1話
見慣れた風景、見慣れた通学路。朝の空気は少しひんやりとしていて、通りを歩く人々も寒そうにしている。
車の走る音、子供たちの楽しそうな声。今日もまたいつも通りの1日が始まろうとしたが、私の腕には小さな変化が起きていた。
革ベルトが似合うシンプルな白い腕時計。それが、朝日に照らされてキラリと輝く。でも、初めて付けたせいか違和感がある。ベルトをきつくしてもカタカタと揺れるのが気になった。
「おはよう美鈴。あれ? それ、どうしたの?」
不慣れな腕時計を気にしながら歩いていると、不意に声をかけられた。駆け寄ってきたのは、幼馴染の陸斗だった。肩で息をしながら、私の手首を興味深そうに見つめる。
「これ? お父さんの腕時計だよ」
「へぇ〜 いいな〜 羨ましい!」
陸斗は目を輝かせて感想をもらすが、ふと我にかえると申し訳なさそうに俯く。
「あっ、ごめん。それってもしかして……おじさんの形見?」
「うん……まあね」
私はぎこちなく笑いながら、文字盤をそっと撫でてみた。なんだかお父さんの温もりを感じる気がして……気づけば、あの日の記憶がよみがえっていた。
お父さんが亡くなったのは、数週間前のことだった。仕事に追われ、寝る間も惜しんで働き、ついに限界が訪れてしまった。
正直、お父さんのことはよく分からなかった。今思えばもっと話をしたかったし、休日に家族でゆっくり過ごせたら、何かが変わっていたかもしれない……
だけど、もう、何もかもが遅すぎた。永遠に続くと思っていた時間は、あっけなく途切れ、残ったのは後悔と、この腕時計だけ——
「そっか……大事にしないとな」
陸斗は気まずそうに頭を掻きながら、それでも優しく微笑む。私は曖昧に頷き、何か言おうとしたけど、信号が変わりかけていたので、急いで渡ることで誤魔化した。
「そういえば陸斗は腕時計に詳しかったよね?」
暗くなりかけた空気を晴らそうと、話題を変えると、陸斗は嬉しそうに頷いた。
「もちろん! 時計の紹介動画は欠かさず見ているし、新作の情報も常に確認してるよ」
陸斗はスマホを取り出すと、写真を開いて様々な形の時計を見せてくれた。その中には私の想像とはかけ離れた物もある。
「えっと……これって時計?」
「そうだよ。クロノグラフっていう種類なんだ。実はストップウォッチ機能がついてるんだよ!」
「へぇ〜 でもそれって必要なの?」
「う〜ん、まぁ、正直必要ないね」
「えっ? じゃあ、どうしてそんな機能がついているの? 無駄にメーターが多くて見づらいんだけど」
「でも、そこがカッコいいでしょ? やっぱり時計に求めるものはロマンでしょ!」
「いや、正確な時間でしょ?」
陸斗の自信満々な答えに、私は被せながら否定するが、本人は気にしない様子で話を進める。
「腕時計は本当にどれもカッコよくてさ〜 ネットで調べて眺めていたら時間があっという間に過ぎていくんだ。おかげで寝不足だよ」
陸斗は眠たそうに目を擦ると、大きく伸びをしてあくびをした。腕時計に時間を奪われるなんて皮肉だな……
「美鈴だって、きっと好きになれるよ! 美鈴が時計に興味を持ってくれたら、おじさんだって喜んでくれるんじゃない?」
確かに陸斗の提案は一理あるかもしれない。腕時計について調べれば、少しはお父さんがどんな人だったのかが分かるかもしれない。
「そうだね、ちょっと調べてみようかな?」
腕時計を見つめ、本格的に調べてみようと決意すると、微かにチャイムの音と校門が締まる音が聞こえてきた。
「やばい、美鈴! 遅刻するから走るよ!」
「えっ、嘘? もうそんな時間!?」
私はカバンを抱きしめると、髪が乱れるのも無視して走った。おかしいな……腕時計をした日から遅刻しそうになるなんて……
「ただいま〜」
朝から遅刻しそうになって走ったから足が痛い。
時計をつけて授業を受けたのは初めてだったから少しソワソワした。でも手元で時間が確認できるのは意外と便利な事に気づけた。
「おかえり美鈴」
キッチンの方からお母さんの声がする。帰宅した私は自分の部屋に向かうと、制服のままベッドに腰掛けた。そして静かに腕元の時計を見つめた。
(確か、ここがリューズだったかな?)
陸斗と時計の話をしていたから、専門用語のいくつかはなんとなく理解できるようになっていた。
時計の側面にある小さなつまみ。陸斗が得意げに説明してくれたパーツをそっと摘んで回す。すると、内部の歯車が噛み合うかすかな音とともに、長針がゆっくりと動いた。
機械式の時計はゼンマイの力で動いている。だから、数日使わないと止まってしまうらしい。不便な気がするけど陸斗いわく、その不便さにロマンを感じるらしい。
私にはよく分からない……
(えっと、これを回せばよかったっけ?)
少し強めにリューズをひねると、指先に微かな抵抗を感じた。確かに、内部のゼンマイが巻き上げられる感触が伝わってくる。そして次の瞬間——
(あれ? 本当にこれで合ってる?)
時計の針が、あり得ない動きを始めた。
針は反時計回りに勢いよく周り、日付も高速で回転する。そして視界がぐにゃりと歪んだ。まるで、水面に投げ込まれた石のように、世界が波紋のように揺れ動く感覚……
(えっ、なにこれ⁉︎)
心臓が跳ね上がり重力が消えたような錯覚に襲われる。身体がふわりと宙に浮く────っと思った瞬間、足元の感覚が消えた。
次に気がついたとき、私は見知らぬ部屋に立っていた。
「……え?」
そこは、自分の部屋ではなかった。
確かに、広さは同じくらい。けれど、見慣れた勉強机もタンスもない。カーテンの柄も違う。部屋全体が、どこか昔の雰囲気を漂わせていた。
(どういうこと? さっきまで、私は……)
混乱する頭を抱えながら、ふと耳を澄ませると、
「おぎゃー! おぎゃー!」
一階から、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
我が家に赤ん坊なんていない。なのに、この声は確かに家の中から響いている。
胸の奥がざわついた。理屈では説明できないけれど、ただじっとしていられなくて、私は恐る恐るドアを開け、階下へと向かった。
そして、リビングの扉を勢いよく開けた瞬間……
「……お、お父さん⁉︎」
思わず声が漏れた。そこにいたのは、死んだはずの父の姿だった。
ソファに座り、腕の中に小さな赤ん坊を抱いている。その傍らには、若く見えるお母さんが寄り添い、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「よしよし、大丈夫だぞ、美鈴」
(美鈴……? 私?)
赤ん坊の顔をよく見る。まだ髪も少なく、顔のパーツも整っていない、まるでお餅みたいな小さな赤ん坊がいた。でも、その子の目を見た瞬間、確信した。
それは、私だった。
「……嘘。そんなはず、ない……」
さっきまで私は自分の部屋にいた。学校から帰ってきたばかりで、腕時計をいじっていただけなのに……
頭の中が真っ白になり、理解が追いつかない。思考が濁流のように入り乱れて飲み込まれてしまいそうだ。
なぜ、私は過去の世界にいるの?