不動結界の中へ
瀧は、目の前に聳え立つ不動結界を見上げていた。
乗って来た馬は、その場で放して、つないでおくことはしなかった。
馬からしても、ここまで乗って来るのも怯えたような様子を見せることもあったので、そんな場所で待たせるのは哀れに思ったのだ。
それでも、ここまで何とか来てくれたことに感謝して、瀧は馬に、分かるだろうかと思いながらも、方向はあちらだ、と戻る道を示した。
馬は、こちらを振り返り振り返り、瀧が示した方向へと、走り去って行った。
…やはり、オレは神か。
瀧は、まだ心底それを信じているわけではなかった。
頭の中に浮かんで来る記憶も、伊津岐達と話しているうちに、無意識に相手の心を読み取ったものではないかと、まだどこかで疑っていたのだ。
伊知加ではあってほしくない、と思っていると言う方が正確だろうか。
とはいえ、自分が大きな力を持っていて、神にできない何かができるという事実は理解できた。
何しろ、これまでも人の能力者には会ったことがあったが、皆瀧には遠く及ばなかったからだ。
中身が伊知加であろうとなかろうと、瀧はこんな事態を知ったら、行くしかないと思っていた。
恐らく、自分でなければ成せないことで、これを放置したなら、これから先も不安を孕んだまま、結麻も大聖も、伊津岐も穏やかには暮らせないだろう。
伊津岐は、自分に行く必要はないと言った。
それが、自分を思ってのことなのは分かっていたし、伊津岐の気持ちは素直に嬉しく感じた。
だが、それでは結局、伊津岐は神として地上を守るということを、放棄したことになるのではないだろうか。
友であった伊知加を守るために、地上の全てを危険に晒す決断など、伊津岐にさせたくはなかった。
なので、瀧は最初から伊津岐に黙ってここへ来ると決めていたのだ。
「…やってやれねぇことはねぇだろ。ま、失敗したらその時だ。」
瀧はつぶやくように言うと、スッと結界に手を触れた。
本来なら、弾き返されるはずの結界は、瀧を気取ってスッと瀧の手の先は、結界の中へと何の抵抗もなく入った。
…やっぱりオレは伊知加じゃねぇかよ。
瀧は、自嘲気味に笑い、そうして中へと足を踏み入れて行ったのだった。
伊津岐は、空から地上を指して言った。
「…そこ。」伊津岐は言う。「そっちの崩れた石碑の脇辺りが、結界の穴だ。恐らく奴らはそこから出入りしている。お前達は、そこじゃなくてこっちから入れ。オレが入れてやるから。」
聖は、頷いた。
「賊に出くわす可能性があるからですね。」
伊津岐は、頷いた。
「それもあるが、伊知加の気配がこっちから中へ流れてる。伊知加の触れた所は、オレには分かるんだ。同じように、結界張った神なら皆、分かると思うぞ。」
充が、言った。
「では、退役神主の里へ行かれた清輪様にも我らが居る場所へ、父上達をお連れくださいますな。」
伊津岐は、頷く。
「問題ない。結界の中は、オレ達には嫌になるほどよく見えるんだ。とはいえ、変な結界張ってる箇所もあるから、その中身まで見えねぇ。そんな場所には近付くな。とりあえず、お前らの務めは清輪がお前らの親父達をここへ連れて来るまで、伊知加を一人にしないことだ。中へ入ったら、伊知加を探せ。段々昔の伊知加と気配が似てきてるから、探せるだろう。あいつも、記憶を戻しつつあるのかもしれねぇな。」
伊津岐は、結界脇に降り立った。
それに倣い、聖も充も、悟もその後ろへと降り立つ。
「…ここだ。」伊津岐は、結界に触れた。「ここから真っ直ぐ何かを探りながら進んでる。中は、石の廊下の崩れたやつがある。かつて建物だった物を、オレ達があちこちから集めて来て積み上げて、山にして結界を掛けたから、ここはゴミ捨て場みてぇなもんなんでぇ。気を付けて行けよ。清輪が戻るまでだ。」
三人は頷いて、伊津岐が触れて向こうが見通せるその、石の通路の中へと、足を進めて入って行った。
伊津岐は、もう三人と伊知加が心配でならなかったのだった。
その少し前、清輪、遅れて紅天が、退役神主の里へ降り立った。
存命の退役神主達が、紅天は分かるが清輪が来たのに慌てて出て来て膝をついて深々と頭を下げる。
永く清輪の神主を務めていた、今の神主の父に当たる、巽が前に出て、言った。
「我が神に於かれましては、このような所にまでお運び頂き、恐悦至極に存じます。」
何しろ、清輪は厳しい神で、必要な事以外、雑談にも応じない徹底した神で通っていたので、他の神主より、より緊張した様子でそう言った。
清輪は言った。
「良い、急いでおる。不動結界に穴が生じ、そこから面倒な輩が出入りし、太古の、恐らく一度人を滅ぼしたであろう呪術を知って、使い始めておる。」
え、と皆が仰天した顔で清輪は見上げた。
そもそも、太古に一度滅んだ人類がいるというのも、初耳なのだ。
紅天が、脇から言った。
「清輪、情報を渡し過ぎてはならぬ。我ら、過干渉としばらく眠ることになるぞ。」
清輪は、紅天を振り返った。
「やかましいわ。何であれ誰かが申さねば、知らぬままで命を懸けよと言われて主は懸けるのか。」
紅天は、黙る。
清輪は、続けた。
「伊知加が戻った。あやつは今人であるから、我ら神より制限がない。ゆえに不動結界の中へ、その元凶を廃除するためにたった独りで向かった。相手は面倒な呪術を駆使する輩で、人の能力者や神をも封じる呪を知っておる。恐らく独りでは無理よ。なので我は、主らに伊知加を追って、不動結界の中へ参ってもらいたいのだ。」
皆、一斉に顔を見合わせた。
不動結界の中…決して近付くなと親ですら行ったことはない場所だ。
まず、恐怖が先に来て、皆自然と小刻みに震えた。
「…我らも封じられるのでは。」
清輪は、頷いた。
「恐らくはの。だが、頭数が居たら誰かは残る。あちらはそう人数は多くはない。今は、な。」
皆、目の前の地面を見つめて言葉もない。
聖矢が、言った。
「私が参ります。」清輪は、聖矢を見る。「伊知加様のお後を追えば良いのですな。」
清輪は、頷いた。
「我らは外からそれを見ておる。もし、主らの力が及ばぬと見たら、上から我が力を下ろす。我は主を通して相手を消せる。主は我の力で相手を制することができる。」
それが何を意味するのか、聖矢には分かった。
神の、しかも清輪ほど大きな気を持つ神の力を通した体は、恐らく耐え切れずに消し飛ぶだろう。
神主であれば、誰にでも分かることだった。
「…ならば、その役は私が。」巽が言う。「私が最期までお仕えするのは我が神なのでございます。それは私のお役目です。」
清輪は、頷いた。
「ならば、そのように。」と、皆を見回した。「無理にとは言わぬつもりよ。主らの命が散る可能性の方が高い。行くかどうかは主らの選択に任せよう。」
すると、背後から一人、進み出た。
「我が神よ、私をお見守りくださり、力を通すのは我が神であられましょうか。」
すると紅天が、頷いた。
「そうなるの。克己、参るか。」
克己は、頭を下げた。
「は!何事も我が神の仰せの通りに。」
清輪は、聖矢を見た。
「聖矢、聖は今主らの代わりに先に伊知加を追って不動結界へ参っておる。充と、悟もぞ。」
充と悟の父の、見波と聡が驚いた顔を上げた。
聖矢は、険しい顔をした。
「ならば急がねば。あやつらには戻って役目を果たさせねばなりませぬ。我らとは違い、あれらにはまだ、役目がある。」
聡と、見波も頷いた。
「もう役目もなく、何ゆえ生きるのかと思うておった次第。我らも参ります。」
その後、次々に名乗りを上げて行き、結局退役神主達10人は、全員うち揃って不動結界へと、向かうことになったのだった。




