朧-oboro-
いつだって良いことがなかった。いつだって損な役を買っていた。「世間」様からすれば僕は社会の歯車から外れてしまった欠けた部品なのだろう。錆びた部品は奇麗にすれば元居た位置に戻せる。でも、欠けた部品は捨てられるのみなんだ。それが運命なんだ。
また嫌な夢を見て目が覚めた。ぼんやりした頭で散らかった部屋を見渡しても此処には僕一人しかいない。
分かってる、分かってはいるけれどいつかこの孤独にも終わりが来るんじゃないかなんて馬鹿な期待をしてしまう。漫画やアニメじゃないのだから、都合のいい展開なんて起こるはずがない。それに、僕が何かの主人公になるなんてありえない。自分の人生ですら脇役なのに…
煙草に火を付ける。この部屋で今一番奇麗なものは火種だけだ。
煙に大きなため息を含ませて吐く、吐く、吐く─────。
燃え殻が太腿に落ちた痛みでようやく目が覚めた。今日が何月何日で、そもそも今は何時なのか、確認する癖はとうの昔に消えてしまった。予定があることなんてごく稀だし、最近のメディアはよくわからない感染症の話ばかりなのでテレビも見なくなった。そうなると必然的に時間に縛られて生きなくなってしまった。
こんな僕だけれど、唯一の生きがいである推しの動画チェックだけは怠らない。現実での居場所が全く存在しないから、せめてネット上では1人のリスナーとして、彼女を応援したいのだ。
「とっちぃ」は大手動画サイトで活動している、駆け出しの配信者である。彼女は可愛らしいビジュアルや料理の腕前を活かして着実にファンを増やしている。彼女の愛嬌、黒く短い髪、トークスキル、そして何より時折見せる彼女の「闇」のギャップに僕は心打たれたのだ。彼女を見ていると、いつも「こんな子が恋人になってくれればな…」と妄想に耽ってしまう。そして自分の哀しい現実に直面し、心を痛めるのだ。
こんな毎日の繰り返しさ。
いつだって良いことがなかった。いつだって損な役を買っていた。僕が小学生になるころには両親は弟の面倒ばかり見るようになって、僕は家庭の中にすら居場所がなくなった。容姿も悪く物覚えも悪い、何をやっても人並みにできない僕を見限って反対に容姿も、頭も、運動神経も良い弟を可愛がるのは、当然といえば当然だったのかもしれない。イジメで高校を中退してから10年引きこもっている僕、有名大学を出て大手企業に就職した弟。天と地の差である。僕は成功体験があまりに少ないんだ。他の人が当たり前に手に入れているものを、僕は何も持っていない。努力を放棄したのではなく、努力は報われないものだと認識するようになってしまったので、僕のせいじゃない。いや、何かのせいにしたいだけなんだ。そんなこと僕自身が一番分かっているさ。
自分の今までの人生を振り返るとまた心が痛む。こんな時僕はとっちぃの動画を見るようにしている。会ったこともないのに顔を見るだけでこんなにドキドキするのは何故だろう。配信者に恋する?いやいやそんな馬鹿な…これは所謂「ガチ恋勢」という括りになってしまうのだろうか。恋愛から逃げ続けてきたので自分が恋をしているのかすら分からない。分かっていることは一つ、僕は彼女に対して特別な感情を抱いてしまっているということだけだ。大きな感情を。
僕が眠っていた間に彼女は生放送をしていたらしい。「掃除配信」と付けられたタイトルの通り、ただ自分が掃除をしているところを映しているというとっちぃのシュールなセンスにまた胸をときめかせつつ視聴していると、画面の中のとっちぃがベランダに洗濯物を干しに行った。パンツでも見えないかなと邪な思いで画面を見つめていた僕は、洗濯物よりもベランダの外の風景に目を奪われた。
見たことのある看板が少しだけ見えた。ピンク、緑、オレンジのやたらと派手な看板。あれは確か…僕がまだ引きこもりになる前にバイトをしていた「ドラッグ オノデラ」に違いない。あんなに派手でセンスのない看板は全国にドラッグオノデラしか存在しないだろう。特定を気にしないで外を映してしまうのは、彼女の天然な性格かはたまた自分が売れていない配信者だから油断をしているのか…脳で判断するより先に、僕の指先はドラッグオノデラのことを検索し始めていた。
数十分ほど経ってからふと我に返った。いや違う、僕は特定なんてしようとしていない。たまたまマップアプリを開いて、たまたまドラッグオノデラの店舗展開を調べているだけだ。いやまさか、いくら僕でもそんな気持ちの悪いことはしない。これじゃあまるでストーカーみたいじゃないか。確かに暇さえあれば彼女のSNSのいいね欄まで隅々確認して他の男の影がないか見ているが、それ以上のことはしていない。DMを送るなんてしたら迷惑だろうし、それこそ「ネットストーカー」だ。そんな僕が本物のストーカーみたいなことするわけないじゃないか。それでも画面をタップする指が止まらない。彼女の全てを知りたいという欲求が抑えられない。結局、ドラッグオノデラが僕の住んでいる東京にしか展開されていないという事実を知って、彼女と同じ都市に住んでいるという喜びと、自分がストーカーのようなことをした自己嫌悪を胸に抱きながらその日は眠った。
いつだって良いことがなかった。いつだって損な役を買っていた。目が覚めるといつも味わう孤独。孤独。孤独。独りでいることに慣れない、というよりは隣に誰かが来るのかもしれないといった荒唐無稽な期待を捨てきれないのだろう。期待や希望なんて捨てたほうが楽なのは分かっている。けれど捨てきれない自分がいる。誰かに縋りたい。誰かに寄り添いたい。誰かに救い出して欲しい─────どこから?
この底なしの孤独から。痛い、独りは痛いんだ。全身に響く鈍痛は、いつになっても慣れないんだ。
いつもならこんなことを考えていると、心を病んでしまって一日何もできないが、今日はどうしてかいつもと勝手が違うようだ。この感情は何だ?外に出たい?…いや本当は分かってる。とっちぃの住んでいる所に行きたいんだ。でもそれを認めてしまったら自分を止められない気がする。立派なストーカーじゃないか。歪んだ愛じゃないか。
…愛?自分にギョッとした。この胸の痛み。鈍く痛めつける「孤独」の痛みじゃなくて、このメラメラと燃えるような、熱いような痛みが「愛」?今まで彼女に対して持っていた大きな感情の正体は、「愛」だったのか?脳内がハテナマークで埋め尽くされた。答えが出る前に、一か月ぶりの外へ飛び出していた。
久しぶりに浴びる日光は刺さるように僕の身体に降り注いだ。眩しさに目を細めながら、足はドラッグオノデラに向かっていた。
都内の端の街、疎外された巨大な要塞。東京拘置所を見上げながら歩く。ここだけ世間から隔離されたような、見た目はコンクリートの城だが中には姫や王なんていない。犯罪者と呼ばれ世間から後ろ指を刺されて生きている人間が所謂「クサイ飯」を食べて命を繋いでいる場所だ。僕は家族には迷惑をかけてばかりだが、まだ犯罪に手を染めたことはない。人間として、まだ僕のほうがマシに決まってる。こんな施設に世話になることはないだろう。
ドラッグオノデラに到着した。元々大きい企業ではないので、都内に数件しか店舗がない。東京拘置所近くのこの店舗は僕がバイトをしていたところである。さて・・・前回の「掃除配信」でドラッグオノデラの看板が見えたシーンのスクリーンショットを眺める。近くにアパートは数件あるが、窓が看板の方に向いていて大体スクリーンショットの中の距離感と同じようなアパートは・・・あった・・・。
心臓が高鳴る、脳で考えるより先に足が動いていた。あの中に彼女がいるかもしれない、そう思うだけで踏み出す足を止めることができない。四階建ての小さなアパートだが、写った看板の高さと照らし合わせると恐らく三階だろう。気が付くと僕は三階に居た。スクリーンショットを眺めながら、大体の位置の表札を確認する。「加藤」「池田」「鈴木」・・・「栃内」。とちない、だからとっちぃ、なのか?
野生の勘、とでもいうのだろうか。僕はこの305号室が彼女の部屋であるとしか思えなくなった。彼女の住所特定を初めて一日目で見つかったことに運命じみたものすら感じていた。僕はその足で近くのコンビニへ向かい、便箋とペンを買って、ある置手紙を管理人室へと置いてその日は帰宅した。
とっちぃ(と思われる)アパートに行ってからというもの、僕は以前に増して配信サイトにかじりついて彼女の配信の通知を待った。ここ数週間、彼女は配信を行なっていない。SNSの更新はされているので、体調不良というわけではないだろう。僕は昼夜を問わず配信が始まるのを待っているので常に眠気が襲ってくる。今日も配信は無しか…と、諦めて眠ろうとしたその瞬間、「LIVE 雑談配信」とスマホに映し出された。僕は脳が判断するより先に画面をタップし、配信画面へと行った。
どうやら一番乗りで視聴できたらしい。とっちぃはマイク付きのヘッドホンを身に着け、以前より小声でリスナー達に挨拶をしていた。
「皆さんお久しぶりですー 配信出来てなくてごめんねー」と可愛らしい声で彼女は言った。
とっちぃ久しぶり!マイク変えたんですか?
と、僕は送信した。彼女は少し時間を置いてから、
「そうなんです、大家さんに独り言がうるさいって苦情が来てるって言われて、前よりも高性能のマイクにしたんです。小声でも音、拾ってくれるでしょ?」と話した。
その時僕は確信した。やはりあの部屋がとっちぃの部屋だったのだと。
僕はこの前、彼女のアパートの管理人室に「305号室の住人の独り言が気になる」と匿名の置手紙を置いて帰った。その後彼女に何か変わった様子があれば305号室がビンゴ、といった作戦だったのだが、彼女はそれにまんまと引っかかったのである。
僕は今までに味わったことのない高揚感を憶えた。この視聴者達の中で自分だけがとっちぃの家を知っているという事実。胸が高鳴り、ため息を一つついた後、
「会いたい」
と口からこぼれた。
彼女の場所がわかる、大好きな人が今確かにあの場所にいる。欲しい。彼女を自分のものにしたい。
今まで二十数年間の人生、まともに恋愛をしたことがなかった分、孤独が痛かった分、彼女に対する気持ちは狂気的なものへと変わっていった。「愛」、そうだこれが愛だったんだ。今すぐにでも会いたい。
胸に抱いた熱は冷めることを知らず、彼女のアパートを特定したあの日のように体が勝手に外へ飛び出していた。
解離的な状態だったのかもしれない。ふと気が付くと305号室の表札の前にいた。
───僕は一体何をしているんだ?ここまで来て何をしようとしているんだ?
インターホンを押す?いやいやまさか!さすがに今の状態だろうと用もないのに家に押し掛けるのがヤバイことくらい理解できる。でも体は帰ろうとしない。会いたい本能と少しの理性が戦っている。
「お前、誰だ?」
背後から男の声がする。自分のことで一杯で人の気配を感じることができなかったようだ。
「さっきから変だよお前。アヤの知り合い?」
アヤ…?もしかしてとっちぃの本名か?僕が何も答えずまごまごしていると、男は
「アヤ!この男誰だよ!」と305号室に叫んだ。
「え?誰か来てるの~?」と、本物のとっちぃが僕の目の前に現れた。
僕は恥ずかしいほど赤面した。憧れの女性が唐突に現れたのだ。何か話さないとまずいと思いつつも、口がうまく動かない。
とっちぃは僕を見ると、あからさまに嫌な表情になり、
「こんな人知らない…」と男の後ろに隠れた。
「お前何なんだよ!俺の彼女になんか用か!」と男は叫んだ。
嫌な予感はしていた。こいつ、とっちぃの彼氏だったのか…
僕は今まで彼女に抱いていた「愛」が「絶望」に変わったのを体感しつつ、何も言わずにその場を後にした。後ろからは彼氏の怒号が鳴り続けていたが、もはや僕の耳には何も聞こえなかった。
とっちぃに彼氏がいたことよりも、彼女が僕を初めて見た時のあの目…まるで汚物を見るような眼だけが脳裏から離れなかった。僕はしばらくアパートの階段から動けなかった。涙と鼻水でシャツの襟が濡れるほど泣きじゃくった。
どれくらいの時間が経っただろう。10分かもしれないし、1時間かもしれない。僕は階段の踊り場に置いてある灯油タンクに目が行った。とっちぃは僕の生きがいだった。僕の全てだった。今から「とっちぃにとっての唯一無二」になるには、「とっちぃと最期を迎える」しかないと思った。
───もう僕は何も失うものはない。彼女さえ手に入ればそれでいい。
僕は灯油を頭から被り、305号室のインターホンを連打した。
少しだけ開いたドアを無理やり開け、彼氏を突き飛ばし僕はそのままとっちぃに抱き着いて、文字通り「愛の炎」を着火した。大好きな人と交わす抱擁は本当に格別なもので、痛みなんて微塵も感じなかった。この熱さが僕らの愛の大きさなのだから。
いつだって良いことがなかった。いつだって損な役を買っていた。「世間」様からすれば僕は社会の歯車から外れてしまった欠けた部品なのだろう。錆びた部品は奇麗にすれば元居た位置に戻せる。でも、欠けた部品は捨てられるのみなんだ。それが運命なんだ。
でもこんな人生の最期は本当に幸せなものだった。僕と彼女から発する黒煙は東京の夜霧に混ざり合い、その上では月がおぼろげに光っていた。