短き命①
慌ただしく発足した保安庁・保安隊ではあったが、その寿命は短いものであった。日本における米軍の兵力は、前述している通り、終戦直後の約100万人から、朝鮮戦争休戦協定が結ばれる時には約25万人(沖縄県を除く)と4分の1に減り、更に削減されつつあった。
この削減状況に対応する為、1953年9月27日。吉田茂首相は事実上の閣外協力を取り付け、遂に改進党の重光葵総裁と会談し、「保安庁法」を改正して、保安隊を自衛隊に改め、他国の直接侵略に対応する防衛任務を付加する。との合意を行った。また、当時の木村篤太朗保安庁長官は、1954年2月1日の衆議院予算委員会で、憲法第9条の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。」と言う規定について訪ねられ、「軍と言おうと、何と言おうと、戦力に至らざる程度であれば、持ってよろしい。あって差し支えない。こう言う解釈であります。」との憲法解釈を披露している。
当時の日本政府は、軍と言う名前であっても、その実力が戦力に至らない程度ならば、防衛の為の組織を持っても憲法上は許されるとしたのである。吉田茂・重光葵合意を基礎として、日本政府は1954年3月9日の閣議で、「防衛庁設置法案」と「自衛隊法案」を決定。いわゆる防衛二法とされるこれらの法案は、同年5月7日に衆議院、6月2日には参議院を通過し、可決成立した。
衆議院では、自衛隊の海外派遣を行わないと言う決議案も同時に可決している。(1954年6月9日公布、7月1日施行)ここまで随分の紆余曲折はあったが、こうして自衛隊は発足した。黒沢も、警察予備隊と保安隊を経て陸上自衛官となった。
組織は変われど、やることは大して変わらない。国防の礎として、日本の領土を守る。と言うそのスタンスは、同時に発足した海上自衛隊や、航空自衛隊と変わらない。在日米軍兵力が減って行く中で、自衛隊の存在は次第に、日本に無くてはならないものになって行く。勿論、日本国民全員が自衛隊について、理解があったとは言えない。発足して間もない自衛隊の評判は、決して高くはなかった。自衛隊の船出もそう明るくはなかった。
そもそも自衛隊とは何たるかを知らない日本国民がほとんどであっただろう。そのせいもあり、自衛隊への理解度はそのまま支持率の低さに直結したと思われる。旧日本軍へのアレルギーがまだ生々しく残っていた時期だけに日本政府としても防衛庁・自衛隊の運用には慎重であった事は間違いない。




