緊張した面持ち。手には、革の財布を握っていた。
「気に入った腕時計は見つかりましたか?」
優しそうな店主が、穏やかに声をかける。お父さんは一瞬、言葉を探すように沈黙したあと、真っ直ぐに言った。
「はい、この腕時計をください。……この白の文字盤で皮ベルトが似合うやつを」
「これですか? シンプルですが、上質な造りですよ。ご自身様にですか?」
店主の問いに、お父さんは少しだけ笑った。
「そうですね、今は自分のために……でも、いずれは——娘に渡したいんです」
私は、思わず胸を押さえた。店主は目を細め「娘さんに、ですか?」と尋ねる。
「はい、今の仕事がけっこうハードで……でも、この時計を見るたびに、家族を守るために働くって決めた決意を思い出したくて……」
お父さんは、照れたように、でもどこか誇らしげに続ける。
「この時計が、いつかあの子の手元に渡る頃には……俺も、ちゃんと背中を見せられる父親になれてるといいなって、そう思うんです」
店主はしばらく何も言わず、静かに頷いた。
「素敵なお話ですね。きっとその子は、あなたの想いをちゃんと受け取りますよ」
お父さんはその言葉に、少しだけ目を潤ませて、「……ありがとうございます」と頭を下げた。
白い時計は、丁寧に包まれてお父さんの元へ。そして未来の私へ……
——再び、風が揺れる。光が弾け、私の視界がにじむ。
次の瞬間、私は自分の部屋に戻っていた。手元には、あの白い腕時計が静かに時を刻んでいる。
私は、しばらく何も言えずに座り込んでいた。時計を購入した理由。仕事に込めた決意。そして、未来の私へ託した祈り。
「まだあるかな?」
スマホを手に取り、《Avenir 時計店》で検索を始めた。そして——見つけた。
「次の休みに行ってみようかな?」
そうつぶやいて、最初に思い浮かんだのは陸斗の顔だった。
「あれ? でも、それってただのデートだよね⁉︎」
思わず頬を手で覆ったけれど、1人でいくのは怖いし……
色々迷った挙句、ラインで一言、陸斗に『一緒に時計店に行きたい』と伝えると、即答で『いいよ!』と返ってきた。