妖
伊津岐が高く飛んで上から探すと、真っ黒い塊になった何かが、うぞうぞと黒い触手のような穢れをその体から動かして回りを探るようにしながら、神主の屋敷の方向へと移動して行くのが見えた。
その形はもう、崩れ掛かっており、人の姿はしていない。
辛うじて、長い髪が乱れている場所が頭なのだとわかる程度だった。
それが、屋敷へと入らないように、聖と悟、充が力を放って、回廊のところで食い止めている。
その妖は、触手を振り回して聖達を排除しようとしながら、そこで立ち往生した。
「…ああなったら、どうしようもねぇ。」伊津岐は、呟くように言った。「消さねぇと。」
伊波が、言った。
「…我がやりましょうか?伊津岐様に、人の子を殺すのはお気が重いでしょう。」
伊津岐は、険しい顔をしながら、言った。
「…もう、人じゃねぇ。」と、降りて行った。「オレの所の事だ。オレがやる。」
伊波と志伊は顔を見合わせたが、それを追ってその妖の所へと降りて行った。
聖達は、必死に食い止めようと術を放った。
こちらの浄化の障壁は、その体から出ている触手が触れると、ビクと火に触れたようにその先が焼けて、ジュッと音を立てて崩れ落ちた。
つまりは、これは穢れの塊なのだ。
それでも、その化け物はこちらへ向かって来ようと、おぞましい気配を全開にして進んで来た。
「…埒が明かぬ!」悟が叫ぶ。「このまま封じられるか?!」
聖は、眉を寄せて言った。
「…駄目だ、力が強過ぎる!たかが女の穢れだと、侮ったか…!」
そこへ、伊津岐達三柱の神が降りて来た。
「…聖。もういい、オレが始末する。」と、手を上げた。「こうなったら、消すしかねぇ。もうこれは、ただの化け物だ。人じゃねぇ。」
伊津岐の体から湧き出る溢れんばかりの浄化の気は、何もしていなくても穢れの塊であるそれには、身を焼く代物のようだ。
伊津岐が降りて来ただけで、それは激しくもがき苦しみのたうち回るのが見えた。
《ああああ…!なぜ…!何故苦しめるの…!私は巫女になったのよ…!その証拠に穢れが見えるわ…!どうして…!どうして…!私は穢れてなんかいない…!大聖くんだけを想って来たのよ…!》
その声は、二重三重にまるでハーモニカの音のような響きで辺りに響き渡った。
か、確かに真樹の声だった。
伊津岐は、言った。
「オレの気が身に痛いってことは、お前は穢れた存在なんでぇ。魂に穢れを持った人でもねぇ、もうお前は穢れきって真っ黒になった、だだの妖だ。化け物なんだよ、もう。」と、手をそちらへ向けた。「…消えな。それしかお前が救われる道はねぇ。」
伊津岐が気を発しようとした時、その前に、結麻が躍り出て立ちはだかった。
「お待ちください!伊津岐様、どうか!浄化を、浄化をしてあげてください!そうして、お母さんと妹の所に帰してあげて!真樹ちゃんは、真樹ちゃんは悪くないんです!」
聖が、障壁の向こうで言った。
「結麻!駄目だ、そいつはもう化け物なんだぞ!離れろ!」
しかし、結麻は涙を流しながら、真樹の成れの果てを見上げた。
「真樹ちゃん…ごめん。私がここへ連れて来てしまったばっかりに、こんなことに。真樹ちゃんはただ、大聖が好きなだけだったんでしょう?でも、大聖は真樹ちゃんが思うような子じゃないよ。神主なんだよ、ちょっとでも穢れてたら、もう嫌がる神主なんだ!もう、やめよう?そんな姿になってまで、想う子じゃないよ!」
真樹は、少し止まったが、しかしまた、あの不快な不協和音のような声で言った。
《あなたなんて…!あなたなんて大嫌い!皆に好かれて、お父さんとお母さんにも大切にされて、私の気持ちなんかわからない!私があなたに近付いたのは、側に居たら私が良く見えるからよ!大聖くんに好かれるために、より良く見えるための当て馬だったの!そんなことにも気付かないで、ほんとに馬鹿よ!》と、触手は、結麻を捕らえた。《大聖くんに何を言ったの!?私が穢れてるなんて嘘を言って、私から大聖くんを奪おうとしたくせに!許さない…!あなただけは許さないわ…!》
「う…!」結麻は、締め付けられて呻いた。「違う…!真樹ちゃん、違うの…!」
触手から、嫌な気配が心の中に押し入って来る。
真樹の想い、辛かった幼少期などの事が、走馬灯のように結麻の心の中に流れて行った。
まるで、自分が経験しているような、錯覚を覚えた。
「…まずい。」それを見た、聖が叫んだ。「伊津岐様!このままでは、結麻が穢れを!」
伊津岐は、上げていた手を下ろした。
「…結麻諸共消す事になっちまう。結麻が離れなければ、無理だ。結麻が真樹の側へと出たのは、結麻の選択。オレはそれを助けることはしない。お前達も、下がっていろ。結麻と真樹を結界で遮断する。」
聖と悟と充が、目を見開く。
ということは、結麻はもう助からない。
穢れの化け物と共に、伊津岐の結界に閉じ込められて、無事に出て来られるとは思えない…。
そこへ、大聖、高久、橘が外から戻って来た。
「父さん!全員鳥居の外へ放り出しました!」と、目の前の化け物を見上げた。「うわ、なんだこれは!」
高久が言うのに、大聖がそこに結麻が捕らえられているのに、伊津岐が結界の気を放とうとしているのに気付いて、慌てて叫んだ。
「伊津岐様!結麻が!結麻が捕らえられています!」
聖が、大聖を振り返った。
「…仕方がないんだ。これが結麻の選択だ。」
結麻の選択…?
大聖は、飛び出した。
「あいつは…こんなことは望んでなかった!」
「大聖!」
聖が叫ぶ。
大聖は、伊津岐が気を放つその直前に、結界内へと飛び込んで行った。
「大聖!大聖、何と馬鹿な事を!」
伊津岐の結界が、聖を阻む。
聖は、結界内を見ながら、叫んだ。
「大聖!こちらへ!私が引っ張り出す!」
だが、大聖は捕らえられた結麻を見上げていた。
結麻は、真樹の記憶を見ている最中で、目を見開いたまま宙を見つめて涙を流している。
大聖は、叫んだ。
「結麻!結麻、しっかりしろ!」
その声を聞いた、黒い塊がこちらを向いた。
ような気がした。
《ああ大聖くん…!来てくれたのね、私の所に…!私を助けてくれるのね…!》
その声に、大聖は背筋が寒くなった。
大聖は、思わず震えて来る両足をしっかりと地面につけて、覚悟を決めて、叫んだ。
「真樹!お前…ずっとお前を信じていた結麻を!オレも父さんも母さんも伊津岐様ですら、お前のことは信じてなんかいなかった!最初から、魂に穢れを持つお前を警戒して、早く結麻を太らせて外へ出そうと思っていたんだ!だが、結麻が必死に真樹を庇おうとしているから、その事実を話すこともできなくて、お前が穢れていても、オレ達は普通に接するようにしていたんだぞ!結麻は、お前が穢れていると知っても、まだお前のことを心配していたのに!よく、よくそんなことができるな!」
黒い塊の真樹は、身を揺らした。
《あああああ結麻、結麻、みんなこの子の事ばかり!うるさい!うるさい!もういい、私が穢れてるって言うなら、結麻だって穢れるわ!私の生きて来た道を見たら、結麻だって白くはいられないのよ!あなたが大切にしている結麻は、穢れを受けて巫女ではなくなるわよ?!そうなっても、まだ結麻を大切だなんて言えるのかしら?どうせ同じよ!結麻だって、私と同じ!》
結麻は、涙を流しながら、ハッと我に返ったような顔をした。
大聖は、それに気付いて結麻に向かって言った。
「結麻…!しっかりしろ、その記憶は真樹のものだ!お前じゃない!」
だが、結麻は真樹を見て、言った。
「…真樹ちゃん。そんなにつらかったの…ごめん。私が全く努力もしないヤツだったから、そんなにイライラさせてたんだね。なのに傍に居てくれて…私、真樹ちゃんの気持ち、全く知らなかった。ごめん。」
真樹は、一瞬ひるんだが、しかし言った。
《…今さら謝っても遅いわ!唯一の望みだった、大聖くんですらあなたが持って行くんじゃないの…!結麻、結麻って、みんな結麻ちゃんばっかり!もう私なんて…私なんてどうせ誰にも必要とされないのよ…!》
結麻は、泣きじゃくりながら真っ黒な塊の向こうにあるだろう、真樹に向かって手を伸ばした。
「私は、必要だよ。」と、手探りでその塊を抱きしめた。確かに、何かを抱きしめているような気がする。「真樹ちゃんはそんなつもりじゃなくても、私はずっと救われてたよ。一緒に居てくれてありがとう。私…真樹ちゃんと一緒に北之国へ行ってもいいよ。」
真樹の、塊が震えた。
《…北…?どうして?》
結麻は、答えた。
「…真樹ちゃん、もうこうなったら全部言う。真樹ちゃんのお父さんは、聖さんを殺そうとして、跳ね返った力で亡くなったの。」真樹の塊が、大きく震えた。「お母さんと真那ちゃんは、北一之国の親戚を頼って、この村を出て行ったって…。だから、ここを出るなら北之国へ行くのがいいの。」
「お父さん…死んだの?」
声が、あのおかしな不協和音ではなくなって、かすれてはいるが、真樹の元の声に近くなっている。
結麻は、頷いた。
「うん…。真樹ちゃんが、悲しむかもって思って。黙ってた…ごめん。」
大聖は、じっと固唾を飲んでその会話を見上げている。
結界の外からは、聖や悟、充、高久、橘がじっとそれを見守っていた。
結麻を拘束していた、その黒い塊の触手がスルスルと解けた。
真樹がそれを解いたというよりも、真樹本体を囲んでいた、黒い塊が薄れて徐々に消えて行っているようだ。
触手の支えがなくなった結麻は、結構高い位置から下へと落下した。
「…痛っ…!」
結麻は、尻をしこたま木の床で打ち付けたが、ついていた肉のお蔭でそこまでダメージはない。
大聖が、慌てて寄って来て、結麻に手を貸して起こした。
「大丈夫かっ?」と、じっと結麻を見つめた。「…白い。」
結麻は、え、と驚いた顔をした。
「え、何が?」
「魂だよ。」と、まじまじと見つめ続けた。「…真樹の記憶を見たんだろ?穢れを受けてると思ったのに。」
結麻は、首を振った。
「それどころじゃないのよ!」と、どんどんと減り続けている、黒い塊の中へと突っ込んで行った。「真樹ちゃん!」
大聖は、慌てて言った。
「え、こら!結麻、行くな!」
しかし、結麻は真っ黒い中で、必死に目を凝らした。
この中に、真樹が居るはずなのだ。
「真樹ちゃ…、」
そこまで言った時、突然にフッと意識が途切れた。
遠くから、大聖の声が叫んでいるように思ったが、それもすぐに、聞こえなくなったのだった。




