第一話「男と名前のない犬」
早起きは三文の徳である。
誰に教わったのかは忘れたが、いい言葉であるのには違いない。
一日は平等に二十四時間で、早くに行動するに越したことはない。
全ての人に平等に与えられるものは時間と、やがて訪れる死くらいしかないのだから。
エレベーターのドアが静かに開く。
目的地であるカフェは出てすぐのところにある。客はまばらで、空席が目立つ。窓際の椅子に座ると、すぐに店員がやって来て、オーダーを聞いてくる。いつものようにコーヒーを注文し、しばらく待つ。壁に貼られた「禁煙禁止」のポスターを二度見してから煙草を咥える。ライターを取り出したところでカウンターからコーヒーを持った店員が来た。
「お客様。店内は禁煙です」
ライターをテーブルに置き、無言でポスターを指さす。彼も視線を動かし、「ありゃ」と間抜けな声を出した。
「すぐに作り直しますね」
湯気の立ったコーヒーを置き、慌てた様子でポスターを強引に剥がす。改めて、
「店内は禁煙です」
申し訳なさそうにそのセリフを言った。彼に免じて、喫煙は控えた。
「このポスターを作ったのは誰だ?」
「店長だったと思います」
灰色の肺に、骸骨のマーク。そこに強調された「禁煙禁止」というアンバランスな、それでいて風刺的とも言える。
「コーヒーを淹れるより、デザイナーの方が向いているかもな」
「伝えておきましょうか?」
「いや、いい。失敗は誰にでもある」
「間違いないです」
店員はお辞儀をし、カウンターへと戻り、ポスターを丸めてゴミ箱に放り込んだ。
この店のコーヒーは美味い。ただ、パンは不味い。あれはパンではなく、段ボールを齧っているような惨めな気分になる。
一服したい気分になったので会計を済まし、カフェを出た。
再び、エレベーターに乗り込む。ドアが閉まる直前に老婦人の姿が見えたので「開」のボタンを押す。
「ありがとうございます」
ゆっくりとした口調で礼を言い、それからゆっくりとした動きで六階のボタンを押した。
六階を通過し、再び一人になる。
スクラップ置き場にたどり着く。そこには旧時代の産物がごろごろと転がっている。その多くは再利用が不可能、困難な代物。かといって処理するには勿体ない、文化的な価値もある。ある意味、この場所は博物館だ。
先客がいた。暖色のライトに照らされた小さな影が揺れている。
「よう。散歩か?」
ぼくの声に影が動く。
「遅かったな。今日は来ないのかと思っていたぜ」
そいつは四つ足でぼくに歩み寄る。
「お手」
「馬鹿か。喧嘩売ってんのか?」
犬が笑う。
この犬と出会ったのは少し前のこと。何気なく訪れたこの場所で忠犬のように何かを待っていたところをぼくが話しかけた。
人間の言語を解する……愛玩用に作られた犬型のロボット。当然、野良犬ではない。飼い主のもとから逃げ出したか、あるいは捨てられたか。理由は知らないが、こうしてここにいる。いい話し相手なのでぼく
としてはありがたい。
「今日は大負けで千円で売ってやるよ。買うか?」
「結構。腹が減るだけだ」
「空腹は最高の調味料だって、母さんが言ってたよ」
「料理はマヨネーズをかければ全部美味いんだよ。人間の癖に分からないのか?」
犬が悲しい目をして笑う。その口から鋭利に尖った犬歯が見えた。
「お前だって、味が分からないだろう。それとも分かるのか?」
「お前より長生きしてるからな。それに」
前足で頭を叩く。本人的には「脳味噌が違うんだよ」とアピールしているのだろうけど、こちらからして
みれば可愛いく、あざとくポーズをとっているように見えた。
「それで」
話題を変える。
「調子はどう?」
「あぁ」
犬は振り向き、骨組みが剥き出しのスクラップに近づく。
「うん……これは部品さえあれば動くぜ。幸い、ガソリンも貯蔵庫にある。まぁ、痛んでるかもしれないけどな」
「そうか」
錆まみれで、スタンドがなければ自立できないそれは、かつてバイクと呼ばれた代物だ。辛うじて、原型はとどめている……はず。何せ、実物を見たことがない。
「ここにある資材で間に合いそうか?」
「どうだか」
鼻を鳴らし、犬は言う。
「この山の中から代替品を見つけるのは骨が折れるだろうけどな」
「ぼくはやるよ。これくらいしか楽しみがないんだ」
「やれやれ」
くぅんと覇気のない声が聞こえた。
「また話は変わるんだけどさ」
瓦礫を掻き分けながら犬に向かって叫ぶ。
「大声を出さなくても聞こえるぞ」
「お前の名前、決めたよ」
この犬は名乗らない。だから、何と呼べばいいのか悩んでいた。名を聞いても教えてくれないのでぼくが
命名することにした。
「ほう……ようやくか」
嫌そうな反応を示すのかと思っていたが嬉しそうだ。犬のように尻尾を振っている。容姿だけではなく、心まで犬なのは技術の素晴らしさか。
「満を持して命名する。お前の名前は」
「却下」
即答だった。
「まだ何も言ってないだろ」
「どうせ、チョコとかポチとか大五郎とか……その顔は当たっているな」
「ロボットは思考も読み取れるんだなぁ」
素直に感心した。
「馬鹿限定でな」
ぼくは怒った。
本物の太陽を見たことがない。
地下大農園の上空に設置された人類の英知の結晶である人工太陽しか知らない。そもそも、偽物じゃない太陽を知っている生き残りはもういないのではないだろうか。別のシェルターにはもしかしたらいるのかもしれない。
地表を焼き尽くした核を搭載した七発の長距離弾道ミサイル。
第三次世界大戦の勃発。今では「終末戦争」と教科書に記されている。
簡潔に言えば人類同士の衝突。結果、地上での生活を失った。旧人類の歴史はそうして幕を閉じた。
閉じたはずだった。奇跡的に生き残りがいた。核シェルターに避難していたものたちだ。彼らは奇跡的に生き残った。人類によって殺されずに済んだ人類。彼らのこと、つまりぼくたちのご先祖様のことを新人類と区分するようになった。
大幅に減少した人口、壊滅的な生活を救ったのもやはり旧人類の技術だった。
自律式可動人形「コッペリア」。他にも「オートマトン」や「ドール」などと呼ぶ人もいるが、大抵の人は「ロボット」と言う。
ロボットの動力源は太陽光。つまり、人工太陽が完全に動かなくなるまで、半永久的に活動することができる。農作業も、工場もロボットがいなければ困る。新人類はロボットには頭が上がらない。
正式名称に人形とついているが、別に人型だけではない。犬や猫などの愛玩動物を模したモデルや、丸っこいモノアイのモデルもある。人型にも多くの種類があり、オーダーメイドも可能。オーダーメイドに応えて注文に沿ったものを作る職人を人形師と呼ぶ。この人形師たち(複数人存在しているが、並外れた技術、センスが必要とされるため後継者が少ない)はシェルター内でも好待遇を受けている。
ぼくが暮らしているシェルターについて話そう。
シェルターの名前は『なゆた』で、人口はおよそ三千人弱。割合は生産年齢人口が多い。ロボットの所有台数も比較的多い方だ。今はロボットの数で経済状況を確認する学者もいる。ロボットはよく働く。働けば金が儲かる。儲かれば新たなロボットを増やせる。ウハウハだ。また、ロボットのレンタルをする動きもある。世の中、案外うまく回っている。持ちつ持たれつ生きている。
地下での生活にそこまで不便はない。それは地下での暮らしのみしか知らないからかもしれないが。
シェルター内には教育機関も設置されている。共有スペースに大部屋があり、そこで授業が行われている。といっても、教鞭を振るうのは別に教員免許を持っている大人ではない。シェルター内の大人が当番制で担当している。
ぼくらには一人ひとりに電子端末……タブレットが支給される。
このタブレットは教科書の代わりだ。毎朝重い荷物を背負って学校に通学していた学生たちには申し訳ないくらいに楽をさせてもらっている。
他にも、娯楽施設や図書館、温水プール等々……比較的充実した生活を送れる。勿論、医療機関もある。手術はロボットが頑張ってくれる。ミスは……少ないようだ。
四季を直接感じることはできないが、かつての風習を慮ったような行事ごともある。その時だけは日頃のあれやそれを忘れて、みんなでお祭り騒ぎだ。
だが、三年周期で行われるあれには耐えられない。何度か経験しているが、未だに馴れない。あの棺桶のようなカプセル・ベッドで仮死状態となり冷凍される瞬間。
集団冬眠……ハイバネーション。
冬眠期間は等しく三年間と定められている。誰が決めたのやら。
冬眠期間中は年齢を重ねない。目を覚ましたらいきなり三年の時が経過しているのはさながら御伽噺の主人公になった気分だ。
冬眠なんて言葉、人間には相応しくないと思うがこの時代には当然のように行われる。それは食料的な事情や、施設全体の整備……多くの現実的な要因によって全人類同時に冬眠することが義務付けられている。寝ないのはロボットだけ。この時は他のシェルターとを繋ぐ唯一のトンネルも完全に封鎖され、鎖国状態になる。過去に略奪事件があったのも関係しているだろう。にしても、その犯人たちはどうやってあのカプセルから抜け出したのだろうか。是非、方法を聞いてみたい。
アラーム音で目を覚ます。現在時刻午前五時。カーテンを開けるとモニターがあり、そこにはまだ薄暗い風景が広がっていた。
背伸びをする。早起きは三文の得だと教えられて以来、ほぼ毎日のようにこの時間に起きている。
昨日の続きをするために準備を済ませ、部屋を出る。
両親の姿はなく、既に出勤しているようだ。
犬が待っていた。
「おはよう。いい朝だね」
気さくな挨拶をする。
「モニターの調子がいいのか?」
心にもないことを言う犬だ。いや、そもそもロボットに心があるのかは知らないけれど。
「早速、作業にかかりますか」
グローブを着用し、手をグーに、パーに開く。
「なぁ、人間」
「おいおい、名前教えただろ。ぼくの名前はリョウジだ」
「リョウジ。仮にこのバイクが動くようになったとして……どうするんだ?」
「どうするって、走らせるんだよ」
「シェルター内で暴走するのか? 迷惑な奴だな。牢屋にぶち込まれるぞ」
このシェルターにも牢屋はある。が、記録によれば現在に至るまで誰も入ったことがない。それだけ真面目な住民しか住んでいないのだ。事件らしい事件もない。
「いつかさ」
上を見上げる。そこには無機質な天井しかない。
「空の下を走りたいんだ。まっすぐ伸びたハイウェイを全速力で駆け抜けたい。風を浴びながら行く当てもなく走りたい」
それがぼくの夢だ。
恐らく、叶うことはない夢。生まれてから、もしかしたらこの命が尽きるまでおよそ叶うとは思えない夢。無謀だとか無茶だとか阿保だと笑われるような夢。
「そればっかりは、お前の力だけじゃ無理だな。汚染された地上で走っていたらあっという間にお陀仏だ。誰にも骨を拾ってもらえないままくたばっちまうな」
犬の方がリアリストだった。
「だけどよ、お前だって青空見たくないか? あんなまがい物じゃなくてよ。映画やドラマで何気なく映るあの青を、見たくないか?」
「興味ない……こともない。だがな、もう見ることが叶わないからああいった旧時代の映像記録は文化的価値がある。当時の評価はどうであれ、現代人にとっては貴重なんだ」
「でもさぁ」
そんな話をしていると、エレベーターから人影が見えた。
瘦せていて、身長の高い男が頭を掻きながらこちらへ歩いてきた。
「やっぱりここにいたか。リョウジ」
「サトル。どうした?」
サトルは幼馴染で、部屋も近い。よく遊んでいる親友だ。
「いやさ、カンファレンスのことで話があるからお前を呼んで来いってルーナが」
その名前に思わず顔をしかめてしまう。ルーナも古くから付き合いである。彼女は僕なんかとは違って出来がいい。品行方正で、真面目で、頼りにされるタイプ。よく怒られるからできれば近寄りたくない。
「カンファレンスって……ハイバネーションの?」
サトルは頷く。
「そうだ。まぁ、例年通り注意事項とか、シェルター長の世間話とかだろうよ」
「ルーナに言っておいてくれ。きちんと参加するって」
「俺の予想だと……点検を手伝って欲しいんじゃないかな」
「ぼくじゃなくてもいいだろ。何考えてんだあいつ」
「鈍いな」
ぽつりと犬が呟く。
「じゃあ、リョウジ。確かに伝えたぞ。中央噴水広場で待っているみたいだから早く会いに行けよ」
「サトルも一緒に行こうよ」
「俺はこれからデートなの」
「羨ましいね。モテる男は」
彼には一つ年下の彼女がいる。向こうからサトルに告白してきたらしい。
「忘れんなよ」
用件だけを伝えて、足早に去っていった。
「リョージ」
「分かってる」
面倒だが仕方ない。友達の頼みなら仕方ない。
「リョージ」
「なんだ犬。お前も来るか?」
「汗臭いからせめてシャワーくらいは浴びておけ」
俺は嗅覚が優れているからなと犬に注意された。