終戦連絡中央事務局
停戦の僅か4日後の1945年8月19日、閣議決定に基づいて「終戦連絡中央事務局」が、外務省の外局として設置された。(正式な発足は同年8月26日)この組織は、外国による占領という未曾有の事態に対応する為、日本政府がどう変貌したかを理解する上で、そして現在の防衛省の起源を辿る時に、無視できない存在である。簡単に言ってしまえば、占領軍の世話をする部署と言う事になる。
進駐してきた米軍を主力とする連合国軍(占領軍)は、当初、必要となる食糧や衣服や医療材料から、嗜好品である煙草に至るまで自給体勢をとっていた為、現地調達(日本)する必要は無かったとされている。しかし、飛行場や港湾施設や通信施設や兵舎等の不動産調達や、それらの施設等の整備の為の労働力は、日本国内で調達する必要があり、これが問題となった。
当初、連合国軍は、日本政府内の組織を通さないで、不動産所有者や市町村や警察署に直接要求を出していた。これだけでも、通常ならば問題にならないのが不思議なのだが、更に労働省の身体にマークをつけたり、賃金の変わりにチョコレート等を支給したりして、逃亡を防止していた。これは噂の類いではなく、公文書「防衛施設庁史」に記述されているから、確かな話である。
「ギブミー・チョコレート」の時代に、どんな事を甘受させられていたか考えさせられる。こうした状況も踏まえ、「終戦連絡中央事務局」の任務は、日本と戦争状態だった諸外国の官憲との連絡に関する事務を司る事になった。平たく言えば、占領の受け入れの為の機関である。占領軍からの労働力等の調達要求への対応も、当然含まれる事になる。
停戦から一ヶ月後、主管する外務省のトップに就任したのは、吉田茂だった。トップの総裁に親任官をあて、二人の次長の内の一人に外務次官とする体勢を組んだ。「終戦連絡中央事務局」は、内務省、大蔵省、商務省等関係各省の要員によって運用される事になり、まず地域毎に置かれた占領軍の地方軍政本部に対応する形で、「終戦連絡中央事務局」の「地方事務局」も設置された。つまり、地方の占領軍の為の調達は「地方事務局」が対応する体制をとった。
日米安保を含め、占領期から独立回復の時期に形作られた日米間の仕組みが基盤となった為、日本の戦後の安全保障政策は、米国の意向によって影響されてきた側面があると言っても過言ではないし、間違いではない。今考えれば、負けた側が勝った側の世話をすると言うのはおかしな話である。




