自衛隊は違憲か?①
勿論、自衛隊に反対する立場の意見や見解もある。日本には、防衛に関して複雑故に未決着、または長い間膠着状態になっている議論がある。
日本国憲法第9条第2項「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。」と明記された新憲法の公布からわずか4年半で、警察予備隊の発足・編成・完結。その3年後には、防衛庁と陸海空自衛隊が発足している。これは、戦後日本の外交姿勢として、国際連合が「国際関係は内包されている戦争の危険を阻止する手段となっているのが、万人の等しく認める所」と言うスタンスをとっていた。これは、実現した日本の個別的な自衛権を認めている。つまり、内政干渉はしないから他国に迷惑をかけるなよ。と言う事である。
その後外務省は国際連合中心主義を外交三原則の大看板(又は建前)としていたことは確かである。現実の外交政策としては、米国を中心とする自由主義陣営の枠組みの中で、自国の安全保障を確保する事を選択していた。国際連合憲章第51条には、「個別的または集団的自衛の固有の権利」と言う言葉で、加盟国の自衛権を尊重していた。
ところが、戦後の日本政治史を紐解くと、「自衛権」そのものが、大きな国内の政治課題として扱われていた事が分かる。注目すべきは、政権与党ではなく、当時の有力野党日本社会党の考えである。「全面講和、中立堅持、軍事基地の提供反対。」を講話三原則として決定して、対決姿勢を打ち出した。「青年は再び銃を取るな。」演説を掲げて、再軍備反対決議を採択し、日本の自衛権は認めつつ、再軍備は反対の立場をとっていた。
そのお手本にしたのが西ドイツだった。結局、「再軍備の問題は講和後かあるいは同等の形で、独立後に問題とすべきものだから、占領下の政治的にも経済的にも、制約がある中では充分な議論は出来ない。」と言う結論に至った。無論、これは野党からの主張であり、立場である。
1951年9月、日本の占領状態を終わらせる講和条約が結ばれた。(サンフランシスコ平和条約)52ヵ国が参加した講和会議では、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3ヵ国が署名せず、日本を含む49ヵ国が署名し、1952年4月に発行した。この結果社会党が主張した全面講話とはならず、日米安全保障条約の締結、発行により、他国への基地提供を続ける事になった。社会党の掲げた真逆の現実となってしまう。社会党は最終的に、警察予備隊は違憲とする訴訟を起こしたが、最高裁判所は、この訴えを却下している。日本共産党も同様の政治精神を持っているが大多数の国民の支持を得るには至っていない。




