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防人(さきもり)の戦後  作者: 佐久間五十六


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Y委員会

 海上における実力組織が、日本から無くなったのは、大日本帝国海軍の消滅によるものであったが、四方を海で囲まれた島国である我が国は、海外との貿易によってしか、生きる道が無い為、我が国にとっては、著しい危機とも言える事態であった。

 そこで、海軍再建の為に力を尽くしたのが、「Y 委員会」である。保安庁の元に置かれた警備隊の前身組織となったのは、前述の通り海上保安庁に置かれた海上警備隊である。この海上警備隊創設以前から、日本政府は米国政府の協力を前提に海上警備力の強化を構想していた。

 サンフランシスコ平和条約調印の為、吉田茂首相が訪米する直前、岡崎勝男官房長官が山本善雄元海軍少将等に「海軍の再建計画を作ってくれ」と呼び掛け、平和条約調印の翌月には、海上警備力強化の為の委員会が海上保安庁に組織された。これが、「Y委員会」である。独立直前の日本政府が既に「海軍再建」を視野に入れ、その叩き台となるプランニングを米国政府に提示しようとしていたことが伺える。

 背景には、マッカーサー米陸軍元帥宛書簡で、米国海軍側から日本政府側に軍艦を貸与し、運用させるとの案を照会した件が関係していたのかも知れない。Y委員会では、「米国から貸与される軍艦はどの様に使えば良いのか?」それに「運用するのは、既に機能している海上保安庁なのか、新組織なのか?」等々、様々な事を見当して、隊員数6000人の「海上警備隊」を新設する等の構想をまとめた。

 そして、これを叩き台として1952年4月26日、海上保安庁法の一部が改訂され、海上保安庁の機関として、「海上警備隊」が発足した。その主体は旧海軍の駆潜特務艇や哨戒特務艇からなる、掃海船43隻である為、実態は旧帝国海軍の機雷掃海部隊そのものであった。直後に警備隊となるが(1952年8月1日)、2つの地方隊と3つの船隊郡とされた。船隊郡は米国から貸与されたパトロールフリゲートからなる2つの船隊郡と上陸支援艇からなる1つの船隊郡となっていた。

 地方隊は沿岸の警備を担当し、具体的にはその警備担当区域は、1952年8月に秋田から島根の日本海側と太平洋側を中心とするその他の海域の2つの区域に分けられてから、1953年11月には北海道・青森周辺海域、九州・山口周辺海域と残りの太平洋側と日本海側の4つの区域に改められた。現在の海上自衛隊が、大湊(青森)、舞鶴(京都)、横須賀(神奈川)、呉(広島)、佐世保(長崎)の5地方隊で運用されているのと、大分近くなって来たと言える。

そこまで踏み込んだ議論がなされていた事は、戦後の混乱期にあった数多くの庶民の感覚とは程遠く、日本国憲法が絵に描いた餅であった事を示す一例であるだろう。

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