巨大な職場環境
調達庁の重要な仕事の1つが、米軍に労働力を提供する事であった。日本国内において、米軍基地は膨大な人数を雇用しうる巨大な職場でもあり、その動向は日本の労働市場にも影響力を及ぼすものであった。
1957年頃の日本でも、日本人の米軍関係労働者数は、12万人弱。25万人以上を数えた1947年頃の「占領軍労働者」の約半分とは言え、かなりの数である。更にこの巨大な職場の動向に影響する事態が起こる。
1957年6月21日、訪米した岸信介首相とドワイト・アイゼンハワー米合衆国大統領は、「岸・アイゼンハワー共同コミュニケーション」を発表した。そこには次の様な表現が盛り込まれていた。
「合衆国は明年中に日本国内の合衆国軍隊の兵力を全ての合衆国陸上戦闘部隊の速やかな撤退を含み大幅に削減する」と明言。その言葉に合わせるかのように1957年8月、在日米陸軍の主力だった第一騎兵師団(約15000人)が日本から撤退。防空部隊(約10000人)も解散。日本本土にいた第三海兵師団第九連隊(約5000人)も当時米軍の施政権下にあった沖縄への移駐を発表したのである。
この撤退と移駐で、沖縄以外の日本における米軍の兵力は激減する。推移を見ると、終戦時の推定100万人が、朝鮮戦争休戦協定(1953年7月)により、推定約25万人となり、そして「岸・アイゼンハワー共同コミュニケーション」の翌年の1958年には、約77000人にまで激減した。(この数に沖縄駐留米軍の数は含まれていない。)
ドラスティックだったのが、1957年の米地上軍の削減であった。特に第一騎兵師団の撤退に伴っては、約10000人の離職・再就職問題が発生した。当時の日本政府は、離職者の生活支援の為、勤続年数に応じて、3000円から10000円の「特別給付金」を支給すると共に、就職斡旋の強化等の臨時措置を閣議決定している。この様な経緯を経て、1960年それまで米軍が直接雇用していた労働者も全て、日本政府が雇用主となる間接雇用になり、調達庁と米軍の間で「緒機関労働協約」が結ばれた。終戦後の混乱期にあった日本にとっては、「今日の敵は明日の友」と言わんばかりに、米国の世話になっていた事がこのデータからは見てとれる。
それが倫理的にどうだったかという事はさて置いておいたとしても、戦後直後の日本が独立を回復するまでの5年間は、米軍の影響力は多大なるものがあったと言える。そして、現在も残る沖縄への過剰な米軍基地負担の問題や米軍基地の問題は、全てがこの戦後の混乱期に、日本を支配していた米軍に依るものだという事も分かる。無論、その時の日本政府の対応も、無関係ではないだろう。




