第9話 リディアの決意
夕闇が迫るサランゼンスの街は、そこかしこでランプの灯りが揺れ、幻想的な雰囲気を漂わせていた。
いつものリディアだったら、その煌めきに目を奪われて、時を忘れて見入ったことだろう。
だが、いまバルザの待つ安宿へ向かうその足取りは、重かった。自分のやろうとしていることの難しさに、やっと気がついたのだ。
(私が間違ってたのかな……バカなことしちゃった……)
と。しかし、そんな沈んだ気持ちや、これからどうしたらいいかという現実的な問題意識は、まったく長くもたなかった。
それがリディアという少女だった。
部屋のドアを開けたら、ベッドに腰を下ろしてくつろいでいるバルザの姿。
それだけで、彼女は沸騰したように頭に血が昇って、すべての神経が彼に集中してしまう。
「よお、本当に時間かかったな。待ちくたびれたぞ」
ニヤリと笑った彼は、甲冑も脱いでシャツの紐も緩めているし、ブーツも投げ出している。
(やだ、すごい破壊力……熱出そう。こんなリラックスした状態って、恋人の距離じゃん。もうイケるやつじゃん!)
リディアはチョロかった。
とても、チョロかった。
「何ぼーっとしてんだよ。疲れたのか?」
バルザが怪訝そうな顔で窺ってくるので、リディアは顔の前で手をひらひらさせて答えた。
「ううん。ぜんぜん大丈夫。ちゃんと登録してきたよ!」
そして次の瞬間、ハッとなる。
(いやこの仕草は女子!)
振っていた手を慌てて腰に当てて「ははは」と誤魔化すが、バルザの顔はいまだ険しい。
(女だとバレることはないだろうけど、これじゃ変なやつだと思われちゃうよ……)
冷や汗をかくリディアをよそに、バルザは軽い口調で「飯は?」と聞いてきた。「これだけ時間がかかったのだから、登録の後にご飯を食べてきたんじゃないのか?」という疑いだったようだ。
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、欲が顔を覗かせる。
(これは、は、初デートフラグ……?)
「それがまだなんだよねー。ど、どこか食べに行く?」
「俺はもう済ませた。ちょっと寝るから、勝手にしてくれ」
「ああ、うん。わかった」
ニヤけるのを必死で抑えながら提案したのに、乙女心は秒で玉砕だ。
そっか。
もう寝ちゃうのか。
勝手にしろって言われちゃったよ。
そんなふうにがっくりしていたのだが、今度はベッドに横になるバルザの背中を見て、再びの沸騰。
ここは安宿。所持金が底をついている二人は、ベッドが二つで目一杯の、小さな部屋に押し込められている。今夜、二人で。この部屋に。二人きり。
(ヤバいヤバいヤバい……私、イビキかかないかな。寝言言ったらどうしよう……朝だって寝癖とか目ヤニとかついてるの見られたら恥ずかしすぎる! 後に寝て、先に起きないと!)
思考が頭の中をぐるぐる駆け巡る。
リディアはまるで夢遊病のように宿を出て、前の通りに並んだ屋台のひとつに吸い込まれ、何か食事を口に運んだはずなのだが、何を食べたのかも、味もわからない。
彼女は不安と緊張でいっぱいだった。
(男の人と二人きりなんて初めてだし、ましてその相手がバルザだなんて……むしろ眠れないかも……)
はたから見れば長身の中性的な美男子が、右往左往している。薄桃色の髪を揺らして、俯いたと思ったら急に何か思いついたように顔を上げてみたりと落ち着かない。
すれ違う女性たちがチラチラと盗み見てはクスクスと笑いながらも〝彼〟の挙動を愛おしそうに眺めている。
だが、今のリディアにはその視線を察する余裕はない。
いつまでも外にいるわけにもいかない。
しかたなく宿に戻ったが、部屋に入る勇気が出ずに、今度は廊下で行ったり来たり。ドアノブを握っては離すを繰り返す。
他の宿泊客に冷たい視線を投げられて、やっと決心した。このままでは不審者扱いされて従業員を呼ばれかねない。
恐る恐るドアを開けると、部屋は薄暗くなっていた。
バルザのいびきが狭い室内に響いている。二日も飲み続けていれば無理もないことだ。
ガチガチに緊張していたのも杞憂だったとホッとしたのも束の間、暗闇に目が慣れてくるや、リディアは思わず見入ってしまった。
粗末な毛布が一枚しかないベッドなのに、眠るバルザはそれさえ剥いでいて、お腹が丸見えだったのだ。
「うひゃあ、ふ、腹筋っ」
不意に漏れた声に、リディアは自分で驚いた。
(誰の声かと思ったら、私だ……。バルザ、女性にジロジロ見られるのだって嫌だろうに、男性に腹筋見られてたなんて、知ったら怒るかも……)
反省して、寝てしまおうと隣のベッドに潜り込む。
いびきが収まると、聞こえてくるのは微かな彼の寝息。
(こっちの方が気になる……)
小さな音だからこそ耳が研ぎ澄まされて、吸って……吐いて……、規則正しい、すぐそこで眠る、憧れの彼の、息使い……
そして窓から薄明かりが差し込んでくる。
結局リディアは一睡もできなかった。
睡眠は諦めて、もう身支度してしまおうと、むくりと起き上がる。
気持ちよさそうにまだ眠っている、バルザの寝顔。
「馬鹿だったな……タイトスさんの言うとおり、女のままで来ればよかった。そしたら、好きって言えたのに……」
リディアはリドの体で、バルザのベッドのわきに跪いた。
「ううん。そんなの、私のわがままよね。今はあなたのために全部捧げたい。大好きよバルザ。必ずテッペン取らせてあげるからね」
リディアは決意を新たに立ち上がった。
(完璧な男の子になって、完璧なサイドキックになってみせる! 絶対バルザが一番なんだから!)
もはや彼女はリディアではなく、リドだった。