君がいない世界の果てに
魔物がこの世界にその忌まわしい姿を現したのは、今からおよそ十年前のことだった。まるで悪夢が現実になったかのように、世界各地に突如として出現した異形の存在――後に「魔物」と呼ばれるようになるそれらは、人類が築き上げてきた文明社会の基盤を根こそぎ揺るがし、人々の心に深い恐怖と拭い去れない混乱の影を落とした。昨日までの平和な日常は脆くも崩れ去り、人々は為す術もなくその脅威に怯えるしかなかった。
そんな絶望的な状況下で、一条の光が差し込んだ。魔物に対抗しうる特殊な力、常人を超えた戦闘能力を持つ者たちが、まるで運命に導かれるように現れ始めたのだ。人々は、その存在に驚嘆し、畏敬の念を込めて、そして切なる希望を託して、彼らを「ハンター」と呼んだ。
ハンターたちは、その超常的な力――ある者は炎を操り、ある者は雷を纏い、またある者は驚異的な身体能力を発揮できる力を駆使して、人類を脅かす魔物を次々と討伐していった。彼らの存在は、まさに荒れ狂う魔物の脅威に対する最後の防波堤であり、人類存続の希望そのものとなった。この新たな脅威と希望の出現を受け、世界各国は迅速に対応した。ハンターを組織的に育成し、彼らの活動を全面的に支援するための専門機関、通称「ハンター協会」が次々と設立された。協会はハンターたちに装備や情報を提供し、任務を斡旋し、彼らが最大限の能力を発揮できる環境を整えた。いつしかハンターは、社会にとって不可欠な存在となり、不安定な世界を支える力強い柱として、人々の生活に深く根付いていった。彼らの活躍はニュースで報じられ、子供たちの憧れの的となり、その存在は新たな時代の象徴となっていた。
数多いるハンターの中でも、日本国籍を持つ一人の少女、凛の才能は、群を抜いて輝いていた。彼女は、わずか十八歳という若さで、ハンターの中でも最高位とされる「S級」の認定を受けた、まさに天才と呼ぶにふさわしい存在だった。その卓越した戦闘能力と、数々の困難な任務を成功させてきた実績は、瞬く間に世界中に知れ渡り、「閃光の凛」という異名と共に、その名は畏敬と称賛をもって語られた。凛は、その圧倒的な強さとは裏腹に、太陽のように明るく、誰に対しても分け隔てなく接する快活な性格の持ち主だった。彼女の周りには常に笑顔が溢れ、その存在自体が、暗い世相に沈む人々の心を照らす希望の灯火となっていた。多くの人々が、彼女の揺るぎない強さと、どんな時も絶やさない笑顔に、未来への希望を見出していたのだ。
しかし、そんな英雄的な輝きを放つ凛にも、誰にも打ち明けることのできない、心の奥底で大切に守り続けている存在がいた。それは、彼女の唯一の肉親である、九歳になる弟の優だった。
優は、この世に生を受けた時から、病弱という重い十字架を背負っていた。幼い頃から病院の白い天井を見上げることが多く、入退院を繰り返す日々は、彼の日常の一部となっていた。まるで神様の悪戯のように、彼らの両親は数年前、明確な理由も告げずに二人の前から姿を消した。いわゆる蒸発というやつだ。それ以来、凛と優は、都会の片隅にある古びた小さなアパートで、お互いの温もりだけを頼りに、肩を寄せ合って暮らしてきた。
凛にとって、優は、血を分けたただ一人の家族であると同時に、この過酷な世界で生きる意味そのものであり、何よりも尊い宝物だった。どれほど危険で、心身ともに疲弊するような過酷な魔物討伐任務の後でも、凛は鉛のように重い体を引きずって、二人が暮らす小さなアパートへと帰った。そして、安らかに眠る優のあどけない寝顔を見るだけで、ささくれ立った心は不思議と安らぎを取り戻し、張り詰めていた緊張が解けていくのを感じるのだった。優のまだ小さな、柔らかい手をそっと握りしめ、学校であったことや、テレビで見たおかしな番組のことなど、他愛もない話をする時間が、凛にとっては何物にも代えがたい、かけがえのない癒しのひとときだった。
優もまた、姉である凛のことを心から慕い、深く愛していた。いつも自分の体のことを心配し、どんな時も優しく気遣ってくれる姉の存在は、優にとって世界の全てだった。凛がハンターとして危険な任務に向かうと聞くたびに、幼い胸は不安で締め付けられたが、無事に帰ってきた凛の、少し疲れていても輝く笑顔を見ると、心の底から安堵すると同時に、自分の姉が世界を守る英雄であるという誇らしい気持ちで胸がいっぱいになった。「お姉ちゃん、すごいね!」その言葉は、優の偽らざる本心だった。
二人の日常は、決して裕福とは言えなかったが、ささやかで、けれど温かい光に満ちていた。
朝、凛は少し早起きして、優のために栄養バランスを考えた手作りの朝食を準備した。時には少し焦げた卵焼きも、優にとっては愛情の味がした。「いってきます」「いってらっしゃい」の短い挨拶を交わし、優はランドセルを背負って小学校へ、凛は重い装備を身に着けてハンター協会へと、それぞれの戦場へと向かう。夕食は、できる限り二人で一緒に食卓を囲んだ。凛が買ってきた惣菜の日もあったが、時間がある時は二人でキッチンに立ち、簡単な料理を作ることもあった。テレビから流れるバラエティ番組を見て、声を上げて笑い合う。そんな何気ない時間が、二人にとっては宝物だった。寝る前には、優のベッドサイドで、今日一日あった出来事を互いに報告し合ったり、凛が優の好きな冒険物の絵本を読んであげたりするのが、二人の大切な日課となっていた。優の寝息が聞こえ始めるまで、凛は優しくその頭を撫で続けた。
凛は、病弱な弟に少しでも不自由な思いをさせまいと、どんなに困難で危険な任務にも、ためらうことなく果敢に挑んでいった。S級ハンターとしての報酬は、一般の職業に比べれば決して少なくはなかった。しかし、年々高度化し、高額になっていく優の専門的な医療費や、日々の生活費、そして将来のための蓄えを考えると、経済的な余裕は常にあるわけではなかった。時には、自分の欲しいものを我慢し、切り詰めた生活を送ることもあった。それでも、凛はそんな苦労や葛藤を、優の前では決して見せることはなかった。いつもと変わらない明るい笑顔で、「大丈夫だよ、優。心配いらないよ。お姉ちゃんが、必ず優を守るからね」と力強く言って聞かせ、優を安心させようと努めた。その笑顔の裏に隠された苦労を、優はまだ知る由もなかった。
優もまた、聡明で心優しい少年だった。大好きな姉に余計な心配をかけまいと、自分の病気の辛さや、体調が優れないことを、あまり口にすることはなかった。本当は体がだるくて、少し熱っぽい時でも、凛が心配そうな顔で「大丈夫?」と尋ねると、「うん、大丈夫だよ、お姉ちゃん。元気いっぱい!」と、少し無理をしてでも笑顔で答えた。早く元気になって、お姉ちゃんの負担を軽くしたい。それが優の密かな願いだった。
そんな二人の間には、言葉にしなくても通じ合える、誰にも壊すことのできない強い絆があった。互いを深く思いやり、支え合いながら、二人は確かに、厳しい現実の中にも、ささやかでかけがえのない幸せな日々を送っていた。
しかし、その穏やかで温かな日常は、優が地元の公立小学校に通い始めてから、まるで薄氷にひびが入るように、少しずつ、しかし確実に歪み始めていた。見えない影が、二人のささやかな幸せに忍び寄っていたのだ。
優は、生まれつき体が弱いこと、そして頻繁に学校を休んだり、体育の授業を見学したりすることを理由に、クラスの一部の生徒から、心ないいじめを受けるようになっていたのだ。
「おい、優。お前のせいで、最強ハンターのお姉さんが、大変な思いをしているんだぞ。わかってんのか?」
「お前みたいな病弱なやつがいなければ、凛様はもっと自由に、自分のために生きられるのに。お荷物なんだよ」
「いつもみんなに迷惑かけてるくせに。邪魔者なんだから、早くどっか消えろよ」
まだ幼く、感受性の強い優の心に、ナイフのように突き刺さる冷たくて残酷な言葉の数々。それは、優が心の奥底で密かに感じていた、姉に対する申し訳なさや負い目を的確に抉り出すものだった。
最初は、聞こえないふりをして、必死に無視を決め込んでいた優だった。しかし、いじめは日を追うごとに陰湿さを増し、エスカレートしていった。優の机の中に、どこからか集めてきたゴミを詰め込まれたり、大切にしていた絵の具セットや、凛が買ってくれたお気に入りのキーホルダーを壊されたりした。時には、校庭の隅に連れて行かれ、無理やり気持ちの悪い虫を食べさせられるような、屈辱的で暴力的な行為もあった。
それでも優は、この耐え難い苦しみを、たった一人の家族である姉の凛に、一切話すことはなかった。凛が自分のために、どれほど大変な思いをしてハンターの仕事をしているかを知っていたから。これ以上、自分のことで姉に心配をかけたくなかった。自分のせいで、姉の貴重な時間を奪いたくなかったのだ。
「学校、楽しい?」
凛が尋ねると、優はいつもと同じように、少しだけこわばった笑顔を作りながら答える。
「うん、楽しいよ、お姉ちゃん」
その笑顔の裏で、優の心は張り裂けんばかりの悲鳴を上げていた。誰も知らない、孤独な戦いが、彼の小さな胸の中で繰り広げられていた。
優は、学校で浴びせられた言葉が、まるで呪いのように頭の中から離れなかった。
「お前のせいで、お姉さんが大変な思いをしている」――もしかしたら、それは紛れもない事実なのかもしれない。いつも太陽のように明るく、天使のように優しい姉も、心の奥底では、病弱で手のかかる自分のことを、本当は負担に思っているのではないだろうか……。自分が存在することで、姉の輝かしい未来や、自由な人生を奪ってしまっているのではないだろうか……。
そんな暗く、救いのない不安が、まるで毒のように、優の純粋で小さな胸の中で、ゆっくりと、しかし確実に、その黒い影を広げていった。
――――――――――――
ある日の午後、凛はハンター協会の通信端末に、優の担任の先生から連絡を受けた。優が最近、学校で少し元気がないように見える、何かあったのではないか、という内容だった。普段の優の様子を知っているだけに、凛の心に一抹の不安がよぎった。その日の任務はまだ途中だったが、凛は他のハンターに後を託し、予定を早めに切り上げて、急いで優の通う小学校へと向かった。
校門をくぐり、職員室を訪ねると、担任である中年の女性教師が、どこか申し訳なさそうな、しかし曖昧な表情で凛を迎えた。
「凛さん、お忙しいところ、わざわざすみません。お呼び立てしてしまって……」
「いえ、優のことで何かあったのでしょうか?」
凛は心配そうに尋ねた。
「いえ、その……特に何か大きな問題があったというわけではないんです。ただ、ここ数日、優くんが少し、何と言いますか……、ボーッとしていることが多くて、授業中も上の空だったり、休み時間も一人でいることが増えたような気がしまして……。少しお疲れなのかもしれません。念のため、ご家庭でも様子を見てあげていただけますでしょうか」
教師の言葉は、どこか歯切れが悪く、核心を避けているような印象を与えた。しかし、凛は深く考えなかった。優はもともと体が弱い。季節の変わり目でもあるし、少し疲れが出ているだけなのだろう。そう自分に言い聞かせ、凛は教師に「ご心配いただきありがとうございます。家でよく様子を見てみます」と丁寧に頭を下げ、学校を後にした。まさか、その「少しの疲れ」の裏に、弟を蝕む深刻ないじめが隠されているとは、この時の凛は想像だにしていなかった。
家に帰ると、玄関のドアを開ける音が聞こえたのか、優がリビングからひょっこりと顔を出し、いつものように屈託のない笑顔で凛を出迎えてくれた。
「おかえりなさい、お姉ちゃん!」
「ただいま、優。今日は学校、どうだった? 先生から連絡があって、少し心配したんだよ」
「え? 先生から? ううん、なんでもないよ! 今日も楽しかったよ!」
優の笑顔は、いつもと寸分違わず、太陽のように明るかった。その無邪気な表情に、凛は先ほどまでの不安を少しだけ和らげた。しかし、担任の言葉が気にかかり、凛はその夜、いつも以上に優の様子を注意深く観察することにした。夕食を食べている時、テレビを見ている時、ふとした瞬間に見せる表情に、ほんのわずかな陰り、顔色の優れなさが見えるような気もしたが、それは自分の考えすぎ、気のせいかもしれない、と凛は結論付けた。
その夜、寝る前のいつもの時間に、凛は優に学校での出来事をそれとなく、もう少し詳しく聞いてみることにした。
「ねえ、優。今日、学校で何か面白いこととか、あった?」
優は一瞬、言葉に詰まり、視線をさまよわせた。しかし、すぐにいつもの笑顔を取り戻し、元気よく答えた。
「うん! あのね、今日ね、図工の時間があったんだ! それでね、粘土で面白いもの作ったんだよ! 見て見て!」
優はそう言って、ベッドの脇に置いてあった、少し形がいびつな、動物とも何とも言えないような不思議な形の粘土細工を、得意げに凛に見せてくれた。凛は「わあ、すごいね! これは何を作ったの?」と心から褒め、優の柔らかい髪を優しく撫でた。
その時、凛はふと、優の小さな手の甲に、赤く腫れた小さな擦り傷があることに気づいた。
「優、この手の傷、どうしたの? 痛くない?」
優は、凛の言葉に少し慌てた様子で、さっと手を布団の中に引っ込めた。
「あ、ああ、これ? これはね、今日、校庭で遊んでて、ちょっと転んじゃったんだ。へへへ。全然痛くないよ、大丈夫! もうすぐ治るから心配しないで!」
凛は、優の少し不自然な態度に、わずかな違和感を覚えた。しかし、優が何か隠しているのかもしれない、無理に聞き出すのは良くないだろう、そう思い、それ以上深く追求することはしなかった。優が話したくないことなら、無理に聞く必要はない。きっと、本当にただ転んだだけなのだろう。凛はそう自分を納得させた。その優しさが、後に取り返しのつかない後悔へと繋がることを、彼女はまだ知らなかった。
しかし、凛の知らないところで、優の学校での苦しみは、日に日に、そして確実に、その陰湿さを増していた。仲間外れにされるのは日常茶飯事で、持ち物を隠されたり、汚されたりすることも頻繁にあった。そして何よりも、悪意に満ちた悪口や陰口が、常に優の耳元で囁かれ続けた。「病弱」「お荷物」「邪魔者」――そういった言葉が、容赦なく優の心を切り刻んでいた。優は毎日、目に見えない刃で傷つけられ、心をすり減らし、痛めていた。
それでも優は、大好きな姉、凛に心配をかけたくない、その一心で、誰にも、何一つ相談することができなかった。学校の先生に心配されても、「大丈夫です、何でもありません」としか答えられなかった。いじめられていることを正直に話せば、きっとお姉ちゃんは悲しむだろう。そして、自分のせいで、またお姉ちゃんに苦労をかけてしまうことになる。世界を守るために戦っているお姉ちゃんに、自分の個人的な問題で負担をかけるわけにはいかない。そう思うと、優はたった一人で、その重すぎる苦しみに耐え続けるしかなかった。
そんな優にとって、唯一の救い、心の支えとなっていたのは、家に帰って姉の凛と過ごす、温かい時間だけだった。凛の優しい笑顔を見るだけで、一日中重くのしかかっていた心の痛みが、ほんの少しだけ軽くなる気がした。凛の穏やかで優しい声を聞いていると、学校での嫌な出来事を、一時的にでも忘れられるような気がした。だから優は、どんなに辛いことがあった日でも、凛の前では決して涙を見せず、いつも通りの「元気な弟」を演じようと必死に努めた。
しかし、その健気な努力も、もはや限界に近づいていた。毎日毎日、執拗に続く陰湿ないじめは、優のまだ柔らかく脆い幼い心を、確実に蝕み、ゆっくりと、しかし着実に、彼の精神を深い闇の淵へと追い詰めていっていった。
そして、ついに、その恐れていた運命の日は、やってきてしまった。
その日も、優は重い足取りで、いつものように小学校へ向かった。しかし、その日のいじめは、これまでの中でも特に酷く、執拗なものだった。休み時間、クラスの数人の主犯格の生徒たちに校舎裏に呼び出され、囲まれ、これまで以上に酷い言葉を浴びせられた。「お前なんか死ねばいいのに」、「お姉さんも、お前がいなければせいせいするよ」、「お前がいなければ、お姉さんはもっと楽になれるのに」、そして、抵抗する優の口に、無理やり虫の死骸が練りこまれた泥水を流し込まれた。心も体も、もう限界だった。屈辱と絶望感に打ちひしがれながら、優は、その日の帰り道、まるで足に鉛がついたかのように足取りも重く、俯きながら、とぼとぼと家路を急いだ。空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうだった。
家に帰り着くと、リビングには明かりがついておらず、凛はまだ任務から帰っていなかった。リビングのテーブルの上には、凛が今朝、優のために作ってくれたお弁当が、手つかずのまま、ぽつんと置かれていた。食欲など、まったくなかった。優は、重いランドセルを床に放り出すと、まるで何かに追われるように、自分の部屋に駆け込み、内側から鍵をかけた。
薄暗い自分の部屋に一人きりになると、それまで必死に堪えていた何かが、ぷつりと切れた。優は、その場に崩れ落ち、堰を切ったように涙が溢れ出してきた。嗚咽を漏らしながら、今日学校であった屈辱的な出来事、これまで毎日毎日繰り返されてきた辛いいじめの記憶、そして何よりも、「お前のせいで、お姉さんが大変な思いをしている」、「お前がいなければ、お姉さんはもっと楽になれるのに」、という、心に深く突き刺さった言葉が、何度も何度も、頭の中で悪夢のようにリフレインした。
もしかしたら、あいつらの言う通り、本当にそうなのかもしれない。お姉ちゃんは、いつも僕の前では笑顔で、世界一優しいけれど、それは僕に気を遣って、無理をしているだけなのかもしれない。病弱で、お金もかかって、いつも心配ばかりかけている僕のせいで、本当はやりたいこともできずに、お姉ちゃんの自由な時間や、輝かしいはずの人生を、僕が奪ってしまっているのかもしれない。僕さえいなければ……僕さえ、いなくなってしまえば……。
そんな絶望的な考えが、優の幼い心を、完全に真っ黒な闇で満たしていった。希望の光は、どこにも見えなかった。
その時、ふと、優の目に、勉強机の上に置かれた、一冊の小さなキャラクターもののメモ帳が飛び込んできた。それは、少し前に、凛が「これで、お姉ちゃんにお手紙書いてね」と言って、優のために買ってきてくれた、お気に入りのメモ帳だった。
優は、吸い寄せられるようにそれを手に取り、震える小さな手で、そばにあった鉛筆を握りしめた。そして、新しいページを開き、心のなかで渦巻いていた、誰にも言えなかった、最後の悲痛な叫びとも言える言葉を、一文字一文字、震える手で、ゆっくりと書き始めた。それは、彼の短い人生の、最後のメッセージだった。
優が、涙で滲む文字で書き綴った言葉は、短く、拙いものだったが、その裏には計り知れないほどの痛みと悲しみが込められていた。
『お姉ちゃんへ
いつも、ぼくのためにありがとう。
お姉ちゃんのこと、ほんとうにだいすきだよ。
ぼくが、びょうきでごめんね。
学校で、みんなにいろいろ言われて、すごくつらかったんだ。
ぼくがいなくなれば、お姉ちゃんはもっとらくになれるよね。
お姉ちゃんのじゆうをうばってごめんね。
めいわくばかりかけて、ほんとうにごめんね。
さようなら。
優より』
書き終えた優は、そのメモ帳を、自分の枕元に、そっと置いた。まるで大切な宝物を置くかのように。そして、静かに立ち上がり、ふらつく足で部屋の窓へと歩み寄った。ギィ、と重い音を立てて窓を開けると、外からは生ぬるい風が吹き込んできた。ちょうど夕暮れ時で、西の空が、まるで血のように、不気味なほど赤く燃えていた。その赤い光が、優の小さな痩せた体を、悲しく染め上げていた。
優は、最後に一度だけ、自分がいつも寝る前に窓から見上げていた星空を見上げた。まだ明るさが残る空には、一番星がかすかに輝いていた。遠く、手の届かない場所で瞬く星たちは、まるで自分の儚い未来を暗示しているかのようだった。
そして、優は深く息を吸い込み、意を決して、小さな体で窓枠に手をかけ、身を乗り出した。重力に従い、彼の体は、ふわりと宙に舞った。
――――――――――――
その日の夕暮れ、凛は珍しく、予定よりもかなり早くハンターとしての任務を終えることができた。今日は優の大好物である、ふわふわ卵のオムライスを作ってあげよう。ケチャップで可愛い絵を描いてあげたら喜ぶだろうか。そんなことを考えながら、凛は少し浮き立つような、軽い足取りで、二人の住むアパートへの家路を急いでいた。今日の任務は比較的スムーズに進んだため、いつもより早く優に会えることが、凛にとってはささやかな喜びだった。
アパートの古びた鉄製の階段を、二段飛ばしで駆け上がり、いつものように少し力を込めて玄関のドアを開けた。
「ただいまー! 優、早く帰れたよ!」
しかし、いつもならその声を聞きつけて、「おかえりー!」と元気いっぱいの声と共に、リビングから駆け寄ってきて、凛に飛びついてくるはずの優の姿が、今日はどこにも見当たらなかった。家の中は、しんと静まり返っていた。
「優? あれ、いないのかな? ただいまー!」
凛は少し不思議に思いながら、靴を脱ぎ、リビングへと足を踏み入れた。部屋の電気は消えたままで、薄暗い。テーブルの上には、朝、自分が用意したお弁当が、手つかずのまま置かれているのが目に入った。そして、床には、優の赤いランドセルが、いつも通り、無造作に放り出されている。優は、確かに学校から帰ってきているはずだった。
「優ー? どこにいるのー? おーい!」
凛は、少しだけ胸騒ぎを覚えながら、優の名前を呼びながら、家の中を探し始めた。トイレ、お風呂場、自分の部屋。どこにも優の姿はない。最後に残されたのは、優の部屋だった。そっとドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた。
部屋の中も薄暗かった。部屋はいつも通り、勉強机とベッド、教科書が並べられた棚があった。違ったところがあるといえば、ベッドの枕元に、何か小さなものが置かれていること、そして、窓が大きく開け放たれており、レースのカーテンが、外から吹き込む夕暮れの湿った風に、不気味に揺れていた。
「優……?」
凛は、言葉にならない、形容しがたい嫌な予感が背筋を駆け上るのを感じた。震える足で窓辺に近づき、窓の外、真下にあるアパートの裏庭に目をやった。
そして、凛の目に飛び込んできたのは、信じられない、信じたくない光景だった。
アパートの裏庭の、固いコンクリートの上に、小さな人影が、まるで打ち捨てられた人形のように、うつ伏せに倒れている。夕暮れの赤い光に照らされたその姿は、紛れもなく、見慣れた弟の、優の姿だった。
その瞬間、凛の心臓が、まるで氷の塊に変わってしまったかのように、ドクンと大きく跳ね、そして凍り付いたように感じた。全身の血の気が、サーッと引いていくのがわかった。頭の中が真っ白になり、思考が停止した。
「ゆううううううううう!!!!!」
それは、もはや人間の声とは思えない、喉が張り裂けんばかりの、悲鳴のような絶叫だった。凛は、我に返ると同時に、部屋を飛び出し、転がるようにしてアパートの階段を駆け下りた。
裏庭に辿り着いた時、凛の両足は自分の意思とは関係なく、ガクガクと激しく震えていた。地面に倒れている優の小さな体は、ぐったりとして、微動だにしない。その周りには、点々と、赤い染みが広がっていた。
「優! 優! しっかりして! 目を開けて! お姉ちゃんだよ!」
凛は、震える手で優の体を抱き起こし、必死にその名前を呼びかけ、頬を叩いた。しかし、優の目は固く閉じられたままで、何の反応も示さない。その体は、すでに生気が失われ、少しずつ冷たくなっていっていた。
その時凛は、アパートの部屋で見た、優の部屋の枕元に、何か小さなものが置かれていたことを思い出した。優の部屋に戻らなければ。凛は、混乱する頭でそう判断し、優の体をそっと地面に横たえると、再び階段を駆け上がり、優の部屋へと飛び込んだ。
そして、枕元に置かれていた、あの小さなメモ帳を、震える手で手に取った。祈るような気持ちでページを開くと、そこに書かれていた、短い、しかしあまりにも残酷な言葉が、凛の目に飛び込んできた。
『お姉ちゃんへ
いつも、ぼくのためにありがとう。
お姉ちゃんのこと、ほんとうにだいすきだよ。
ぼくが、びょうきでごめんね。
学校で、みんなにいろいろ言われて、すごくつらかったんだ。
ぼくがいなくなれば、お姉ちゃんはもっとらくになれるよね。
お姉ちゃんのじゆうをうばってごめんね。
めいわくばかりかけて、ほんとうにごめんね。
さようなら。
優より』
その言葉を読んだ瞬間、凛の頭の中が、本当に真っ白になった。理解したくなかった現実が、容赦なく突きつけられた。優が、自分で、自らの命を絶ったのだと。その事実を認識した時、凛の心は、まるで底の見えない、冷たくて暗い奈落の底へと、突き落とされたかのようだった。立っていることすらできず、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「嘘だ……何かの間違いだ……。嘘だと言ってよ……優……。お姉ちゃん、今日、優の好きなオムライス作ってあげるんだよ……? 優……」
凛は、再び裏庭へと駆け下り、優の、もう二度と温もりを取り戻すことのない、冷たくなった小さな体を、力の限り抱きしめた。そして、堰を切ったように、声を上げて泣き叫んだ。
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!!!」
その慟哭は、静かな住宅街に、いつまでも、いつまでも響き渡った。優の小さな体は、もう二度と、あの太陽のような笑顔を見せてくれることはない。凛の腕の中で、ただただ静かに、永遠の眠りについているだけだった。
優がいなくなった。この世でたった一人の、何よりも大切だった弟が、自分の知らないうちに、深い孤独と絶望の中で、短い生涯を終えてしまった。
凛にとって、優は世界の全てであり、生きる理由そのものだった。優の笑顔を守るためなら、どんな辛いことだって乗り越えられた。優がそばにいてくれるから、凛は最強のS級ハンターとして、強く、明るく生きることができたのだ。
それなのに……もう、優はいない。この腕の中にいるのに、もうどこにもいない。
凛の心は、受け止めきれないほどの深い悲しみと、出口のない絶望によって、完全に打ち砕かれ、粉々になってしまった。優を失ってしまったこの世界に、もはや何の価値も、何の意味も見出すことができなかった。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう? なぜ、あんなにも優しかった優が、一人でこんなにも苦しまなければならなかったのだろう? なぜ、自分は、一番近くにいたはずの自分は、優の心の悲鳴に、その苦しみに、気づいてあげることができなかったのだろう? あの日の手の傷、担任の先生の言葉、時折見せた翳りのある表情…。サインはあったはずなのに。
激しい後悔と、自分自身を責める痛烈な自責の念が、まるで鋭いナイフのように、凛の心を何度も何度も、容赦なく突き刺し、苛んだ。
そして、凛は、優が最後に残した言葉の、本当の意味に気づいた。
(「ぼくがいなくなれば、お姉ちゃんはもっとらくになれるよね」)
優は、自分が姉にとって、重荷であり、負担になっていると、本気で思い込んでいたのだ。学校での心ない言葉を、真に受けてしまっていたのだ。
「違う……! 全然違うんだよ、優……! 優は、お姉ちゃんの負担なんかじゃなかった……! 優がいたから、お姉ちゃんは頑張れたんだ……! 優こそが、お姉ちゃんの生きる希望だったんだよ……!」
凛は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、天を仰ぎ、そう叫んだ。しかし、その言葉は、もう優には届かない。優の純粋で、あまりにも優しすぎた心が、他者の無責任で残酷な言葉によって深く傷つけられ、そして、救いのない絶望の淵に追いやられてしまったのだ。
その残酷な事実が、凛の心を、さらに深く、修復不可能なまでに抉った。
優がいなくなった世界は、まるで色を失ったモノクロームの絵のように、色褪せて見えた。太陽は輝きを失い、空は鉛色に濁り、ただただ冷たくて、空虚な場所。凛は、そんな虚無の世界に、これから先、一人で生きていく意味を、完全に見失ってしまった。
最愛の弟を失った深い悲しみと、自分自身を責め続ける苦しみ、そして何よりも、たった一人の大切な家族を、すぐそばにいながら救えなかったという、耐え難いほどの無力感。それら全ての負の感情が、どす黒い渦となって凛の心の中で混ざり合い、ゆっくりと、しかし確実に、彼女の精神を蝕んでいった。
そして、その底なしの悲しみと絶望は、やがて、静かに燃え上がる、漆黒の怒りへと変貌していった。
優を、こんな非道な目に遭わせたのは誰だ? 優の純粋な心を傷つけ、苦しめたのは、一体誰なんだ?
凛の脳裏に、優をいじめていた子供たちの憎らしい顔が、そして、優のSOSに気づいていながら、あるいは気づこうとせずに、「問題ない」と繰り返した、あの担任教師の顔が、はっきりと浮かび上がった。
許せない。絶対に、許さない。あいつらだけは、絶対に。
優の死は、凛の中で、何かが決定的に、そして永遠に壊れてしまった音だった。これまで、強い責任感と優しさによって、心の奥底に必死に押し込めていた、人間の持つ暗く破壊的な感情――憎悪、復讐心といった漆黒の感情が、決壊したダムのように、堰を切って溢れ出してきた。
優を奪った、この理不尽で残酷な世界そのものを、心の底から憎んだ。
そして、冷たく燃える復讐の炎が、凛の荒廃した心の中で、静かに、しかし力強く、その勢いを増し始めていた。
――――――――――――
優の葬儀は、関係者だけで、ひっそりと執り行われた。遠い親戚もいたはずだが、両親が蒸発して以来、連絡を取ることもなく、二人の境遇を知る者はほとんどいなかった。ハンター協会の日本支部が、S級ハンターである凛への配慮と、その功績に報いる形で、葬儀の全てを手配してくれた。小さな、白い骨壺を、まるで壊れ物を扱うかのように、しかし力強く抱きしめながら、凛は、葬儀の間、ただ一人、静かに涙を流し続けた。感情を表に出すことも少なく、ただ虚空を見つめている時間が多かった。優のいないこの世界は、あまりにも冷たく、空虚で、現実味がなかった。まるで終わりのない悪夢の中に、自分だけが取り残されてしまったかのようだった。
葬儀が終わり、数日が経った後、凛は、重い足取りで、優との思い出が詰まったあのアパートに戻った。優の部屋のドアを開けると、そこは、あの日、優が窓から身を投げた瞬間から、時間が完全に止まったままだった。勉強机の上には、優が大切にしていたヒーローものの絵本や、少し形が歪んだ、あの粘土細工が、そのまま置かれている。そして、枕元には、優が最後に握りしめたであろう、あの小さなメモ帳が、凛の心を締め付け、呼吸すら困難にさせた。
凛は、まるで聖遺物に触れるかのように、そのメモ帳をそっと手に取った。ページをめくると、優の、少し震えた、幼い文字が、痛いほどに凛の心に突き刺さる。
(「ぼくがいなくなれば、お姉ちゃんはもっとらくになれるよね」)
違う。そうじゃないんだ、優。優がいなくなってしまって、私は、もうどうやって生きていけばいいのか分からない。生きる意味なんて、どこにも見つけられないんだ。
凛は、声にならない叫びを、心の中で繰り返した。そして、ゆっくりと立ち上がると、何の感情も浮かばない、能面のような表情で、優の部屋を後にした。その瞳の奥には、かつての輝きは微塵もなく、ただ深く、冷たい闇だけが広がっていた。
その日から、凛は完全に変わってしまった。かつての、誰からも愛された太陽のような明るさは完全に消え失せ、その美しい瞳には、生きる意志を感じさせない、虚ろで冷たい光だけが宿るようになった。言葉数も極端に減り、他人との接触を避け、常に近寄りがたいほど陰鬱で、冷徹な雰囲気をその身に纏うようになった。周囲の人々は、彼女のあまりの変貌ぶりに戸惑い、心配したが、彼女が放つ拒絶のオーラに、誰も声をかけることすらできなかった。
それでも、ハンターとしての任務は、以前にも増して、機械的に、そして過酷なまでに遂行し続けた。どんなに危険で強力な魔物が相手でも、一切臆することなく、単独で立ち向かっていった。その戦いぶりは、まるで自分の命など、塵芥ほどにも価値がないとでも言うかのように、自暴自棄で、捨て身の覚悟に満ちていた。皮肉なことに、その絶望は彼女の戦闘能力をさらに引き上げ、その強さは人間離れした領域へと達していった。他のハンターたちは、彼女の圧倒的な強さと、その内にある深い闇に気づきながらも、ただ遠巻きに見守ることしかできなかった。彼女の周りには、触れれば凍傷を負いそうなほどの、絶対零度の冷酷なオーラが常に漂っていたのだ。
そして、優の四十九日が終わった、ある静かな夜。凛は、黒いコートに身を包み、優の小学校の担任だった、あの中年女性教師の自宅マンションを訪れた。
インターホンを鳴らすと、しばらくの間を置いて、ドアチェーンをかけたまま、教師が警戒するようにドアを少しだけ開けた。ドアの隙間から凛の顔が見えた瞬間、教師の顔から血の気が引き、怯えたような表情に変わった。
「あ…あの、凛さん……。こんな夜分に、どうなさったんですか……?」
「先生。少しだけ、お話があります。中に入れていただけますか」
凛の声は、以前のような快活な響きは一切なく、抑揚のない、低く、氷のように冷たいものだった。
教師は、凛のただならぬ雰囲気と、その瞳の奥に宿る底知れない闇に何かを察したように、顔をさらに青ざめさせ、震える手でドアチェーンを外した。
「は、はい……どうぞ、お入りください……」
リビングに通された凛は、ソファに座ることもなく、部屋の中央に立ったまま、冷たい無表情で教師を見つめた。その視線は、まるで獲物を品定めする捕食者のように鋭く、教師は居心地悪そうに視線を泳がせた。
「先生は、優が、クラスでいじめを受けていたことを、ご存知でしたよね?」
凛の問いは、単刀直入で、一切の感情が込められていなかった。
教師は、明らかに動揺し、目を激しく泳がせながら、しどろもどろに答えた。
「いじ……め、ですか? いえ、その、いじめというほど、深刻なものでは……。子供たちの間でよくある、ちょっとした、行き違いのようなものだと……私は、そう認識しておりましたが……」
その言葉を聞いた瞬間、凛の唇の端に、冷ややかで、侮蔑に満ちた笑みが浮かんだ。
「行き違い、ですか。その、先生がおっしゃる『ちょっとした行き違い』で、私の大切な弟は、自ら命を絶ちました」
教師は、はっと息を呑み、言葉を完全に失い、ただその場で立ち尽くした。顔は蒼白になり、冷や汗が額を伝っていた。
「先生は、優が苦しんでいることに、薄々気づいていたはずです。私が何度か学校に連絡を入れた時も、様子がおかしいと伝えた時も、先生は決まって『特に何も問題はありません』『大丈夫ですよ』と、そうお答えになりましたね。なぜですか? なぜ、見て見ぬふりをしたのですか? なぜ、助けを求める小さな声に、耳を傾けようとしなかったのですか?」
凛の声は、終始静かだったが、その奥には、今にも噴火しそうなマグマのような、抑えきれないほどの激しい怒りが、はっきりと感じられた。
教師は、もはや恐怖で顔を歪め、震える声で、言い訳をするように答えた。
「も、申し訳ありません……! 本当に……。その、学校としては、事を荒立てたくないというか……、他の保護者の方々との関係もございますし……、いわゆる、事なかれ主義というか……、穏便に済ませたいという、空気が……」
その、自己保身と責任逃れに満ちた言葉を聞いた瞬間、凛の中で、かろうじて繋ぎ止められていた最後の理性の糸が、ぷつりと、決定的に切れた。
「事なかれ主義……? あなたたちの、そのくだらない保身と怠慢のせいで……! 優は……! 私のたった一人の弟は、死んだんですよ!!!」
次の瞬間、凛の体から、これまで抑え込んでいた強大で禍々しい魔力が、漆黒のオーラとなって溢れ出した。部屋の温度が急激に下がり、空気が氷のように冷たく、重くなった。目に見えない、しかし圧倒的なプレッシャーが、教師の全身を押し潰さんと襲いかかった。
「ひっ……! ああああああっ!!」
教師は、人間には耐えられないほどの恐怖と圧力に晒され、短い悲鳴を上げると、そのまま床に崩れ落ち、意識を失った。凛は、床に倒れ伏し、泡を吹いて痙攣する教師の姿を、何の感情も浮かばない、冷酷な瞳で見下ろしていた。その瞳には、もはや一片の慈悲も存在しなかった。
その翌朝、その教師は、自宅マンションの階段から足を踏み外して転落し、頭を強く打って死亡した、と報道された。警察は事故として処理したが、その死に不審な点がないわけではなかった。しかし、現場には争った形跡も、第三者の痕跡も一切残されておらず、真相が明らかになることはなかった。もちろん、その「事故」を引き起こしたのが誰なのかを知る者は、凛自身を除いて、誰もいなかった。
しかし、凛の復讐は、これで終わりではなかった。それどころか、まだ始まったばかりだった。凛は、ハンターとしての情報収集能力と、ハッキング技術を駆使して、優を直接いじめていた子供たちの名前と住所を、全て正確に割り出した。そして、一人、また一人と、その子供たちの前に、まるで死神のように現れた。
凛は、彼らに直接的な暴力を振るうことはしなかった。それは、あまりにも生ぬるい復讐だと考えたからだ。代わりに、彼女は自身のS級ハンターとしての能力――物質を操作したり、局所的な自然現象を引き起こしたりする力を巧妙に使い、彼らの死を、不幸な事故や、原因不明の突然死、あるいは他の犯罪に巻き込まれたかのように見せかけた。ある少年は、自宅で発生した原因不明の火災で。ある少女は、下校途中に起きた不可解な交通事故で。またある少年は、持病の悪化による突然死として。次々と、優を苦しめた者たちは、この世からその姿を消していった。
警察やハンター協会も、短期間に特定の小学校の生徒が次々と死亡するという異常事態に、捜査を開始した。しかし、それぞれの死は巧妙に偽装されており、関連性を見出すことは困難だった。たとえ疑いの目が凛に向けられたとしても、彼女は世界最高峰のS級ハンターであり、完璧なアリバイも用意されていた。誰も、彼女の犯行を立証することはできなかった。
優を直接苦しめた者たちへの復讐を全て終えた時、凛の心には、しかし、以前のような焼け付くような激しい怒りは、もはや残っていなかった。だが、代わりに満たされるような達成感や、安堵感が訪れることもなかった。優はもう、二度と戻ってはこない。どんなに憎い相手をこの世から消し去っても、失われた弟の命と、あの温かい笑顔は、決して戻らないのだ。
ただ、底なしの虚無感だけが、まるで冷たい霧のように、凛の心をどこまでも深く、そして静かに包み込んでいった。
世界は、何も変わらない。自分がこれほどの憎しみを燃やし、手を汚して復讐を果たしても、世界は以前と何一つ変わらず、平然と回り続けている。優が、あんなにも理不尽な苦しみの末に死んでいったというのに、人々はいつもと同じように笑い、愛し合い、日常を送り、生きている。その、あまりにも当たり前で、残酷な現実が、凛にはどうしても耐えられなかった。
なぜ、優だけが、あんな酷い目に遭わなければならなかったのか? なぜ、誰よりも優しく、誰よりも純粋だった優が、こんなにも醜く、残酷な世界で、絶望して死んでいかなければならなかったのか?
凛の中で、特定の個人への憎しみは薄れ、代わりに、この不条理で、優しさのかけらもない、世界そのものに対する、底知れない漆黒の憎悪が、ゆっくりと、しかし確実に膨れ上がっていった。優のような存在が幸福になれない、こんな世界は、間違っている。
そして、ついに凛は、一つの、恐ろしい結論に達した。
こんな世界は、もう、いらない。優が存在しない、優を死に追いやったこんな世界に、もはや存在する価値など、微塵もない。
かつて、人類の希望と称され、世界を魔物の脅威から救った最強のS級ハンターは、最愛の弟を失った深い悲しみと、癒えることのない絶望、そして世界への底なしの憎悪によって、今まさに、世界そのものを滅ぼす存在――孤独な魔王へと、その姿を変貌させようとしていた。彼女の心は、もはやかつての温かい光を完全に失い、どこまでも黒く、どこまでも深く、そして氷のように冷たい闇に、完全に染まっていた。
孤独の魔王――それが、これからの凛の、唯一つの名前であり、存在理由となった。
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孤独の魔王となった凛は、かつて持っていた人間としての感情――喜び、悲しみ、怒り、愛情といったもののほとんどを、心の奥底に封印したかのように失っていた。彼女の心を支配し、満たしているのは、最愛の弟、優を失った、氷のように冷たくて重い悲しみと、この優しき者を切り捨てる残酷な世界に対する、底なしの、漆黒の憎悪だけだった。
かつて、人々を守るために振るわれたS級ハンターとしての圧倒的な力は、今や、ただひたすらな破壊のためだけに使われた。凛は、かつて自分が命を懸けて守ろうとしたこの世界を、一切の躊躇も、一片の慈悲もなく、容赦なく蹂躙し始めた。
最初に彼女がその破壊の矛先を向けたのは、魔物たちが依然として跋扈し、人類が立ち入ることのできない危険地帯とされていた場所だった。しかし、凛の目的は、もはや魔物を討伐することではなかった。彼女は、その地域の上空に静止すると、自身の内に秘められた、人知を超えた強大な魔力を一気に解放した。天を衝くほどの光の柱が立ち上り、次の瞬間、その地域一帯は、文字通り、地図の上から消滅した。大地は巨大なクレーターのように抉られ、空は終末を思わせる赤黒い色に染まり、そこには、かつて存在した森も、山も、そして魔物たちさえも、何もかもが存在しない、完全なる「無」の空間だけが、不気味に広がっていた。
その常軌を逸した、あまりにも異様な光景は、衛星映像や偵察ドローンの記録を通じて、瞬く間に世界中の人々に伝えられ、計り知れないほどの衝撃と恐怖を与えた。かつて人類の希望であり、救世主とまで称えられたS級ハンター凛が、なぜ、このような狂気じみた破壊行為を行うのか。魔物以上の脅威となってしまった彼女の行動原理を、誰も理解することができなかった。ハンター協会は、かつての英雄を止めるべく、残存する全てのS級ハンターを含む最高戦力を投入し、あらゆる手段を講じて凛の説得と、必要であれば武力による鎮圧を試みた。しかし、彼女の力は、すでに人類の、いや、生物の限界を遥かに超えた領域に達しており、誰も彼女に近づくことすらできず、有効なダメージを与えることはおろか、その体に傷一つ負わせることさえできなかった。彼女は、もはや人間ではなく、神か、あるいは悪魔に近い存在へと変貌していたのだ。
凛の破壊の対象は、危険地帯だけに留まらなかった。まるで定められた運命を辿るかのように、次第に、人々が暮らす都市部へと、その範囲を広げていった。彼女は、かつて優と二人で手を繋いで歩いた公園を、一緒にアイスクリームを食べた商店街を、夜空を見上げた丘を、そして、二人が肩を寄せ合って暮らしたあのアパートがあった街を、一つ、また一つと、何の感情も見せずに、容赦なく蹂躙し、破壊し尽くしていった。街が崩壊し、炎に包まれ、響き渡る人々の悲鳴や、絶望の叫びは、しかし、彼女の耳には何も届かなかった。まるで、世界から音が消えたかのように。彼女の心は、優を失ったあの日から、ずっと冷たく、からっぽな虚無で満たされており、他者の苦痛や感情など、もはやどうでもよかったのだ。ただ、この世界から、優との思い出の痕跡を消し去ることだけが、彼女に残された唯一の行為であるかのように。
世界は、かつての魔物の脅威とは比較にならないほどの、絶対的な恐怖に包まれた。魔物の脅威は、ハンターという希望があった。しかし今度は、その希望であったはずの存在自身が、人類に牙を剥き、滅亡の危機をもたらしていたのだ。各国政府は、残された軍事力と科学技術を結集し、協力して凛に対抗しようとしたが、核兵器すら通用しない彼女の圧倒的な力の前に、あらゆる抵抗は無意味であり、有効な対抗手段を何一つ見つけることができなかった。人類は、ただ、為す術もなく、終末が訪れるのを待つしかなかった。
凛は、ただ一人、この滅びゆく世界で、破壊と蹂躙を続けた。その黒衣に身を包んだ姿は、遠目には、深い悲しみを背負い、永遠の孤独を彷徨う、寂しげな影のように見えた。彼女が破壊しているのは、単なる物理的な世界そのものではなく、優が存在しない、優を死に追いやった、この不条理で残酷な「現実」そのものなのかもしれない。優がいないこの世界に、彼女は生きる意味を完全に見失ってしまった。だから、全てを、自分自身も含めて、始まりも終わりもない「無」に帰そうとしているのかもしれない。
やがて、凛の蹂躙によって、世界はゆっくりと、しかし確実に、その終わりを迎え始めた。かつて、何百万、何千万もの人々が暮らし、賑やかだった大都市は、ことごとく瓦礫の山と化し、緑豊かだった美しい大地は、黒く焼け焦げ、不毛の荒野へと姿を変えた。空は常に厚い暗雲に覆われ、太陽の光が地上に届くことはなくなった。人々の姿は、どこにも見当たらない。生き残ったわずかな人々も、地下深くへと身を隠し、息を潜めているだけだった。地上に残されたのは、無慈悲な蹂躙の爪痕と、死の世界のような、冷たい静寂だけだった。
凛は、もはや生命の気配が一切感じられなくなった、全てが無に帰した世界の、その中央と思われる場所に、静かに立ち尽くした。彼女の周りには、地平線の果てまで、見渡す限り、蹂躙し尽くされた不毛の大地が広がっている。かつてそこにあったはずの色鮮やかな建物も、人々の営みの痕跡も、緑の木々も、青い海も、全てが消え去り、ただ灰色と黒だけの、モノクロームの世界が広がっていた。
彼女は、完全に、一人だった。
優がいなくなった、あの日から。本当の意味で、ずっと、ずっと一人だったのだ。
この手で世界を蹂躙し尽くしても、心の奥底に巣食う、この凍えるような孤独が癒えることは、決してなかった。むしろ、自分の周りから全ての音と色が消え去り、何もかもが無くなったことで、その冷たくて重い寂しさが、より一層深く、鋭く、彼女の心を蝕んでいくのを感じた。
「優……」
凛は、ひび割れた乾いた唇で、愛しい弟の名前を、か細く呟いた。しかし、風の音以外に、返ってくる声は、もうどこにもなかった。この広大な、死の世界に、生きているのは自分一人だけなのだから。
彼女は、自分が、一体何をしてしまったのかを、遅まきながら、しかしはっきりと理解した。数えきれないほどの罪なき命を奪い、かつて守ろうとした美しい世界を、自らの手で滅ぼしてしまった。それは、どんな理由があろうとも、決して許されることではない、万死に値する大罪だ。
しかし、不思議なことに、後悔の念は、水面に落ちた小石が立てる波紋のように、彼女の心をわずかに掠めるだけで、深く沈んでいくことはなかった。彼女にとって、優のいないこの残酷な世界で、たった一人で生き続けることは、それ以上に耐えられない、地獄のような苦痛だったのだ。
全てを蹂躙し尽くした今、彼女の心に残されたのは、どこまでも深い孤独と、救いのない、漆黒の絶望だけだった。
もう、何もかもが終わったのだ。優のいないこの世界に、彼女が生きる意味も、存在する理由も、もうどこにも、何一つとしてない。
凛は、全てを悟ったかのように、静かに目を閉じた。そして、自身の内に残された、最後の、そして最大の魔力を、ゆっくりと解放し始めた。それは、これまで世界を蹂躙してきた力とは比較にならないほど、次元の違う、創造と破壊の根源に触れるような、純粋で強大なエネルギーの奔流だった。
次の瞬間、眩いほどの白い光が、凛の体から放たれ、終焉を迎えた世界全体を、優しく、しかし抗うことのできない力で包み込んだ。
そして、全ては、光の中に溶け込み、絶対的な「無」に帰した。
孤独の魔王――かつて人類の希望と称され、世界を救った一人の少女は、最愛の弟を失った計り知れない悲しみと、出口のない絶望に心を蝕まれ、その果てに、自らの手で終わらせ、そして自らもまた、その終焉を迎えた世界の中に、静かに消えていった。
後に残されたのは、完全なる無音の冷たい静寂と言葉にならない、どこまでも深い悲しみの余韻だけだった。
連載作品を書いてたらこの物語を思いついたので、突如として書きました。読んでいて気分が良くなかったかもしれませんが、連載作品の書いている途中に時々、鬱作品を書くので、良ければ楽しみにしててください。