海上警備隊から警備隊へ
マッカーサー書簡により、海上保安庁が人員を大幅に増員して、1952年(昭和27年)4月26日に海上保安庁の中に「海上警備隊」を発足させていたが、その実態は日本海軍の駆潜特務艇や、哨戒特務艇からなる掃海船43隻であったから、掃海部隊そのものであった。発足したばかりの海上警備隊が3ヶ月後には、また新しい組織に組み込まれる事になったのであるから、慌ただしい話である。
1952年7月31日成立の「保安庁法」に基づいて"保安庁"が同年8月1日に発足。保安庁に移管された海上警備隊は「警備隊」となった。保安庁という官庁の任務は部隊の管理や運営及びそれに関わる事務に限定していた。これは後の、防衛省(庁)設置法の考え方に通ずるものがあるようで、吉田茂首相が当初予定していた「防衛隊」という呼称に含まれる「防衛」や「安全保障」に関わる事務については明記されていない。
保安庁の組織はあくまでも「警察予備隊」の後継組織である「保安隊」と、海上警備隊の後継組織である「警備隊」を統合して、一元的な運用を図るものとされていた。海上自衛隊の原型であった海上警備隊の実質的な活動はほとんど無く、体裁を整えるだけのものになってしまったのは、日本がまだ真の意味で独立していない事の証であった。
さて、その頃の大文字龍太はと言うと…。海上警備隊(後の警備隊)で、哨戒特務艦「豊後」にて少尉として日本近海の掃海を主任務としていた。帝国海軍の時代から10年以上が経過し、やっと手にした士官の座であった。だが、部下も増え10人から20人の部下を持つようになった。大型艦なら100人~200人の部下がいる地位である。所属先がコロコロ変わる事については、慣れたものであったが、やることは変わらなかった。機雷の除去、不審船の警備、船舶の航行の安全の確保。ただシンプルにそれだけを反芻していた。だが、機雷に万が一蝕雷してしまえば、ただでは済まない。木造船がほとんどだった当時の駆潜特務艇や哨戒特務艇では、木っ端微塵になる事は分かりきっていた。
不安定な日本の周辺環境にあって、名前はコロコロ変わっても、自分達が日本の海を守るんだという気持ちに変わりはなかった。その防人のプライドだけは、変わる事は無かった。なぜなら、現場で活躍していたのは、役所の人間ではなく日本海軍の魂を持った"残り物"として体よく使われていた人間ばかりだったからだ。そんな事も知らずにのうのうと生きている奴等に、俺達の存在を知って貰う前に死ぬ訳にはいかなかった。




