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「君を愛することはない」と婚約者から手紙が届いたので



 君が八つの時、私が十の時以降、君とは、十年を、婚約者として過ごしてきた。

 しかし、今後、私が、君のことを愛することはないという結論に達した。


 ついては、婚約の解消を申し出たく――


 』




 ◇◇◇◇◇




 オーウェンが、屋敷の自室にいると、ドアがノックされた。ドアを開けると、執事のジェームスがいた。

 ジェームスは、いつものように姿勢を正して言った。


「若旦那様、失礼いたします。先日出されたお手紙についてですが、婚約者様から――」


 ジェームスの言う手紙が何か、オーウェンはすぐ思い当たった。オーウェンは、数日前、二歳年下の婚約者と婚約者の父に宛て、婚約解消を申し出る手紙を送っていた。


「返事があったか?」

「ええ」

「では、そこに置いておいてくれ」

「畏まりました」


 オーウェンは、ジェームスに背を向け、窓辺に行った。銀の髪が風でなびいた。


 返事が来るのが、思った以上に早い。手紙が届いて、すぐに返事を書かなくては、国の端にあるこの地まで、この早さで手紙は届かない。


 十年も婚約者でいながら、一方的な婚約解消の申し出だ。いつも穏やかな彼女でも、流石に腹が立ったのかもしれない。




 オーウェンは、開いた窓から、濃紺色の瞳で、かつての婚約者が住む地の方角を見た。


「さようなら、ヘレナ」

「まだお別れではありませんよ、オーウェン様」


 執事のジェームスよりも高く、聞き覚えのある優しい声が、後方から聞こえ、オーウェンはまさかと思い、パッと振り返った。

 振り返った先には、その声の主がいた。亜麻色の髪に、翠色の瞳の女性で、先般、手紙で婚約解消を申し出た、オーウェンの婚約者のヘレナだった。




 ヘレナは、旅装束をしていた。


 王都に近いヘレナの父親の領地から、国の端の領地であるオーウェンの父親の領地まで、馬車で、二泊三日の距離がある。更に、現在、この国の政情は不安定だ。


 お付きと共であったとしても、彼女自身が、この情勢で、それだけ離れた距離を移動したのかと、オーウェンは率直に驚いた。


「深窓の君が、よくこんな国の端まで来られたものだな」

「存外、何とかなるものだと、私自身、驚いております」


 出会った頃のヘレナは、気弱な大人しい少女だった。でも、目の前の彼女は、首をすくめると、冗談めかして、そんなことを言ってのけた。




 彼女の意外な姿に驚いたものの、オーウェンはすぐに冷たい目をヘレナに向けた。


「……何用だ?」


 ヘレナは怯むこともなく、背筋を伸ばし、告げた。


「異議申し立てですわ。十年も婚約しておきながら、まさか、突然、あんなふざけた手紙を一方的に送りつけて、同意するとでもお思いですか? 手紙でのやり取りなど、埒が明かないと思い、父と交渉して、ここまで参りました」


 控えめだと思っていたヘレナが、堂々と主張する姿には面食らったものの、主張を覆す意思はないオーウェンは、淡々とした調子で言った。


「知っての通り、父が不在なので、当主代理として、私が手紙を書いた。冗談などではなく、婚約の解消が我が家の意向だ。慰謝料を求めるというのなら、支払う。何か不備があったのなら、この場で訂正しよう」




 オーウェンがそう言うと、ヘレナは手元の鞄から、手紙を出した。


「承知いたしました。では、手紙に疑義がございますので、早速ですが、確認させていただきますわ」


 数日前、決意して、彼女に送った手紙と、もう会うことはないと思っていた婚約者が眼前にいることに、内心、オーウェンが居心地の悪さを感じていると、ヘレナは続けた。


「では、まず一点目。『人の話を聞くばかりで、主張をしない、君の性格が気にかかっている』とありますが――」

「待て」


 嘘がないよう、何度も読み返し、書き上げたので、よく覚えていた。ヘレナが読み上げたのは、オーウェンからヘレナへの私信だった。


 ヘレナが、家と家の約束事である婚約部分ではなく、私信部分を確認しようとするのに、オーウェンは頭を抱えた。


「補償や手続きではなく、わざわざそんなことを確認しに来たのか?」

「補償や手続きの前に、この結論に至った経緯を確認することは肝要と存じますわ」


 オーウェンは溜め息を吐いた。


「婚約の解消だけではなく、君への罵言にも怒っているのか? 無礼であったというのなら、謝罪ならしよう」

「真実が知りたいだけなので、結構ですわ。では、手紙の確認に戻りましょう」


 ヘレナは手紙を指し示して、続けた。


「オーウェン様は、私の主張が弱いのが気にかかるとのご指摘ですね。いずれ領主となられるオーウェン様の配偶者としての資質を疑われたものと読めました。

 でも、今のように、意にそぐわないことがあれば、きちんと主張くらいできます。オーウェン様のお手紙にあったことは、ご指摘に当たらないように思います」

「……淑女としてあるべき姿の議論は残るが、そのようだな」

「これでも、婚約解消の意思は変わらないでしょうか」

「意思を撤回する気はない」

「そうですか。では、次に参ります」


 オーウェンの言葉に、ヘレナは、手紙を再び読み上げ始めた。


「『私が幼い頃、父が戦場に行き、不在となった。そこで、後見人となってくれたのが、君の父君だ。君の父君の手前もあり、君だけを見てきたが、私も成人して数年経った。もう後見も不要。君以外の女性にも、目を向けてみたい。』

 これも、真実でしょうか」

「そうだ」

「本気ですか?」


 苦い顔でオーウェンは言った。


「ああ。それを理由に慰謝料の増額でも求める気か? とはいえ、それで、君の気が済むのであれば、応じよう」


 オーウェンの自己中心的な言い分にも、ヘレナは平然と答えた。


「いえ、不要です。ただ、随分と、悠長なことだと思いまして」

「何?」

「『君以外の女性にも、目を向けてみたい』とありますが、私以外の女性に、心当たりはあるのですか?」

「……それは、これから探すつもりだ」

「そうですわよね。これまで、オーウェン様は、ずっと私だけを見つめてくださいましたもの。それこそ、私の父の手前、仕方なくだったとは思えないくらいに」


 ヘレナは、余裕の笑みさえ浮かべているように見えた。


 それに、嫌な予感を感じながら、オーウェンは聞いた。


「……君は、君の父君から、何か聞いたか?」


 オーウェンは、ヘレナの父には、彼女に宛てたものとは、少し違う内容の手紙を書いていた。

 彼女の父が、彼女にその内容を話す利点があるとは思えなかったが、彼女が、その手紙の中身を知っているのであれば、強気でオーウェンを問い詰めるのにも合点がいった。


 しかし、ヘレナは、それを否定した。


「いいえ、何も。

 ただ、この婚約の今後については、全て、私が決めていいと、父から許可を得ています。なので、婚約の解消を望まれるのでしたら、私を説得してくださらないと、できませんよ」




 ヘレナがどこまで真実を掴んでいるのか、オーウェンが焦る気持ちでいると、ヘレナは再び口を開いた。


「では、最後に。手紙で最も気になった部分です。『今後、私が、君のことを愛することはないという結論に達した。』」


 オーウェンが祈るような気持ちでいると、ヘレナは部屋にあるオーウェンの机の上に視線をやった。そこには、一枚の古いハンカチがあった。


「さて、この結論について問う前に、一点、気になるものを見つけました。

 オーウェン様の私室に入るのは初めてですが、随分と物が少ないですね。これから何処かに去るための片付けを済ませたかのように。

 でも、机の上にあるハンカチには見覚えがありますわ。私が、オーウェン様の十五の誕生日に贈った刺しゅう入りのハンカチですね。別れた婚約者からの贈り物を大事に持って、どこに行くつもりですか? もっとも、別れなんてしませんけれど!」


 困ったような表情で、言葉を発しなくなったオーウェンに、勝ち誇ったように、ヘレナは笑った。


「ほら。手紙に『愛することはない』なんて書きながら、どう考えても、私のことを、ずっと愛しているじゃありませんか」




 全て彼女に見透かされているという諦めと共に、俯き、歯切れ悪く、オーウェンが答えた。


「……手紙に、嘘はない。

 これから先、君を愛することはできない。我が家は隣国との争いを終わらせられない責任を問われ、私も、父がいる戦場に行くことが決められた。父は、争いに勝利するまで戻ってくるなと命を受け、何年も領地に戻ってこない。私も、一度行った後は、いつ戻れるか分からない。生きて帰って来られるかも分からない。

 君の父君には、大事な君を、そんないつ帰ってくるともつかぬ私の婚約者でいさせるわけにはいかないから、婚約を解消してほしいと願い出た」

「やはり、そういうことだったのですね。現場を押さえられたのですから、手紙を受け取ってすぐに、ここにやって来て良かったです」




 二人の間に少しの静寂が落ちた後、ヘレナが、呆れを含んだ声で言った。


「それにしても、騎士道を嗜むというのは、不便なものですね。嘘をつくことさえままならないのですから。

 『君の性格が嫌だ』ではなく、『君の性格が気にかかっている』。『他に好きな女性ができた』ではなく、『君以外の女性にも、目を向けてみたい』。『嫌いになった』ではなく、『今後、愛することはない』。

 これでは、私への想いが隠せていませんよ」

「……騎士道がなくても、好きな女性には、誠実でいたいものだ。でも、反省している。君のためなら、自ら汚れても、嘘をつき通すべきだった。こんなことを切り出すのに、偽善ぶらず、『嫌いになった』と書けば良かった」


 オーウェンの言葉に、ヘレナが目を丸くした。


「嘘だと分かっていても、そんなことを言われたら、傷付いてしまいます。どうぞお止めくださいませ」

「そういうものか」

「そういうものです」


 そして、ふふ、とヘレナが笑った。


「敢えて、オーウェン様の失敗を挙げるとすれば、手紙一つで、私を納得させられると思われたことでしょうか。

 十年を共に過ごしたのです。口先で何を言ったところで、オーウェン様の誠実さも、私を愛してくださっていることも、積み重ねた年月で、既に理解してしまっているのですから」




 その声の優しさに、オーウェンがゆっくりと顔を上げると、出会った頃の庇護欲を掻き立てられる、可憐な少女から、自信に満ちた、美しい女性へと変わった、婚約者がいた。


 オーウェンは、ヘレナを眩しく見た。




 ヘレナとオーウェンは、オーウェンの父が隣国との争いに行く直前に、婚約した。

 オーウェンの父が家を離れるに当たり、オーウェンの後見を頼むため、学友であったヘレナの父を頼り、結ばれた縁だった。


 屋敷には執事ら頼れる使用人がいて、後見人としてヘレナの父がついてくれたとはいえ、父が去った後のオーウェンは、父の分も立たねばと、気を張る日々だった。


 そんな中、ヘレナは、控えめではあったが、優しく、常にオーウェンをまっすぐに思い、オーウェンに安らぎをもたらしてくれた。


「父不在の中、当主代理であるのに、成人するまでは、後見なしで何もできない自分自身がもどかしかった。成人してからも、自分の至らなさに直面させられるばかりだった。王家からの圧力を悔しく、苦しく思う日もあった。

 でも、いつの時も、一心に私を慕ってくれる君の存在が、ずっと支えになっていた。感謝している。今の君なら、私などいなくても大丈夫だ。私のことは忘れて、幸せになってほしい」




 オーウェンがそう言って頭を下げると、頭上からヘレナの声が響いた。


「幼い私は、体が弱く、外に出ることもままならず、ご承知の通り、何も知らない、臆病な少女でした。屋敷に来てくださったオーウェン様から、国のこと、社会のこと、民の暮らし、本当に色々なことを学びました。

 その中でも、特に、オーウェン様からでないと学べなかったと思うのは、人は愛されると強くなれるということです。

 貴方の手を放して、今の私ではいられません。離れていても構いません。どうか……、私を弱かった過去の私に戻さないでくださいませ……」


 これまで気丈にふるまっていたヘレナの声が震えているのに気付き、オーウェンが再び顔を上げると、ヘレナは瞳に大きな涙を湛えていた。


 オーウェンは、目を離せず、ヘレナを見た。ヘレナが続けた。


「私では、オーウェン様を強くする存在にも、オーウェン様が愛を信じられる存在にもなれないでしょうか。

 私にとって、オーウェン様がそうであったように――」




 ◇◇◇◇◇




 二年後――




 父に笑われながら、オーウェンは帰路を急いだ。


 二年弱ぶりに戻る屋敷には、愛おしい彼女が待ってくれているはずだ。




 屋敷が見えると、やはり、門の前で、執事のジェームスらと共に、亜麻色の髪を靡かせながら、手を振っているヘレナがいた。


「おかえりなさいませ、オーウェン様」

「ただいま、ヘレナ」

「ご無事で、何よりです」

「君という女神が付いていたからな」


 ヘレナを抱き上げながらオーウェンがそう言うと、ヘレナはクスクスと笑った。


「オーウェン様やお義父様の奮闘あってこそ、納得いく、終戦の条件が整ったものと存じます」


 オーウェンの言葉を冗談だと言わんばかりのヘレナに、オーウェンは神妙な顔で答えた。


「いや、それだけではないことは知っている。君が、君の生家やご婦人方と共に、終戦に向けた動きを作ってくれたと聞いた。……本当に強くなったな」

「あら、ご存知で。でも、皆が、王家の面子のための長い戦いに辟易していましたもの。私はその流れに乗っただけですわ」


 さらりと言ってのけるヘレナだが、それがどれほどの大事かは、オーウェンには重々分かっていた。


「君は一体、どこまで強くなるのだろうな」


 最愛の妻に、畏敬の念を込めて、オーウェンが言うと、ヘレナはニコッと笑って、答えた。


「それは、貴方がいればどこまでも、です」


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