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防人(さきもり)の戦後  作者: 佐久間五十六


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789万人の戦後

 終戦時には内地に約436万人、外地には約353万人の計789万人の日本軍兵士がいたとされ、これだけの人数を、単に「解雇」で済ますのは無理があった。

 さて、調印式には大本営陸軍部・海軍部から、そして日本政府から最低一人ずつ出席する事が義務付けられていた。内閣からは外務大臣の重光葵しげみつまもるが出席する事が早々に決まったのだが、軍事指導者達は当然の事ながら、誰も行くのを嫌がって決まらない。

 とは言え、陸軍を代表するのは参謀総長の梅津美治郎が一番の適任者だったが、梅津は、「敗軍の将にそこまでやらせないでくれ。頼むから勘弁してくれ。」と、何としても譲らない。結局、すったもんだの末、昭和天皇様直々に梅津を説得して、何とか納得させ梅津が日本軍代表となる事が決まった。海軍は、軍令部出仕の横山一郎が赴く事が決まった。

 結局、日本国全権団のメンバーは、昭和天皇様の名大である外務大臣重光葵、そして日本軍を代表する梅津を全権とする総勢11人に決まった。この1945年9月2日に戦勝国9ヶ国と降伏文書に調印して初めて正式に、太平洋戦争(大東亜戦争)は終わったのである。

 日本のメディアや一般には1945年8月15日を終戦の日としているが、それは間違いである。言ってみれば8月15日は単に、日本が「負ーけた。」と言って大規模戦闘をやめたに過ぎない日であり、諸外国の歴史教科書を見ても、第二次世界大戦の終結日は1945年9月2日と書かれているのがメジャーである。1945年8月15日が「終戦記念日」等と言っているのは、実は日本だけなのである。

 調印式の行われた米国海軍戦艦ミズーリ号の一角には、二枚の星条旗が額に入れられて飾ってあったと言う。一枚は「パール・ハーバー」の際ホワイトハウスに掲げられていたもの。もう一枚は、大分年季の入った、所々綻びも出ているものであるが、それは1853年、マシュー・ペリー提督が日本にやって来て開港を迫った所謂クロフネの時に掲げられていた星条旗であった。

 「元々、お前らの国を開いてやったのは、我々合衆国ではなかったのか?」

 と、問いかける様な米国のデモンストレーションであった。東久邏宮内閣は、9月の始めに議会を開き、そこで首相自らが日本国民に向けて、戦争終結のメッセージを送る演説を、調印式後に行った。その時、敗戦ではなく終戦にして欲しいと、演説の内容に注文をつけた陸軍大臣の言葉に対して東久邏宮首相は、こう言ったと言う。

 「何を言うか。敗戦ではないか。敗戦と言う事を理解する所から全てが始まるんだ。」

 と、一喝したと言う。これには全員ぐうの音も出なかったと言う様だ。

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