感情
「…あいつは助かる。」伊知加は、外から拝殿に戻って来て、伊津岐と聖、大聖に言った。「あいつは腐り始めていたが、外側だけだった。そこを酒で削ぎ落としたから、命はちょっと小さくなったがなんとか浄化が間に合った。だが、もう一人はダメだ。恐らくあいつが首謀者で、助かった奴は手先だったんじゃねぇか?」
伊津岐が、必死に拝殿を浄化して回る大聖と聖を見ながら、言った。
「お前よくあいつに近付けたな。オレは分かってるが無理だった。とにかくあっちへやって欲しいってそればっか。」
伊知加は、苦笑した。
「そこは人の身の盾があるからな。直接喰らうお前とは違わあな。だが、いい気はしなかったぞ?」
伊津岐は、言った。
「オレも転生するかなってそれを聞いたら思うわ。」
伊知加は、しかし表情を険しくした。
「…とはいえ、もう片方は酒にすら触れられぬようだった。口を付けようとして、すぐに離した。激痛が走ったんだろうよ。脇の茂みに、騒ぎに乗じて捨ててるのを視界の端に見たからな。あいつはいくら助けようたって無理だ。中まで腐り切ってるからよ。」
聖が、言った。
「…次長の咲也ですね。」
伊知加は、頷いた。
「そうだ。あいつが、恐らく私服を肥やしてる奴だろう。所長の奴は気付いてねぇな。オレはあの咲也って奴を見張る。」
伊津岐は、頷いた。
「頼んだぞ。とはいえ、お前は人の身があるから、あいつらに姿が見えるだろう。オレのことは真横に居ても見えねぇから、本来オレがやるべきなんだが…あいつ、臭すぎるんだよなあ。あの臭い嗅いだら、頭が働かなくなるんでぇ。とにかく、どっか行ってくれって思っちまう。」
伊知加が笑った。
「お前にゃ無理だ。オレだって側で話すのは無理だが、見張るぐらいはできる。とにかく、こっちは任せてお前は残りの民を全員見ろ。恐らく誰かまた出て来るかもしれねぇが…咲也が通じてる奴は、恐らく結界外の奴だろうから、そこまで臭いも酷くはないだろうよ。」
伊津岐は、さっきのことで凝りたらしく、顔をしかめた。
「もうやめて欲しいんだけど。さっき紅天の奴がめっちゃ怒ってるのを感じたから、多分あっちもなんか見つかったんじゃねぇか?緑楠からは、怒りより嫌悪の感情が伝わってきた。清輪は落ち着いたもんだ。ちなみに真比女は、どうやら失神したみてぇで、二之宮の真名比女が代わってやってるらしいぞ。」
伊知加は、苦笑して言った。
「まじかよ。あいつは昔から弱ぇなあ。そんなだから清輪に相手にされねぇんだっての。」
え、と聖と大聖がこちらを見るのに、伊津岐が慌てた顔をした。
「こら、伊知加!聖矢は知ってるがこいつらは知らねぇの!その話はすんな。真比女が聞いたらキレる。」
伊知加は、フンと言った。
「気を失ってるのに聞いちゃいねぇわ。あいつは昔から清輪清輪って、清輪の奴がそんなことに興味もないのは分かってるだろうに。ずっと言い寄ってる緑楠にしとけば良いのによ〜。」
神達の中でも、そんなことがあるのか。
聖と大聖が、めっちゃ聞こえているが聞こえていないふりをして聞いていると、伊津岐はため息をついた。
「…ま、オレ達にゃ関係ない話だ。」と、聖と大聖を見た。「お前ら、他の奴らに言うなよ。」
二人は、ウンウンと激しく頷いた。
伊知加は言った。
「とはいえ、人世の感情とはまた違うんでぇ。人世は子孫を増やすために、それに肉欲ってのが伴うが、オレらにはねぇ。だから、俗な考えであいつらを見るんじゃねぇぞ?ま、オレは今は人の身があるし、そっちの欲ってのもあるんだけどよ。」
伊津岐が、驚いた顔をした。
「え、お前今はあるのか?どんな感じだ?人ってそっちのことで揉めることが多いだろ。理解できねぇことが多くて、困ってたんでぇ。」
伊知加は、顔をしかめた。
「どうってなあ。オレは何しろ生きるのに必死で、そっちには見向きもせずに来ちまったからなあ。経験あったら言えるが、知らねぇもんは言えねぇな。聖に聞いたらどうだ?」
聖は、ギョッとした顔をした。
伊津岐は、頷いた。
「聖、お前その歳で子供作ったんだし、経験あるのはお前だけだ。どうなんでぇ?」
聖は、大聖も居るので困ったように言った。
「ええっと、それは…私も神の感覚は分からないので、説明のしようがないのです。」
大聖は、気を遣って言った。
「あの、お父さん。ここの浄化が終わったので、境内の方を見回って来ます。」
聖は、頷いた。
「ああ、頼む。」
伊知加が、立ち上がった。
「手伝って来るわ。」と、伊津岐を見た。「ほどほどにな。そういうことは、あんまりあからさまに言うことじゃねぇからよ。聖をあんまり困らせない程度にしとけ。」
そうして、大聖と伊知加は出て言った。
伊津岐は、聖にその後散々分からないことを聞いたのだった。
大聖が境内へ出て来ると、まだ多くの参拝者が入れ替わり立ち替わりしていた。
もうすぐ夜が明けるが、今はとりあえずその流れを見ているしか、やることはない。
境内は、とっくに伊知加が浄化に回っていたからだ。
伊知加は、言った。
「…ちょっと畑の方へでも行くか。」と、そちらへ足を向けた。「話がしてぇ。」
大聖は、頷く。
そうして、二人は人気のない、裏の畑の方へと歩いて行った。
表の喧騒が嘘のように静まり返ったそこで、伊知加は言った。
「…お前、結麻にイライラしてるようだな。」大聖は、ハッと伊知加を見た。伊知加は続けた。「伝わって来るぞ。オレから見たら、あれだけ仲良くしてるように見えてたのにって、心配してるんだ。」
大聖は、息をついた。
「あの…伊知加様はご存知ないかもですが、オレは元々あまり、結麻とは仲良くなくて。幼馴染なんですけど、昔からあいつは適当で努力もしないし、それでも両親のお陰で裕福で、何不自由なく楽観的に生きてる奴で…。」
伊知加は、息をついた。
「…瀧でいい。お前、タメ口で話してただろうが。親父が気になるなら、二人の時は前のままで話しゃあいい。」
大聖は、困ったが、とにかく神が言うことは絶対なので頷いた。
「…ああ。あの、で、今の結は、その頃の結麻そのままなんだ。だから、どうにもイライラしてしまって。母親の結花さんが悲しげにしてたのには、あいつも悲しげだったけど、でもすぐに忘れて思い出そうと努力もしない。思い出せないのは仕方がないけど、少しぐらい回りを気遣って、思い出そうと努力ぐらいしろよ、って思ってしまって。」
伊知加は、言った。
「…まあなあ、それが本来の性質なら、経験不足なんだから仕方がねぇ。結麻はあれこれ経験してその本来の善良さで、気ままな自分を抑え込んでいたが、結にはそれがねぇもんな。だが、同じように考えることができて、経験したらまた結麻っぽくなるかもしれねぇぞ?それでも、あいつは嫌いか。」
大聖は、下を向いた。
「…オレは、結麻なら相手に選んでも良いかと思っていたんだが、こうなってみると、そうしていたらいつかまた、こういう性質を見て、嫌になったかもしれないって思ってしまった。今、あの時の結麻が戻って来ても、だから距離を取ってしまうかも。嫌いとまではならないかも知れないが。」
伊知加は、息をついた。
「…そうか。まあそうだろうな。伊津岐もお前と結麻の相性は良くないと言っていた。あいつが面倒になりそうだったんで、だったらお前の相手にして、さっさと巫女はお払い箱にしちまった方が無理がねぇとオレは思ったんだが…なら、やっぱり無理だな。そもそも伊津岐に、選ぶつもりはないしな。」
ということは、あの時点でも伊津岐は首を縦に振らなかったということだ。
大聖は、先走らなくて良かった、と思いながら頷いた。
「今の結麻は、もっとあり得ないと思う。前の結麻は…あのままなら、きっと伊津岐様にお頼みしたかも知れないけど。」
伊知加は、苦笑した。
「そうか。」
伊知加は、遠くに視線を向けた。
何を見ているのかわからないが、別の場所かもしれない。
神には、いくらでもそんなことができるからだ。
大聖は、その横顔を見ながら、言った。
「…瀧はどうなんだ?」伊知加は、こちらを向いた。「オレから見たら、結麻は瀧との方が気が合ってたように思うけど。」
伊知加は、答えた。
「オレは神だ。」と、伊知加は大聖をしっかりと見た。「とはいえ、思い出す前のオレは、結麻に一緒に暮らそうと言われて、悪い気はしなかった。が、オレは生きて戻るつもりはなかったからな。生きて帰ったら必ず嫁にする、とは約束したが、そのつもりはなかったよ。お前と結婚して上手くやるだろうと考えていた。思い出した今、人なのは変わらねぇし、オレが思うより、オレはずっと瀧の意識のままだ。結麻とは違い、全部思い出したが瀧という意識もしっかりしてて、混じった感じに落ち着いている。もし結麻が結麻のままだったら、あいつとの約束だし、嫁にもらうことにしたろうな。が、あいつはもう覚えてねぇ。オレは、そこまであいつの人生に関わろうとは思っちゃいねぇ。何しろ、オレには今分かるが、退役神主達と同じように、オレは恐らく歳を取らねぇ。取ったとしてもゆっくりだ。あいつとは時が合わねぇしな。聖もそうだがお前も、人を嫁にもらうと先に逝くのが当然のことになるぞ。それは悲しいことだろ?」
大聖は、そうか、と思った。
人であって人ではない自分達は、人の伴侶は必ず先に失うことになるのだ。
だがそれよりも…。
「…結麻は、やっぱり瀧を選んでいたんだな。」大聖は、言った。「そんな気がしたんだ。あいつが自分を捨ててまで、助けようとしたのは瀧だったんだ。この世界じゃない。」
伊知加は、横を向いた。
「…だが、あいつは戻らねぇ。」伊知加は、言った。「あいつは自分勝手な奴なんだよ。自己満足甚だしいわ。残された者達が、それで生き残ってどう感じるのかも、何も考えちゃいねぇんだ。だからオレは、あいつを嫁にはもらわねぇのさ。もう関わるのは真っ平だ。」
大聖は、それを聞いて瀧も結麻が好きだったのだ、と悟った。
が、自分にはやるべきことがあり、そちらを優先して想いを受け入れはしなかった。
した約束も、守るつもりは全くなかったから口にしただけなのだろう。
…結麻が戻っても、結局オレはあいつとはやって行けなかったってわけだ。
大聖は思った。
何しろとっくに結麻は、瀧を選んでいたのだから。
大聖は何やらスッキリした気がした。
もう、結に結麻を求めることはやめよう。
大聖はそう思っていたが、瀧は、まだどこか遠くを見ていた。




