異変
真樹は、気を失うように眠ってしまっていたが、すぐに佐織と、沙良の声で起こされた。
目が覚めて、思わず不機嫌な顔をしてしまった真樹は、慌てて表情を引き締めると、体を起こして弱々しく微笑みを作ることができた。
「…ごめんなさい、夢を見ていました。」
真樹が言うと、佐織は頷いた。
「力を失うと、悪夢を見てしまうでしょう。」と、竹の皮に包まれた、おむすびを置いた。「これを食べてくださいと、美智子さんから。それでは、我らはこれで。」
佐織と沙良は、そう言うとそのままさっさと出て行った。
開いた障子からチラと見えた空は、まだ暗い。
あれから、そんなに時間は経っていないはずだった。
…そういえば、結麻は来なかったのか。
真樹は、おむすびを口へと押し込みながら、思った。
結麻は、真樹が力を失いかけていることに気付かず、伊津岐から指摘されて泣きそうな顔をしていた。
心底、心配している顔だった。
…今更何を心配するというの。
真樹は、よく考えたら自分を心底心配されたことなど、一度もなかった。
父親に殴られている時も、母親は庇ってはくれず、妹は震えているだけだった。
…馬鹿みたい。
真樹は、おむすびを飲み込んで、思った。
自分からしたら、結麻は大聖の心象を良くするための、当て馬でしかなかった。
それなのに、結麻が自分に向ける笑顔は、いつも眩しいほどに輝いていた。
時々、心底自分を信じている結麻の笑顔に、楽しいと感じることすらあった。
だが、大聖の興味が何やら結麻にばかり向かっているように感じる今、そんな甘いことは言っていられなかった。
…待って、大聖くん…?
真樹は、ハッとした。
ここへ来たのが佐織と沙良ということは、もしかしたら結麻は大聖くんと一緒に居るんじゃ…。
真樹は、おむすびを食べていくらか回復した体を持ち上げて、立ち上がった。
…大聖くん、どこに居るの…?
真樹は、自分の部屋を出て、廊下を神主の屋敷の方へと歩き出した。
すると、あちらの屋敷へと向かうための回廊へ出る時に通る、儀式の間から、声が聴こえて来た。
…結麻と大聖くんだ…!
真樹は、途端に結麻に言いようのない怒りの心地が湧き上がって来た。
思わず身を潜めてそれを聞いていると、結麻が涙声で大聖に言っていた。
「大聖…私、伊津岐様に言った方が良いのかな。真樹ちゃんを、ここから連れ出して安全なお母さんと美那ちゃんの所へ行かせてくださいって。でも、真樹ちゃんの気持ちはどうなるの?私…まだ、大聖に告白したことを、聞けてないのよ。真樹ちゃんが避けてるようで。」
私を、ここから出すですって…?!
真樹は、身をブルブルと震わせた。
やはり、結麻は大聖を狙っていたのだ。
大聖の声が言う。
「その事はもういい。ひっくり返っても、穢れた女性は神主になるオレの相手にはなれないから。オレにはそれが最初から分かっていたんだよ。お父さんも、すぐに外へ出したいみたいだったけど、伊津岐様が正月まで待てとおっしゃった。多分、こうなることを分かっていらしたんだと思う。だからお前は、もう反対せずに真樹を送り出すんだ。人殺しには、なりたくないだろう?」
穢れた女?誰が?まさか…私が?
真樹は自分の身を確認した。
だが、巫女の能力のない自分に、結麻の助けなしにそれを見ることはできなかった。
そもそも、穢れたという意味が、違うのかも知れない。
結麻の声が言う。
「…ごめん。大聖、私から真樹ちゃんに、そのことを言うことはできないわ。あなたの事を好きなのも知ってたし、利用するだけ利用して、外へ出すという事には変わりないもの。あなたから言ってくれないかな…伊津岐様と、聖さんに。私は、もう無理は言いませんって。伊津岐様のお決めになったことに、従います。」
大聖は答えた。
「ほら、拭け。オレから言っておいてやるから。お前はそのおむすびを食べて、今日は寝ろ。明日からは、巫女はしばらく何もしなくていいから。オレ達に任せて、ゆっくりしてろ。」
結麻の声が答える。
「…よろしくね、大聖。また、伊津岐様がどう仰っていたのか教えて欲しい。」
そうして、大聖の気配が去るのを感じる。
結麻が立ち上がって、こちらへ向かって来るような衣擦れの音が聴こえて、真樹は急いで自分の部屋へと駆け出した。
そして、ハアハアと息を上げながら自分の部屋へと飛び込むと、しばらくして、結麻が隣りの部屋へ戻って、障子を閉じたのが分かった。
…どういうこと…!?
真樹は、今聞いた事に混乱していた。
穢れた女…?私は穢れてなんかいない。男子が寄ってきたことも無いから。
小さな頃から大聖一筋で、他の男子など目もくれていないのに…!
結麻が、言ったのだろうか。
大聖を自分のものにしようと、あることないこと大聖に吹き込んで、真樹があちこちの男と遊んでいる、穢れた女だと思い込ませて…!
真樹の怒りは、最高潮に達した。
すると、自分を囲んでいた何かがパリンと音を立てて割れる感覚がして、真樹には見えないはずの黒い何かが、周囲いっぱいに広がるのがハッキリと見えた。
「…見える!」真樹は、叫んだ。「見えるわ!私は巫女よ!穢れが見えるんだもの!私こそ、大聖くんに相応しいわ!」
真樹の叫び声に、慌ててやって来た結麻と、佐織、沙良が視界に入ったが、そんなものはどうでも良かった。
…大聖くんに…!見えるようになったことを知らせないと…!
真樹は、悲鳴を上げて倒れる佐織、沙良、結麻に構わず、暗い巫女殿から神主の屋敷へ向けて、移動して行った。
「…!!」
伊津岐が、本殿で顔を上げる。
伊波と志伊も、驚いたように飛んで立ち上がった。
「…伊津岐殿!障壁が破られました!」
「分かってる!」
伊津岐は、本殿を飛び出して飛んで行った。
…真樹か…!
伊津岐は、女の恋情というものを、侮っていた。
そんなに早く、瘴気に飲まれてしまうとは思ってもいなかったのだ。
何しろここは、自分の浄化結界の只中だった。
後ろから急いでついてくる、伊波と志伊を気遣いながら、伊津岐は急いで聖達が居る場所へと向かった。
その頃、聖と悟、充が同時に顔を上げていた。
橘と高久は、もう部屋へと帰している。
大聖は、戻って来たところだった。
「…これは…」悟が、聖を見た。「聖、瘴気ぞ!大きな瘴気が生まれて、こちらへ来る!」
と、身震いをする。
大聖は、振り返ってその出所を探したが、気配から察するに、巫女殿の方向から来るようだった。
巫女殿…。
「…結麻!」大聖は、足を踏み出して、取って返そうとした。「もしや真樹が!」
聖が、その腕を掴んだ。
「ならぬ!」と、足を廊下へ向けた。「穢れが命の許容量を超えたので、瘴気の妖となってしもうたのだ!私が抑えに行く、お前はここに居ろ!」
「そんな…結麻は?!他の巫女達は?!」
大樹が言うのに、聖は首を振った。
「わからない。とにかく行って来る、伊津岐様もいらしてくださる!」
悟と充も、慄いた顔をしていたが、聖に続いた。
「行かねばならぬ!主らは、境内の人々を急ぎ神社の敷地から出せ!急げ!」
聖を先頭に、三人はそこを飛び出して行った。
そこへ、寝ていたはずの橘と高久が駆け込んで来た。
「物凄い瘴気が…!」と、皆が立ち上がっているのを見て、立ち止まった。「父さん達は?!」
大聖は、歯ぎしりしながら言った。
「…瘴気を封じるために行った。オレ達は人々を、神社から出さないと!行くぞ!」
その場に居た全員が、境内の方へと走った。
瘴気の気配は、全員の体を舐めるように震えさせ、冷や汗が止まらなかった。




