後始末
終戦によって日本軍の全ての部隊が、直ちに解体された訳では無い。という事実はあまり知られていない。逆に連合国軍の命令を受けて、活動の継続を余儀無くされた旧軍の部隊もあったのである。
本来ならば、日本の武装解除を進めるべき連合国軍が何故、活動の継続を求めたのか?それは当時の日本周辺が危険で、その後始末をしなくてはならない状況だったからである。終戦直後の日本周辺海域には日本海軍やアメリカ海軍が敷設した多数の機雷が残されていた。連合国軍が日本の海上交通路封鎖を目的に敷設したものが、約11000個。日本海軍が防御用に敷設したものが約55000個程度あったと見られている。
1953年3月末までの機雷による被害は、沈没及び損傷166隻。死者・行方不明者約1300人。重軽傷者約400人。という記録もある。多数の機雷が国内の主要港湾や水路にあるという事態は、復興しようとする日本にも、占領する連合国軍にとっても、厄介な問題であった。
海に四方を囲まれた日本にとって、船舶が安心して航行出来ない状態は深刻である。機雷処理のオペレーションは、正に急務だった。そこで白羽の矢が立ったのが、日本海軍の掃海部隊であった。1945年10月6日から米海軍の指揮下で機雷処理にあたる事になった。使用したのは日本海軍の海防艦や駆潜特務艇や哨戒特務艇や徴用漁船等、約390隻。当初の人員は10000人だったが、直ぐに19000人に膨れ上がった。
掃海部隊の所属先も、「海軍省」→「第二復員省」→「復員庁」→「第二復員局」→「総理庁第二復員局」→と目まぐるしく変わる。そして1948年日本海軍の残務処理が厚生省の管轄となった時に、掃海部隊は、「運輸省海運総局掃海管船部」所属となった。この時の兵力は、所属艦艇51隻。人員1510人だった。そして、同年海運総局を前身とした運輸省外局の「海上保安庁」が発足した事を受けて掃海部隊の所属先は、「海上保安庁航路啓開部」となった。
掃海部隊は、日本国内の後始末だけでなく、朝鮮戦争にも米軍の要請を受けて出動している。この事に関しては後に触れるが、その後1952年発足の(海上)警備隊に航路啓開部は移管される。この警備隊こそ、後の海上自衛隊の原型である。戦後日本の混乱期に海の掃海をした彼等の勇気と活躍を戦後日本人の記憶にとどめられる事無く、歴史の闇に葬られる事になる。これも戦後処理のオペレーションだったにも、関わらず。