独りで
「…伊津岐様…?」
佐織が、目を開いた。
橘が、慌てて佐織に駆け寄った。
「佐織!おお、良かった、あれだけ穢れを放っていたのに!」
瀧は、佐織を覗き込んだ。
「大丈夫か。もう、心のモヤは晴れたな。」
佐織は、瀧を見て驚いた顔をした。
「はい…あの、どちらの神であられましょう。」
瀧は、苦笑した。
「オレは神じゃねぇ。人だ。その証拠にお前、そんな細い体なのに生きてるじゃねぇか。オレが伊津岐だったら、お前は会った途端に死んでるよ。」
そういえば、力を吸い取られる感覚がない。
「…どちら様か存じませぬが、誠にありがとうございます。私は…何をしておりましたことか。心の中が悲しみでいっぱいになり、橘さんの顔すら…今、初めて見た気が致します。」
橘は、言った。
「良い、良かった、気が付いて。」と、瀧に頭を下げた。「伊知加様、我らのために人としてお戻りくださり、このようなことまでしてくださって、ありがとうございました。私にはどうしようもなく…穢れて行く佐織を、最初はなんとか浄化しておりましたのに、段々に効かぬようになって。父に知らせることもできず、途方に暮れておりました。」
瀧は、頷いた。
「オレが気付いて良かったよ。もうちょっとほっといたら、ダメだったな。」と、佐織の頭をぽんと叩いた。「悲しんでも恨んでも、何も戻っちゃ来ねぇ。気持ちは分かるが、前を向いて生きないと神だって困るんだ。三奈は…恐らくもう、華々しい人生とは無縁だ。あの歳でな。これから寿命の間だけ、苦しまなきゃならねぇ。それで許してやりな。あいつも、育ちが問題であんなことをやらかしたらしいしな。」
佐織は、橘に助けられて起き上がると、涙を流して瀧に頭を下げた。
「伊知加様とおっしゃるのですね。はい、神にお仕えする身、神を煩わせることなく、恨みを忘れて生きて参ります。誠にありがとうございました。」
二人して頭を下げるのに、瀧はしかめっ面になった。
「…当然のことをしたまでだ。そんなに恩に着るこたぁねぇよ。」と、踵を返した。「じゃあな。飯食えよ。」
そうして、瀧はそこを出て行った。
橘と佐織は、いつまでも瀧に、頭を下げていたのだった。
別棟を出た瀧が、真っ直ぐに馬小屋へと向かうのに、志伊が寄って来て言った。
「伊知加殿!誠にありがとうございました!我が巫女を、あのような穢れから助けてくださって…我ら、手を出すこともできぬで。」
瀧は、馬を引き出しながら、答えた。
「まあ、あれだけ痩せてたらな。」と、馬に飛び乗った。「ちょっと出掛けてくらぁ。気になることがあってな。」
志伊は、え、と瀧を追った。
「え、ですが今は、伊津岐殿も東へ行かれていて…不動結界がどうのと、話し合うとか言っておりましたが。」
瀧は、馬を走らせた。
「話し合うって何をだ?あいつらには何もできねぇのによ。」と、瀧はスピードを上げた。「とにかく、伊津岐には、また伊知加じゃねぇがいろいろ思い出してなんかできること増えたし、心配すんなと伝えてくれ。じゃあな!」
志伊は、叫んだ。
「伊知加殿!我は伊知加殿を見ておくようにと…!」
志伊が途中まで追い掛けて来たのは分かったが、瀧は無視して一人、馬を走らせ続けた。
向かったのは、あの時あの男を逃した地点から更に奥、不動結界のある場所だった。
日は、とっぷりと暮れていた。
伊津岐は、その頃東国一之宮の本殿に居た。
神主でさえ入るなと清輪が命じて、ここには人は一人も居ない。
紅天が、言った。
「…だが、何を言うても伊知加にさせるよりあるまい、伊津岐。覚えていないのはあやつの誤算ぞ。それは、我らが手を貸せばよかったのやも知れぬ。そこは我らが悪かったと申しておるであろうが。だがあの時は、あやつは別のことを言うておったではないか。人を制限なく助けたいとか、そんなもの聞けると思うのか。こうなったのも宿命、あやつはこのために人として戻ったのだと我らは今納得しておるのだぞ。それ以上、何を求めるのよ。」
緑楠も、言った。
「その通りぞ。伊津岐、我だって譲歩はした。あれが頼むゆえ、穢れて力を失った男とその妹とやらを保護してやっておる。そんな筋でもないのに浄化もしてやった。全ては伊知加のためぞ。あやつがあの不動結界の中を綺麗にしてくれるのなら、やすいものだと請け負ったのだ。何よりあれがやると言うておるのに、何を主はごねるのだ。」
伊津岐は、言った。
「お前らの、その他に丸投げって姿勢が気に入らねぇ。大体、他からどんどん中と東に穢れが集まって来るのも、そっちの結界周辺をきっちりやってねぇからじゃねぇのか。そのせいで、不動結界も劣化し始めてよ。自分の結界の中だけやってりゃ良いんじゃねぇぞ。迷惑なんでぇ!」
「それは…!」
緑楠が言い返そうとした時、サラリとした長い髪の、それは美しいが、冷たいように見える顔立ちの清輪が言った。
「…伊津岐が言うは当然のことぞ。そもそも、この東にまで影響し始めたのは、全て主らの体たらくのせいぞ。特に北と西、主らの結界外をなんだと思うておる。全部どうせこちらへ流れて我らが始末するから良いと申すか。いい加減にせよ、紅天、真比女よ。」
真比女という白い髪の美しい北の女神は、言った。
「そのようなことを申しても…我の力では、全て浄化など土台無理なのです!清輪と伊津岐は、力を持っておるのですから、良いではないですか!」
紅天も頷いた。
「我らには我らの出来る範囲はやっておる!主らが多く力を持って分かれたゆえ、我らは主らより力がないのだからの!己にできるからと、我らにも出来ると思うでないわ!」
緑楠が、まあまあ、と割り込んだ。
「落ち着け、皆。今はそのことではなかろうが。伊知加に不動結界の中を何とかしてもらわねばならぬのだろう。伊津岐、主がいろいろ言いたいのもわかるし、伊知加を案じておるのも分かる。が、我らにはどうしようもないのよ。それとも、清輪が前に申したように、退役神主を一人犠牲にして力を降ろして何とかするのか。」
伊津岐は、むっつりと黙る。
清輪が、息をついた。
「…もう良い、我が何とかする。」え、と皆が清輪を見ると、清輪は続けた。「退役神主の里へ参って、事の次第を話して参るわ。そうしたら、幾人かは己で申し出て来るだろうて。あれらも、退役してただ無益にあのような所へ籠められておるだけでは何のために生きておるのかわからぬだろうて。ならば、有益に使えば良いのよ。何も一人で参らぬでも良いのだしな。数人申し出て来れば、誰ぞは役に立とう。」
真比女が、立ち上がった。
「あれらをそのように物のように扱うなど!あれらはキリサの末なのですよ!善意しかない者たちを、利用するようなことを!」
清輪は、真比女を睨んだ。
「主こそ己はできぬのに我らにばかり丸投げして、果ては伊知加に全て任せてそれで終いか。仮に伊知加が参るにしても、敵を攪乱するのに数が居った方が良かろうが。それとも主が参って面倒を見るか。」
真比女は、ぐ、と黙った。
紅天が、言った。
「…主は、頭数を揃えようというのか、清輪。」
清輪は、頷いた。
「その通りよ。伊津岐が、伊知加一人に任せられないという心地は分かる。我も、別の意味でそれでは案じられると思うておったところ。あれが伊津岐と同じぐらいの力を持つのは知っておるが、しかし肉の身をまとっておってしかも記憶がないとなると、しくじる可能性が高い。ならば、数を揃えて参れば、あちらからは誰が誠に力を持つのがわからぬだろう。まあ、神主の方には我が力を直接降ろして放つゆえ、誰であってもとにかく核になる場所へたどり着きさえしたら良いのよ。どちらにせよ、行かせぬという選択肢はないぞ、伊津岐よ。」
伊津岐は、じっとそれを聞いていたが、苦渋の顔をした。
「…清輪の考え方は気に入らねぇが、だが言ってることは間違ってねぇ。確かに、行かせるなら複数で行かせた方がいいのは分かってる。だが…オレは、未だに結界をどうにかして、何とかできねぇか考えちまってる。」
紅天が、言った。
「まだそんな甘いことを申しておるのか!あれが崩れたら、真っ先に封じられるやもしれぬのは主ぞ、伊津岐!ゆえ、伊知加は…、」
「伊津岐殿!」いきなりに飛び込んで来た声に、何事かと皆が振り返ると、そこには志伊が居て、膝をついた。「伊津岐殿、申し訳ありませぬ!伊知加殿が…我が止めるのも聞かず、たったお一人で不動結界の方角へと向かいました!」
「なんだって?!」
伊津岐も立ち上がったが、清輪も立ち上がった。
「ならぬ!」と、伊津岐を見た。「我は退役神主の里へ参る!主は聖か充、悟を連れてまさかに備えて不動結界へ向かえ!伊知加が無駄死にするぞ、まだ策は練っておらぬのに!」
伊津岐は、もう浮いて出て行こうとしている、清輪に言った。
「まさかってなんだ?!あいつらを使えって言うのか?!」
清輪は、高く浮き上がりながら、叫び返した。
「その通りよ!主は伊知加を死なせたいのか!」
そうして、清輪は飛び去って行った。
「待て、清輪!」と、紅天は浮いた。「我は清輪と共に退役神主の里へ参る!緑楠、主が伊津岐についておれ!真比女、主は危ないゆえ北へ帰っておれ!」
そうして、神たちは東の空から一斉にあちこちへ飛び去って行った。
まだ、誰もそんなことが起こっているのは知らなかった。




