承.
承.
承知していたならば、こなかった。
それが嘘偽りのない感想だった。
標高が一千メートルにも満たない山を登る。
それは夏のちょっとした思いつき。
電力の節約が叫ばれた年の。
世の中には避暑地、と呼ばれている場所がある。
文字通り、暑さを避ける地だ。
暑さが避けている地、とも言えるだろう。
有名どころでは軽井沢。
少し意外性を求めるなら宿場町で有名な箱根もそう。
なぜそれらの土地を暑さが避けるのか。
答えは他の地名が教えてくれる。
例えば、上高地に那須高原。
決め手は、“高”。
つまり、標高が上がれば気温が下がる。
折しも、屋外ではマスクを外していいなどと、なぜか宣伝? 周知活動? が始まった頃。
いやいや、最初っからそうだったよね? という疑問はさておき、それならばと口元の解放感も求め。
自宅近くにあった人気も人気も無いらしい山の登山道の入り口で、登山者名簿とマジックで表紙を飾られたノートに名前と連絡先を書いたのは、夏も盛りの朝の事だった。
みーん、みーん、みーぃん、じじじじ。
うるさいぐらいの蝉の声をBGMに一歩一歩。
低く、道が整備されていても山は山。
それなりに準備してきたリュックの肩紐と背中の接触面はずしりべたりと、存在感を主張してくる。
まだまだ本気を出していないはずなのに、じりじりと肌をあぶる太陽。
雲一つ無い中の唯一の味方は時折、梢を揺らす風だけだった。
と。
道、半ばに達した頃だった。
霧が出てきたのは。
足元にまとわりつくように現れた白い流れは、引き返そうか悩むまもなく、膝、腰、胸へと駆け上がり。
すっぽりと全身を覆って前進するスピードを落としたのだった。
あー。なるほど。
これがこの山に人気の無い理由か。
当初清涼感があった細かい細かい水の粒は、あっという間にベタついて元々かいていた汗と一緒になって不快感に変わった。
それにしてもすごい霧だ。
一寸先は闇ということわざがあるが、黒ではなく白かったとしても結果は同じらしい。
一寸=約3センチどころか、ほとんど触れるぐらいまで近づけないと自分の手も見えない。
暗いわけでもないのに視界が開け無いという体験は面白いが、そうともばかり言ってはいられない。
こんな状況なら引き返すしかないのだが、もう後ろの景色も漂白済みだ。
一歩も動いていない今はまだ前後がわかるが、踏み出せばたちまち方角はわからなくなるだろう。
せめて、ロープでも張ってあればな。
全体的にそうきつくないからか、登山道の縁にも真ん中にもは手すりのようなものはなかった。
時々切り立った崖の横を通ったが、見てわかるような危険な場所に近寄るのは自己責任、なのだろう。
さて、どうしたものか。
唯一の手がかりというか、足がかりは傾斜か。
慎重に足元を探りつつ、低い方に降りれれば下山は可能だろう。
ザッ、と。
方向を見失うのが怖くて、ゆっくりと後ずさった時だった。
それが聞こえてきたのは。
───今日の甲子園球場は晴れ、いま選手が・・・。
聞こえてきたのはこれから始まるであろう熱戦の中継だった。
カラン、コロン、カラン。
この山にクマがいるのかは知らないが一応リュックには着けている。
今、上から降りてきた人はラジオ派なのだろう。
姿はさっぱり見えないが、電波が変換される独特な音声は大きめで、野生動物に存在を知らせるには十分だった。
・・・ついでに自分にも。
よほどこの山に慣れているのだろう。
こんな視界の利かない状況なのに、移動は滑るように滑らかだ。
普通に歩くどころかちょっと早足。
話しかけるどころか、足に集中しないと置いてきぼりにされそうだ。
相手と自分。双方無言で、何分進んだだろうか?
ざわざわ、ざっ! ごう!
迫る風音、あたる強風。
思わずつむった目を開けた時には。
吹き散らされた霧は綺麗さっぱりいなかった。
そして。
前にいたはずのラジオの人も。
・・・ここで、目の前が崖なら大いに慌てるところなのだが。
ありがたい事に普通の登山道だったので、自分は首をひねりつつ、元きた道を戻った。
避けにきたはずの暑さは。
もう感じてはいなかった。