海上保安庁
1948年、海運総局を前身とした運輸省外局の「海上保安庁」が発足した。帝国海軍から引き継いだ掃海部隊の所属先が、「海上保安庁航路啓開部」となった事は前述の通りである。
海上保安庁は海の警察的地位を色濃くし、諸外国の準軍事的なコーストガードとは一線を画して、法律(海上保安庁法)に基づいて軍事的側面をなるべく排除した組織である。勿論最低限度の武装は施されているが…。
1948年6月25日に発生した朝鮮戦争により、その戦禍から逃れる為に、朝鮮半島からの密入国者が増加の一途をたどると、海上保安庁はその対応の為に朝鮮半島周辺海域である対馬周辺に、巡視艇を常時6隻配備するなどして、警備を開始した。発足して間もない当時の海上保安庁が検挙した犯罪(不法出入国・密貿易・密漁、漁業関係等)の件数と検挙人数は、1949年が3251件5397人。1950年が5014件6882人。1951年が10178件12949人。と日本本土が独立する3年間で急増していた。
その頃の日本の秩序は、不安定要素に晒されており、その上日本本土の独立や主権の回復により、連合国軍(米軍)のプレゼンスは低下していた。1950年7月8日には、当時の吉田茂首相に宛てた書簡で日本の沿岸線の保安確保の為に、海上保安庁強化の必要性を公安維持の為の警察力強化と併せて指摘している。
具体的には「75000人からなる国家警察予備隊を設置すると共に、海上保安庁の現有海上保安力に8000人を増員する様に必要な措置を講じる。」という内容で、マッカーサー米陸軍元帥は日本政府に海上保安庁の増強を打診してきた。当時海上保安庁次官であった柳沢米吉は政府計画は、以下の様な政府計画を即座に作成し直した。1951年1月末に9075人だった人員を1950年度予算(1950年4月~1951年3月)で2246人を増員する。海上保安庁保有船舶数も1950年度中に29隻を新規に建造予定だった所へ、1950年度、51年度予算において巡視船その他80隻を増強するという返答を日本政府はマッカーサー米陸軍元帥に返した。
さて、海上保安庁法には、「海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され又は軍隊の機能を営む事を認めるものとこれを解釈してはならない。」(海上保安庁法第25条)という規定がある。つまり要約すると、海上保安庁は海軍ではありませんよ。と言って法律にわざわざ明記してある。
後に登場する海上自衛隊が海軍としての役割を果たすのが、明確になったのはその法律の影響が大きい。つまり、海上保安庁は海の警察で司法権の行使が出来る組織で、海上自衛隊はネイビー(海軍)的なものであり、海軍に準ずる組織である事が明確になっていく。ただ、1951年前後の時代には、海上自衛隊はまだ存在していなく、その3年後に防衛庁が設立され、ようやく自衛隊創設の運びとなる訳である。諸問題を解決する暇を与えてもらえずに。