第十話「陰」
鉄のプレートにはタチバナ研究所と刻まれている。
自動ドアが開き、細い通路を通る。すると、壁から白い霧が噴射される。病院のようなにおいがする。どうやら消毒液のようだ。
「すまないね。決まりなんだ」
白衣で手を拭いながらタチバナ博士が言う。
「サン、大丈夫か?」
サンの方を見ると濡れた体をぶるぶると震わせていた。
「寒くて敵わん」
二つ目のドアを抜けると、開かれた場所に出た。全体的に白を基調としていて、目がちかちかする。そして、アルコールのにおい。
白い防護服を着たもの、博士と同じように白衣を着た学者っぽい人々がいた。そして、中央には見慣れない巨大な装置がある。いくつもケーブルが伸びていて、そのケーブルがまるで生きているかのように動いている。これはいったい何だろうか。
「私が天才と呼ばれる所以さ」
その装置はケースが取り付けられていて、その中には緑色をした液体が満たされている。
褐色の肉塊が液体の中で呼吸している。
「『マザー』と呼んでいる。クローン生成ではなく、母胎からの出産を完全再現する。父親の遺伝子と母親の遺伝子さえあれば可能だよ」
嬉々として語る博士に、寒気がした。
「倫理的に考えて……なんてつまらないことを考えるなよ。倫理や道徳なんてものに不文律はない。時の移ろいと共に変化するものだ。それに……これは完成していない。何度も実験を重ねていくしかない」
右腕にルーナの手。彼女も震えていた。
「私はイヌカイのように皆を統べるような話術もカリスマ性とやらもない。そもそも、人付き合いというのが苦手でね。イヌカイは本当に世界を救おうと考えている。そんな姿に私みたいな人間も突き動かされた」
博士がマザーに近づき、そっと手を触れる。すると、褐色がゆっくりと動いた。
「人付き合いが苦手な私にとって、母は唯一の理解者だった。そして、私の才能をいち早く発見したのもまた母だった。マザーコンプレックスと笑われてもいい。私は母を愛していた。だが、もうその母には会えない」
死んでしまえば会うことはできない。
博士は寂しそうにそう呟いた。
「場所を変えよう。次は『ハコブネ』を見せてあげるよ」
再びいくつかのドアを抜ける。今度は、吹き抜けのある空間に出た。
「本物だよ」
ハコブネは所謂、動物園だった。無数の檻があり、飼育員の姿もある。過去の大戦以前から大切に育てられた本物の動物。獣の臭いもする。糞尿の臭いもする。
「驚いたかい? 私も最初は驚いたよ。図鑑でしか見たことなかったんでね。ここには牛も馬も熊もいる。鳥だっている。つがいでね」
「つがいで?」
「奇跡だよ。元はシェルター開発に携わった富裕層のペットだった。彼は地下に動物園を作ろうと計画していた。志半ばで力尽きたが、こうして我々が夢を叶えているのさ。いつの日か、疑似肉ではなく、本物のステーキを食べられる日が来るかもしれない」
「それは……凄いですね」
サンの姿が見えないと思ったら、檻の中の犬と睨めっこしていた。吠えられていた。
ルーナはよちよち歩くペンギンを見ていた。
「リバース・アースを放ち、地上を浄化すれば檻なんて必要ない。各々が各々の暮らしたい場所で生きていける。その日が来るのを私は待っている」
「成功させたいですね。ぼくも、待ってます」
「嬉しいね。シジマさんが希望を託した青年にそう言われると」
博士は照れくさそうに言った。
「シジマさんはね、このシェルター出身なのは聞いたかい?」
「はい」
「あの才能が途絶えなくて良かった。人類の損失になるところだった」
「ぼくは……」
「大丈夫だリョウジ君。自信を持て。この天才も期待しているのだから」
「プレッシャーになりますね」
「そう言うな。リバース・アースを実用段階までするにはまだまだ時間がかかる。その間に人形を作ってみるといい。幸い、このシェルターには人形師がいる。もう引退して最近は人工太陽の下で日焼けしているがね。その人が使っていた工房を自由に使っていいとのことだ。遠慮せずに使いなさい」
あの人は職人だったのか。
「そうだ、バイク。あれも回収しておいたよ」
「本当ですか。申し訳ないです」
「ワンちゃんが昨日こっそり伝えに来たんだ」
サンが……。気になっていたのでありがたい。
「難しいことは我々に任せてくれ。ルーナ君やワンちゃんと共にどしっと構えて待っていてくれ。計画が完遂した暁には大地を一緒に踏もう」
博士のひょろりとした白い手が差し出される。手を握り返した。
「ぼくは人形師になります」
ぼくは天才に誓った。
翌朝、双子に工房まで案内してもらった。工房は整頓されていた。片隅にはあのバイクも置かれていた。搬入するのは大変だったろう。ここの人たちは面倒見が良過ぎる。
「私たちが掃除したのよ」
「あたしたちに感謝しなさい」
礼を言うと満足した様子で帰っていった。入れ違いでサンがやって来る。口には鞘に納まった刃物を咥えていた。それを「ん」とぼくに突き出す。受け取る。
「リョウジ、覚悟は決まったんだな」
「ああ。作るよ」
「じゃあ、始めるか」
サンが停止し、モーター音がする。そして口を開く。
「始めるぞ」
その声は忘れられない。シジマさんの強い声だった。録音されたテープを再生しているのだろう。的確な指導だった。目の前の材料を成形していく。
「やるじゃないか。悪くない」
再生し終え、普段のサンに戻る。
「どうだろう。まだ納得いかない」
一先ず、形にはなったそれを見る。どこかまだ嘘っぽい。作り物だとすぐに見抜かれてしまう。
「そうすぐに上達はしないさ。千里の道も一歩より。石の上にも三年」
「そうだな。にしても」
シジマさんが愛用していたナイフをまじまじと眺める。
「これはよく切れるな」
「もう採掘できない金属で作られている。あいつの師匠が持っていたものを真似して作ったらしい」
コーヒーを飲みながらくつろぐ。もう集中力がない。今日はお休みだ。
「ルーナは?」
「ルーナは双子と遊んでいるよ。リサはショッピングだ」
「そっか」
もう部屋に戻ろう。そう思ってドアに施錠していると、誰かの叫びが廊下に響き渡る。どこからだ。何があった。走り出す。
「あ、リョウジ!」
壁にもたれているクライネを見つける。腕が破損している。ただごとではない様子だ。
「どうした」
アイネとルーナの姿はない。一緒にいたはずではないのか。
「人形が……」
「人形?」
「急に襲い掛かってきたの。それでルーナを守ろうとしてアイネが庇って……あたしはあんたに助けを求めるために来たの」
「場所を教えてくれ」
クライネのことはサンに任せ、その場所に向かう。
たどり着いた噴水広場には人だかりができていた。その中心。明らかに変な挙動をする人形がルーナを掴んでいた。その人形と対峙しているのは損傷を負ったアイネだった。階段を駆け下りる。近くにいたイヌカイを発見する。
「イヌカイさん!」
「リョウジ君、あ」
彼の言葉を遮るように叫ぶ。
「分解してもいいですか」
イヌカイは「大丈夫」と返事をした。確認し、了承してもらえた。
ここは腕の見せ所だ。
人形師は人形を作れる。だからこそ、壊すのにも慣れている。
「リョウジ、危ないよ」
アイネが腕を伸ばしてぼくを止めようとする。
「協力してくれアイネ。十秒でいい。あいつを食い止めてくれ」
「無茶言うね」
「できないのか?」
「やってみる」
「頼んだ」
アイネが暴走ロボットに飛び掛かる。ロボットはルーナを盾にする。ルーナは腕から出ようと必死に動く。その時、隙が生まれた。一瞬でアイネはロボットの両脚を抑える。
「リョウジ、はやく」
「助かる」
ロボットの背後に回る。鞘からナイフを抜き取る。首筋に刃を立て、開く。脊椎が姿を見せる。このロボットは人為的に暴走している。いや、これは暴走ではなくそう動くようにプログラミングされている。このロボットは正常に動いている。
中身を見れば分かる。これは大量生産された量産型。しかし、電脳ユニットは加工が施されている。
一体誰が? 何の目的で?
一旦、そこで考えるのを止める。そして、掴んだ。ナイフを一気に上に上げる。首から後頭部、頭頂部にまで切り裂く。ピンク色をした電脳が外部に晒される。嫌な感触がする。それを一気に引きずり出す。ケーブルが切れる音。液体が噴き出す。
ロボットは膝から崩れ落ちていく。ルーナは無事にアイネが抱きしめていた。
手についたオイルを頬で拭う。
できた。
どっと疲れが出てくる。慣れないことをしたからか。
イヌカイがぼくの肩を叩く。
「素晴らしい腕前だ。大丈夫か?」
「はい。疲れましたが」
彼はぼくらに頭を下げる。
「危険な目に合わせて本当にすまない。ルーナ君も」
「平気です」
ルーナの声が聞こえた。
「リョウジが来てくれたから」
「ルーナ……」
そっとルーナの肩に手を回す。体が震えていた。
「ちょっと、私には?」
アイネが頬を膨らませてこちらを見ていた。
「アイネもありがとう」
「いーえ。どういたしまして」
ロボットの残骸、壊れた人形の疑似眼球と目が合う。その瞳には感情もない。
けれども、何か嫌なものを感じた。