保安隊の発足
1952年7月31日「保安庁法」が成立した。これにより、総理府の外局として警察予備隊と海上警備隊を統合した「保安庁」を設ける事になった。以前にも触れたが、マッカーサー書簡により、海上保安庁は人員を大幅に増員して、1952年4月26日には、海上保安庁の中に「海上警備隊」を統合していた。その海上警備隊の主体は、旧日本海軍の駆潜特務艇や哨戒特務艇からなる、43隻の掃海部隊であった。
この「保安庁法」に基づいて「保安庁」が、8月5日に発足。保安庁に移管された海上警備隊は「警備隊」となった。警察予備隊は移管後、「防衛隊」ではなく、保安隊と言う名称になる事になったのであるが、事務的な手続きの関係等により、正式に「保安隊」と名乗れる様になったのは、10月の事であった。
警察予備隊が保安隊となり、何が変わったのか?保安庁法第4条には以下の様にある。「保安庁は、我が国の平和と秩序を維持し、人命及び財産を保護する為、特別の必要がある場合において行動する部隊を管理し、運営し、及びこれに関する事務を行い、合わせて海上における警備救難の事務を行う事を任務とする。」とある。
警察予備隊の目的は「治安維持の為、特別の必要がある場合」に備える。と言うものであったが、保安庁では、日本の「平和と秩序」を維持する。と言う、より大きな概念を謳う様になった。「保安庁」と言う官庁の任務は、部隊の運営・管理及びそれに関わる事務に限定していた。これは、後の防衛庁(省)設置法の考え方に通じるものがある。
当時の吉田茂首相が当初口にしていた「防衛隊」と言う誇称に含まれる「防衛」や「安全保障」に関わる事務については明記されていない。「保安庁」と言う組織は、あくまでも警察予備隊の後継である「保安隊」と、海上警備隊の後継である「警備隊」を統合して、一元的な運用を図るものとされていた。いずれにせよ、任務の幅は広がった事は確かであり、守備範囲を広げたと言える。
しかし、今度は人員を集め直さねばならぬと言う組織転換の闇とも言える事態に遭遇した。保安庁ではより軍事的な要素が強まり、警察予備隊の召集には応じなかった旧日本軍人も階級を問わず必要になった事は言うまでも無い。警察予備隊では管轄外だった(海上)警備隊も保安隊の一部として合流。陸軍と海軍をまとめた様な組織になった。最も警備隊は機雷処理部隊しか実際はおらず、一時的に海上保安庁の一部として合流したと言う経緯は既に述べた通りである。




