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防人(さきもり)の戦後  作者: 佐久間五十六


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警備隊の発足

 保安庁の発足により、1952年(昭和27年)8月1日に保安庁に移管された海上警備隊は、「警備隊」となった。「海軍再建」を視野にいれた米国政府の協力を前提に、海上警備力の強化を構想していた事は、既に述べた通りである。

 海を受け持つ警備隊の編成は、当初は2つの地方隊と3つの船隊群とされた。船隊群は、米国から貸与されたパトロール・フリゲートからなる2つの船隊群と上陸支援艇からなる1つの船隊群からなっていた。

 地方隊は、沿岸の警備を担当し、具体的にはその警備担当区域は1952年8月に秋田から島根までの日本海側と、太平洋側を中心とする、その他海域の2つの区域に分けられてから、1953年11月には、北海道・青森周辺海域、九州・山口周辺海域と残りの太平洋側と日本海側の4つの区域に改められた。

 実質の戦力としては、掃海部隊の延長に過ぎず、海上警備隊の頃と大した差はなかった。結局1954年に、防衛庁と陸海空の3自衛隊が発足する事になるのだが、それまでの間は、(占領期・占領終了後同盟)駐留米軍や米国におんぶに抱っこ状態であった。というのが現実の様だ。

 米国としても、自国の他に一億人もの人間を守る程の余裕は決してなく、その為に日本の軍事的独立を容認し、急がせた形となった。日米同盟の根底には、そのような戦後混乱期の事情も多分に絡んでいる事を忘れてはならない。

 そんな紆余曲折をへてどうにか自衛隊という組織が発足する運びとなったが、米軍兵士の犯罪被害には悩まされ続けてきた。占領下の日本では、「占領軍の事件・事故によって死亡又は負傷した者は約9000人である。」というデータが残っている。連合国軍による占領とは言え、圧倒的に多かったのは米国軍兵士の犯罪であった。

 日米行政協定によると、米軍兵士や軍属、その他家族等が日本国内で犯す全ての罪について、米国の軍事裁判所と当局が「専属的裁判権」を行使する権利を持つという事になっていた。つまり彼等米軍兵士の犯罪は、どんな罪でも米国側が裁判権を放棄しない限り、日本国では裁ばけないという事になっていた。

 それでは流石に不公平があるとして、1953年に裁判権は、日米双方にあると変更された。それから米軍兵士が犯罪を犯す度に、矛盾や問題点が出る事になるのだが、50年以上たった2011年にようやく改善がなされ、日米地位協定が見直された。要するに、米軍兵士や軍属の問題は米国が責任を持つから、奴隷のジャップは黙ってろ。という解釈も、出来る。基地問題や、米軍兵士の犯罪が起きるのは、日本政府の弱腰と、米国政府の身内への甘さが、セットになって出てきた問題である。

 50年近くも日本国民に大切な事を伏せていた日本国政府も米国政府もどちらも問題である。隠蔽体質は組織が変わっても、全く変わっていない様で残念で仕方がない。

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