復員庁
第一・第二復員省は予め、設立から4ヶ月後には廃止される事が決められており、その業務が二つの組織を統合・縮小した「復員庁」に引き継がれる事になった事は、前述の通りである。
その「復員庁」も1947年には廃止になっている計画であった為、一応の日本政府としての大規模な復員業務は、決着したと見て良いだろう。ただし、完全に全ての旧軍人が復員の確認を出来た訳ではない。その為、復員業務は1959年まで継続した事も前述の通りである。
これで形式上、日本陸海軍の兵士の引き上げ作業である復員事業は完了した後になる。そして、米国を始めとするGHQ(連合国総司令部)によって、日本が新たなる戦後をスタートする事になったのである。
そのGHQの最高司令官であるダグラス・マッカーサー米陸軍元帥は、当時の世界情勢を知っておく事で、日本の"自衛権"について言及した理由が分かると言う。1948年にはチェコ・スロバキアで共産党政権が誕生して、翌1949年には、ドイツ民主共和国(東ドイツ)と、中華人民共和国が成立。社会主義政権が東欧圏と中国で相次いで誕生し冷戦が始まっていたのである。
米国にとってソビエト連邦(ロシア連邦)は中国と海を挟んで位置する地政学上又は戦略上非常に重要な国である。だがそれよりも対ソビエト、対中国と言う冷戦の最前線にある日本はとても重要な位置にある国であり、日本の軍事的自立はマッカーサー米陸軍元帥の言う通り急務であった。
1948年3月には、米国国防長官であったフォレスタルに対して「ドイツと日本の限定的な軍事武装推進」という内容の書簡を送付したと言われている。マッカーサー米陸軍元帥が、日本の自衛権を強調した1950年代初頭、日本占領を行っていた連合国軍は、約83000人。その中心は米国陸軍の4個師団であった。
1948年1月12日、アチソン米国国務長官は、「極東における米国の防衛線はフィリピン→沖縄→日本本島→アリューシャン」と、占領下の沖縄と日本本島が米国の防衛線である事を公式に発表した。ところが同年6月25日、アチソン声明からは外れていた朝鮮半島で戦争が勃発した事によって、いよいよ対岸の火事と言って見過ごせる状況ではなくなる。
そういった背景もあって、いよいよ大日本帝国陸海軍に変わる別個の戦力に値する軍事組織を作り上げる必要性が出てきた。無論、完全に大日本帝国陸海軍とは、別個体の武装組織を作り上げるのは無理だが、それでも日本の自衛権を守る為には、それなりの軍事組織が必要であった。その認識が、占領していた米国陸軍トップのマッカーサー元帥の頭の中にあった事は、日本の戦後防衛史の中で大きな意味を持ってくる事になる。