発足、防衛施設庁
1954年に防衛庁と自衛隊が誕生した事で、調達庁の仕事内容も変わらざるを得なくなる。それまでは、占領期の"占領軍"が独立後の"駐留米軍"に変わっても、調達庁は日本側の窓口として機能しており、その政府内の立場は"総理府の外局"であった。
しかし、防衛庁の発足に伴って仕事が"米軍の世話"だけでは無くなったのである。米軍から返還された施設を自衛隊が使用したり、米軍の施設・区域が自衛隊との共同使用になったりする場合も増えてきた。つまり、調達庁と防衛庁の間で調整しなければならない案件、同じ政府内で調整し連携する事が増えたのである。
こうした状況を背景に、1958年調達庁は"防衛庁の外局"となった。職員数は約3100人。特別調達庁発足時の約1万1千人であったのと比較すると、約4分の1の人数である。その後調達庁は、1962年に自衛隊の土地、建物の取得・工事・管理を任務とする、建設本部と統合され防衛施設庁となる。それから45年後の2007年に防衛庁が防衛省に昇格するのにあわせて、防衛施設庁は吸収合併され、廃止となった。
ところで、軍隊の名残は例えばドイツでも見られる。冷戦期ドイツはベルリンの壁を境に東西に分断されていた。旧西独軍は第二次世界大戦中の旧独軍のMG42機関銃を戦後加盟していたNATO(北大西洋条約機構)の仕様に従って改造し、"MG2"と名付けた。さらにその発展型として新造された"MG3"は西独の他、オーストリア、チリ、ギリシャ、イラン、パキスタン等でも使用された。尚、イタリアでは第二次世界大戦後、MG42を基にMG3の技術を導入した機関銃"MG42/59"を生産。2020年現在は流石に生産は終了したものの、イタリアではまだまだ現役の武器である。
第二次世界大戦中にドイツが開発した軍事技術の中には、冷戦後も有能だと各国が評価する物が残っていた事を示している。第二次世界大戦後、日本は徹底的に解体されたが、防衛庁も自衛隊も新憲法の元で新たに発足した組織である。しかし防衛庁・自衛隊は、帝国陸海軍のDNAを宿している事を我々は知るべきなのである。




