防衛施設庁へ
1948年1月「終戦連絡中央事務局」は、廃止されその調達業務は「特別調達庁」へと引き継がれた。1949年6月1日に公布された、「特別調達庁設置法」で、定員約7000人の総理府の外局となった特別調達庁の管理業務は、次の3つとされた。
①建物や設備や物品や役務等の連合国軍の需要に対する調達。
②連合国軍の需要や保管や処分。
③連合国軍の特に指示する業務で、占領軍の調達業務
と、一元的に掌握した。1952年4月1日約4000人からなる総理府外局の「調達庁」に特別調達庁は改組されている。占領軍の世話係から、駐留軍の世話係へ一相手の名前が変わったのに合わせるように、名前を変えて組織は、存続した。
1954年に防衛庁・自衛隊が誕生すると、調達庁の仕事の内容も変わらざるを得なくなる。それまでは、占領期の「占領軍」が日本国独立後の「駐留米軍」に変わっても、調達方は日本側の窓口として機能しており、その政府内の立場は「総理府の外局」であった。
しかし、防衛庁の発足に伴って、仕事が「米軍の世話」だけではなくなったのである。米軍から返還された施設を自衛隊が使用したり、米軍の施設・区域が自衛隊との共同使用にになる場合も増加していた。つまり、調達庁と防衛庁との間で調整しなければならない案件や、同じ政府内で調整・連携する事が増えたのである。こうした状況を背景に1958年「調達庁」は、防衛庁の外局となった。職員数は約3100人。特別調達庁発足時の職員数が約11000人だったのと比較すると、約4分の1である。
その後調達庁は、1962年に自衛隊の土地や建物の取得や、工事や管理業務を任務とする建設本部と統合され「防衛施設庁」となる。そして2007年防衛施設庁は廃止されて、「防衛省」に吸収合併された。
ここで、興味深い話を1つ。特別調達庁が連合国軍へ提供していた役務の中には「芸能」も含まれていた事である。当時の観光地のホテルや大都市の劇場は、占領軍に接収されており、そうした場所で「芸能」を提供するのは重要な仕事であった。ただし、その芸能の提供を直接行っていたのは、各都道府県で特別調達庁はその「格付け」を行っていた。米軍キャンプを巡った芸能人の中には、後に名だたる歌手や、ミュージシャンになった人もいる。そんな彼等のギャラの査定までもお役所が担っていた時代があったのである。そういう“事”も立派な"仕事"だったのである。あの頃は。




