航路啓開部
掃海部隊の所属する上部組織が目まぐるしく変わったのは、前述の通りである。1948年海運総局を前身とした運輸省外局の「海上保安庁」が発足した事により、掃海部隊の所属先が「海上保安庁航路啓開部」となった事も、前述の通りだ。それから、「海上保安庁」の付属機関として、「海上警備隊」が発足し、掃海部隊の後継機関である「航路啓開部」が同時に「海上警備隊」へ移管されるまでの4年間、大文字はひたすら日本近海に設置された機雷の除去作業に明け暮れた。
慣れた作業とは言え、一日で処理出来るのは多くても5~6個。勿論、掃海部隊は大文字以外にも展開していたから、掃海部隊全体としては一日で100~120個、位の機雷を除去出来れば、上出来だった。しかも、陸上にある不発弾とは違い、機雷を発見する所からスタートしなければならず、万が一触雷するような事でもあれば、旧海軍のオンボロ駆潜特務艇等ひとたまりもない。
終戦時約66000個もの機雷が、日本近海には存在されていたとされているから、一日100個の処理に成功したとしても、660日(2年近く)は、かかってしまう計算である。勿論、そんな机上の計算通りに掃海作業が終わるはずがなく、1954年に防衛庁(現防衛省)及び海上自衛隊が発足してからも、この旧海軍のDNAをそっくりそのままに受け継いだ海上自衛隊の掃海部隊が任務を引き継いだ。戦後の高度経済成長期も、バブル期もずっと機雷の除去作業をしていた。今でこそ、日本近海の機雷の数はほぼゼロになったとされているが、たまに当時の機雷が出てくる事もある。そんな技術の継承もあり、日本の掃海技術は世界トップクラスだが、皮肉にも、この大量の機雷が日本の掃海技術を磨いたと言える。
そして、人員の被害も最小限に抑えながら、日本の海上交通の安定化に寄与した掃海部隊に、現代人は感謝しなくてはならない。最も、66000個の内の55000個は、日本海軍が防御用に敷設したものであって、機雷の位置情報及び詳細なディテールを、得る事には苦労しなかった。
この戦後の日本が抱えた大日本帝国海軍の置き土産は、人員・物損を与えつつも、日本の掃海技術の上昇に貢献するというプラスとマイナスの面があった事を知っておかねばならないであろう。




