不安
結花と美智子は、努めて話題を変えて昼ご飯の準備でもと席を立って動き始め、暗い雰囲気を吹き飛ばそうとしたが、結麻は心ここにあらずで、すぐに席を立ってその場を離れて行った。
大聖は、今頃本殿に居るはずだ。
そこに、伊津岐が降りているのを感じると言っていた。
結麻は、伊津岐にこのモヤモヤした気持ちを何とかしてもらいたい、と思っていた。
知らないことが多過ぎるのだ。
結麻が本殿へとズカズカと入って行くと、大聖が神主の着物を着て座っている前に、伊津岐が胡坐をかいた姿勢で浮いているのが見えた。
「え」大聖は、入って来た結麻に驚いて言った。「こら!神の御前で、許可も得ずにズカズカと!しかも、そんな格好で!」
結麻は、サッと座って言った。
「伊津岐様!お聞きしたことがあります!」
伊津岐は、浮いたまま結麻を見下ろして、言った。
「…真樹のことか?」
結麻は、頷いた。
「はい。」
大聖が、割り込んだ。
「オレが外で何かあったとほのめかしたから。すみません、伊津岐様、こいつ昼飯もまだなのに、このままじゃ倒れます。」
伊津岐は、首を振った。
「いや、いい。」と、スイッと結麻の前へと飛んで来た。「結麻、お前自分が何をしてるか分かってるか。お前はオレと約束したな。必ず太るって。聖を殺そうとした男の娘だが、お前のための保険だし何も言わずに残しておいてやったのに、このままずっと一緒に居られると思ってるのか?」
結麻は、グウと鳴る腹を意識しないようにして、伊津岐に訴えた。
「真樹ちゃんのお父さんが悪かっただけで、真樹ちゃんは何も悪くないのに!私を元気づけて助けてくれて来たんです。伊津岐様にお話ししようって言ったのも、真樹ちゃんだったんです!真樹ちゃんは私の心の支えになってくれました。でも、巫女なのに結婚もしないでここを出されてしまったら、もっといろいろ言われてしまいます。北の親戚の所へ行っても、きっと肩身が狭いと思う。私…そんなの嫌なんです。」
力が抜けて行く。
だが、筋肉があるので、結麻はしっかり踏ん張っていた。
伊津岐は、言った。
「…お前の心の支えにな。」と、宙を見た。「…ま、好きにしろ。だが、オレにはオレのルールってもんがある。それを違えたら許さねぇぞ。お前が太るってのは決定事項、オレとの契約だ。だが、これから何が起こっても、オレを恨むんじゃねぇぞ。全部、お前が選択したことだ。言っとくが、オレは結構過保護な方だ。オレの守りを外れたら、面倒ばかりだと言っても過言じゃねぇ。オレはお前に選択の自由を与えてやるが、間違ったからって助けてはやらねぇぞ。よく考えて、その時々の選択をするこった。分かったな?」
結麻は、空の胃が痛むのを感じながら、頷いた。
「分かりました。でも、太るのは決定事項なんですね?太っても、真樹ちゃんをここから出さないって約束してくれますか?」
伊津岐は、言った。
「約束はできねぇ。が、太ること以外はその時その時で考えてやってもいい。とはいえ、お前はオレとの約束を、もう三カ月にもなるが全く成せてねぇぞ。オレに要求する前に、まず自分のやるべきことをやれ。」
結麻は、答えに詰まった。
「それは…筋トレしてたから…。」
伊津岐は、頷いた。
「だから考慮してやってんの。正月までは、時間をやろう。しっかり食って、単独で公務に着けるように努力しろ。」と、大聖を見た。「もう帰る。こいつに何か食わせろ。もう限界だ。」
そう言ったと思うと、伊津岐はスッとその場から消えた。
途端に、張り詰めていた気が緩んで、結麻は前のめりに倒れそうになって、手を付いた。
「結麻!」と、大聖が手を貸してくれた。「大丈夫か…いや、大丈夫じゃないか。」
結麻は、首を振った。
「大丈夫よ。誕生日の時みたいに、気を失ったりしなかったわ。」
大聖は、息をついた。
「分かってる。違う、お前の筋肉が、全部落ちてるんだ。せっかくあれだけ頑張ったのに…。」
「え?」
結麻は、自分の腕を見た。
…細くなってる…。
言われてみれば、腹に割れるほどあった腹筋も、何やら平たくなっている気がする。
つまりは、筋肉を消費しないとヤバイところまで、結麻の体は追い詰められていたのだ。
たった、数分の出来事だったのに…。
結麻が黙り込んだので、大聖は言った。
「…ま、元に戻っただけだ。昼飯前だったしな、時間が悪かった。」と、結麻に手を貸して、立たせた。「今度は、必死に運動なんかしなくても、太ればいいんだから。結花さんから太る方法を教えてもらって来たか?」
結麻は、首を振った。
「ううん。あの…真樹ちゃんのお父さんが、やった事を無理やり聞いただけ…。」
大聖は、ああ、という顔をした。
「…そうか。まあ、父さんを襲うなんて、多分もう狂ってたんじゃないかって思う。だって、この国の者達だったら、神主は殺せないって知ってるはずなんだ。どこの神社でもね。それなのに、あんなことをしたんだから。」
結麻は、頷いた。
「うん…でも、真樹ちゃんは悪くないよ。両親のことは嫌いって言ってたんだ、前から。真樹ちゃんは被害者なんだよ。」
一生懸命真樹を庇う結麻に、大聖は、少し黙ったが頷いた。
「そうだな。お前がそう思うんなら、それで良いんじゃないか。」
そうして、結麻は大聖に支えられて、神主の屋敷へと戻って行った。
とにかく空腹で、今にも倒れそうで、早く何かを口に入れたい、と必死だったのだった。
大聖に支えられて居間へ戻ると、大樹と聖と真樹は戻っていて、美智子と結花がせっせと食事を座卓の上に運んでいるところだった。
一回り小さくなったように見える、結麻に驚いた結花が、慌てて寄って来た。
「まあ、結麻!どうしたの、あなたあれだけしっかりした体になってたのに!」
大聖が、結麻を畳に座らせながら、答えた。
「伊津岐様とお話をして。どうしても話したい事があるって…伊津岐様も分かっていらして、ギリギリまで結麻の話を聞いておられました。」
美智子が、急いで米の入った茶碗を目の前に差し出す。
「さあ、食べて。ちょっとでも食べたらマシになるから。」
結麻は頷いて、茶碗いっぱいのご飯を急いでむしゃむしゃと食べた。
大樹が、言った。
「太るのは急務だな。結花も学校で吐くほど食べて、吐いたらまた食べてたよな。地獄のような日々だった。」
結花は、頷いた。
「元々私達、太らない体質だから、とにかく動かないようにして、食べるしかなかったの。多分、結麻も同じよ。しばらくは美智子に甘えて、しっかり食べて寝てなさい。食事作りは、私が手伝いに来るわ。」
美智子が、言った。
「そうね、結花は慣れてるから。助けてもらえたら結麻ちゃんの負担は減るわ。今は太る事を考えないと…私も、聖さんと伊津岐様のお声を聞いた時には、数分で倒れたもの。何かを吸い取られるような感じよね。」
寝てるなんてできない。
結麻は、言った。
「寝てるなんて!伊津岐様とは、できることはやると約束しているの。炭焼きもまだできてないし…あの、ゴムも作りたい。」
大樹が、眉を寄せた。
「ゴム?なんだそれは。」
だよね。
結麻は、言った。
「弾力があって、リアカーとか馬車の車輪に巻いたら、デコボコ道でもスムーズに走れるようになる物なの。多分、伊津岐様の事だから、森にゴムの木も生やしてるんじゃないかな。」
何しろ、あの森はあり得ないほどいろいろごちゃごちゃと生えているのだ。
まるで、必要な物だけ寄せ集めたように見えていたので、あの中には絶対ゴムの木もある。
結構過保護、という伊津岐の言葉は、嘘ではないのだ。
聖が、言った。
「…結麻は役所の本を読んで、その知識があるらしい。」大樹が眉を上げる。聖は続けた。「伊津岐様も、結麻の言うことはやらせてやれと言っていた。ならば結麻、私や大聖が代わりに動くから、やりたい事を言うといい。炭焼きは一斗缶の事でなんとなく原理が私達にも分かった。他にやりたい事があるのなら、話してくれたら良いのだ。君はとりあえず、太ることに専念しろ。そのままでは、巫女としての基本的な仕事が何もできないぞ。」
結麻は、項垂れた。
「はい…分かりました。」
真樹は、相変わらず黙っている。
美智子が、言った。
「じゃあ、お昼にしましょう。結麻ちゃん、しっかり食べてね。」
結麻は頷いて、母に助けられながら席についた。
…太る食品を作り出すのが先かな。
結麻は、そんなことを考えながら、黙って食事を掻き込んだのだった。
その間も、真樹の視線が痛かった。
真樹は、大聖のことを好きなのを、知っている結麻が大聖と共に居たのを、責めているように感じて居た堪れなかった。




