ようこそ異世界へ
この物語の主人公、勇司は気がつけば異世界に飛ばされていた。
ただ玄関を開けただけ。トラックに轢かれたわけでも、過労死したわけでも、誰かの身代わりに刺されたわけでもない。サンダルを足に引っかけて、数年ぶりに会いに来た友人をただ出迎えただけ。なんのドラマティックさもない。
石造りの寒々しい部屋から連れ出され、やって来た来賓用の応接間らしい部屋はやけに広くて勇司には居心地が悪かった。決して周りの人間が着飾っているというのに、彼だけヨレヨレのスウェットを着ているからではない。
ウサギ小屋なんて呼ばれる日本の1kで暮らす大学生にとって大きな空間の真ん中にぽんと背の低いテーブルとソファが置かれ、一メートル以上も空間を開けて壁があるなんていう贅沢な使い方は夢のまた夢だ。
というかソファを買うという選択肢さえ一か月以上も悩むような狭さの場所で暮らしていた。光沢のある皮張りの、いかにも高そうなソファは縁遠い存在である。
小間使いらしい人がお茶の支度をしているのを待っている間、勇司は何度も座りなおしていた。テーブルを挟んだ向かい側のソファに座っている鳴神は慣れた様子だった。しかも数年ぶりに会ったこの友人は、何故か魔塔主とやらになっていた。
なんだ、魔塔主って。偉いことしか分からないぞ。
「お茶も入ったことだし、早速本題に入るけどいい? それともお菓子食べる?」
鳴神は運ばれてきた三段のケーキスタンドを視線でさして言った。ドラマや映画の中でしか見たことのない代物に勇司はうろたえた。
こんな貴族の使うもん、食べ方のマナーとか分からないぞ!
「ああ、別にどう食べようと誰も気にしないよ」
勇司の心中が分かったのか鳴神は笑いながら言った。彼が優雅にカップを口に運ぶ姿は嫌に様になっており、数年で人間はここまで変わるのかと感心した。
勇司の記憶の中の鳴神は……あまりにも月日が経ったせいでよく思い出せないが、やんちゃな奴だったということは覚えている。少なくともスコーンやカップケーキよりも、駄菓子が似合う男だった。
「あまっ」
適当に選んだ茶色いカップケーキを口に入れてみると、想像以上に甘くて勇司は声を上げた。溶けきれない程にぶちこまれた砂糖のせいで口の中がじゃりじゃりする。
「ああ、この国では砂糖は高級品だから」
「ふーん……?」
高級品なら、普通は減らされるもんじゃないんだろうか?
なんとなく含みのある言い方に疑問を覚えながら、カップケーキを口に入れて行く。甘くてお世辞にも美味しいとは言えないが、一度口にした物を残すような真似は出来ない。給食教育の影響というより、貧乏学生の性だ。
「それで、お前に来てもらったのはこの世界を救って欲しいからなんだけど……」
「あっ、それっ、それなんださっきからっ! 勇者とかなんとか言ったけど! ていうか『この世界』って言ってるけど、地球じゃないってことか?」
カップケーキを無理やり紅茶で流し込んで勇司は言った。口直しにとクッキーを一枚口に放り込んだが、それもびっくりするぐらい甘くて失敗したなと思った。
「お察しの通り、ここは地球じゃない。そして地球が存在する世界でもない。全く違う世界の、違う星だ」
突き付けられた普通ならばすぐには理解できない現実。けれども勇司は何の違和感もなく、そうなんだろなと思った。
だってここはあまりにも日本と違う。西洋風の建物ということもあるが、それ以上になんとなく空気が違う。言葉で言い表すことが出来ないが、自分が今まで暮らしてきた世界にはいない気配が空気に混じっているような気がした。
「ははっ。思ったよりも動揺してないってことは、お前はやっぱりこの世界の人間なんだな」
「えっ?」
この世界の人間、とはどういうことだろうか。自分は生まれも育ちも地球の筈である。少なくとも海外で過ごしたような記憶はない。
自分の知らない何かを知っているような鳴神の言葉に、さすがに今度は驚きを隠せない。
「お前はさ、この世界で生まれて地球に送られた人間なんだよ」
「まっ、マジで言ってんの?」
「マジ、マジ、大マジ! だってお前と間違えられた俺こっちに来たんだし」
「はぁ?!」
鳴神はニヤニヤと笑いながら懐から何かを出した。それは紫色の水晶がついたペンダントだった。
ペンダントを見た瞬間、勇司は腹の底から一気に懐かしさがこみ上げてくるのを感じた。
「あっ! それって俺が昔持ってたやつ!」
「これ、お前の居場所を割り出す為のGPSだったんだよ」
「じっ、GPS?!」
テーブルの上に置かれた水晶はどっからどうみても紫色のただの石に見えた。少なくとも、機械が埋め込まれているようには見えない。
「魔法石ってやつなんだよ。この世界は魔法が存在するから」
「そう言えばお前『魔塔首』てやつなんだっけ?」
「あー、うん。まあね」
「まあねって……」
この世界の基準はよく分からないが、魔法の使える世界で魔塔主になるということは凄いことなんじゃないだろうか。しかし鳴神はそれを自慢するような素振りは見せなかった。
「ていうかさっき俺と間違えられてこっちに来たって言ってたけど、」
「俺こっちに来る予定の人間じゃなかったんだよ。いやー、返せないとか言われた時はまいったなー」
「え、えー……」
「ははは」と笑う鳴神は参っているようには到底見えなかった。
勇司は育ての親が大学を入って少し経った頃亡くなった。そのせいで大学で友達を作るタイミングを逃していた。運命がこっちに戻ってくるのを予期して動いたかのように、勇司には人間関係にあまり未練が無い。高校や中学の友達を懐かしむ気持ちはあるものの、会えなくなってもどこかで元気でやっているだろう。そう思うぐらいだ。
けれども鳴神は違う。鳴神はある日突然人違いでこっちに連れてこられたのだ。唐突に慣れ親しんだ群れから引き離され、一人ぼっちで何もかも違う異世界に飛ばされた時の気持ちを勇司は想像できない。今は吹っ切れているだけなのかもしれない。
「それでお前の勇者としての仕事なんだけど」
「いや、待て。その勇者ってなんだ!」
勇司は当たり前のことのように話を続けようとする鳴神をさすがに止めた。
自分が異世界の住人でした、というのはなんとなく受け入れられてしまう。小さい頃から感じていた疎外感のようなものは、自分が血のつながりのある親に捨てられたからだとずっと思っていた。その疎外感が異世界人故だったのだと、異世界の存在を知った今なら受け入れられてしまう。
けれど、異世界人の上に勇者でしたってなんだ?! 勇者らしい秀でた才能を発揮したことなんて一度もない。
「お前も知ってると思うけど、俺は運動神経とかあまり良い方じゃないんだぞ!」
「その辺りは心配しなくていいぞ。お前は勇者だけど基本的に戦闘には参加しないでいい」
「え? そうなの?」
勇者と聞いて思いつくイメージは、大抵先陣を切って魔王に向かっていく存在だ。それをしなくていいとはどういうことなのだろうか?
「ああ。お前は民や兵士の希望の旗印として活動してもらうし、魔王と言っても封印されてるからそれほど危険な戦闘は起きない」
「へぇ……そうなのか」
なんだ、勇者と言われて冷や冷やしてたけど案外楽かもしれない。
鳴神の説明に勇司はほっと胸を撫でおろした。あまりにも急な展開について行けず、ずっと早かった心臓の音がやっとゆるやかになっていく。
「ただな……さけられない仕事もある」
「なっ、なんだよそれって」
「アナルセックスをしてもらう」
「早急に帰らせて下さい」
勇司は思わずソファから立ち上がった。しかしいつの間にか後ろに控えていた騎士たちに肩を掴まれ、再びソファに座らされる。
どうにか逃げ出そうと視線をあちこちに向ける勇司を見て、鳴神はふーっと芝居がかったため息をつく。
「アナルセックスは言い過ぎたな。お前には男とイチャイチャしてもらう」
「いや、言い方変えたところで内容変わんねーだろ?!」
「なんだよ、大分マイルドにしただろ~」
鳴神はワガママだなとでも言いたげな視線を勇司に向けてくる。
意味の分からない提案をされて困っているのは自分の方なのに、なんて奴なんだ!
「そもそも、俺は勇者になるだなんて一言も言ってないぞ!」
こちらの世界に飛ばされた時救って下さいとかなんとか言われたが、一言も勇司はそれを承諾していない。ただ連れてこられて、話をしているだけ。契約のようなこともしていない。
「断っても無駄だぞ。勇者は一時代に一人、神から定められた存在で変えはきかないんだ。実際俺は魔王を退けられなかった」
「えっ? お前、魔王と戦ったことあるのか?!」
勇司は思わず身を乗り出した。
「戦ったわけじゃない。本当はお前が呼ばれる予定だったのが、間違って俺が呼ばれて仕方がないから封印の延長をした。それに立ち会ったんだ」
ふざけたような口調で話していた鳴神の声がこの時ばかりは沈んだ。それが魔王という存在が嘘ではないことを明確に物語っている。
急に漂った緊張感に勇司は身体を強張らせた。
「おっ、おお……本当に居るんだな、魔王って」
「そうだよ、だからお前を呼んだ。でも問題は魔王だけじゃない。だからお前には悪いけど、婚活してもらう」
「婚活?!」
つい数時間前まで地球の平凡な大学生だった勇司に『婚活』という二文字は、あまりにもなじみのない単語だった。その単語は本来社会に出た人々がすることである。この間成人したばかりの人間にとっては、何も思い浮かばない。せいぜいテレビ番組の集団婚活企画くらいしかイメージがわかない。異世界よりも、何倍も未知の世界な気がした。
こうして勇司の勇者としての婚活が幕を開けたのだった。