クロの見解
「ああ言ってましたけど、トール様はこの婚約には絶対反対だと思いますよ」
勇司がソファに座って鳴神に渡された『きほんのまほう』という幼稚園児向けの簡単な教本を睨んでいると、何の脈絡もなくクロは言った。
そう言えば鳴神が出て行った後からずっと、そわそわと尻尾を揺らしていた気がする。話すタイミングをずっと伺っていたのかもしれない。
クロは眉を寄せ、耳も少し垂れていた。
「急にどうしたんだ?」
「ユージ様が悩んでいるようでしたので……少しでも気が楽になればと」
「ああ、心配してくれてたんだな。ありがとう」
「いえ、ユージ様の健康を心身ともに保つのが仕事なので」
クロは勇司の言葉に頬を緩め、パタパタと尻尾が揺らした。そのあまりの犬っぽさにきゅーんと胸が締め付けられ、勇司は思わず普通の犬を撫でるような気持で腕を伸ばして……やめた。
危ない。もう少しで体格のいい成人男性を犬扱いして喜ぶ変態になるところだった。クロは頭を撫でても許してくれそうだが、亜人が当たり前に存在するこの世界では差別的な行為に当たるかもしれない。動物好きの血が騒ぎ過ぎないよう、今後気をつけなければ。
ひとりで葛藤する勇司を見てクロは不思議そうに小首を傾げた。それがまた飼っていた犬を彷彿させ、勇司の胸を騒がせる。
あーー、なでなでモフモフしたい!
腹を出し、床に転がったところをわしゃわしゃしたい。満足するまで構い倒したい。しかし本気でそれをやったら完全にヤバい奴だ。相手は犬っぽいだけで、犬ではない。
勇司は邪念を振り切る為、咳ばらいをすると話に集中しようと本を閉じた。
「えっと、なんでクロは鳴神が反対だって言いきれるんだ? 一緒に過ごしたゆえのカンってやつか?」
「いえ、もっと現実的な観点からです。勇者であるユージ様の魔力量を使えばクーデターを起こせますから」
「クーデター……」
勇司はテレビのニュースでしか見たことが無い、物騒な言葉をうまく想像できずに頭の中で反復させた。クーデター……つまり、武力による政変ってことであってるだろうか?
クロは癒し系な雰囲気に反し、相変わらず言うことが物騒である。
「トール様はこの国でやらなければいけないことがあると仰ってましたので、国内の情勢が悪くなることは避けると思うんですよね」
「いや、その前にクーデターなんて俺はしないぞ」
武力を使わなければいけなくなるくらいなら、大人しく政略結婚をする……と思う。
「ユージ様が実行しなくても、協力してくれさえすれば可能です。実際メオガータでは、テオフィルス様を利用した事件があったとか」
「そう言えば内乱が多いとか言ってたな?」
勇司の言葉にクロはこくりと頷くと、事件の詳細を話し始めた。
「メオガータは様々な民族の集まりってできた国なので、先住民族と現王族とのバランスを取るために政略結婚をするんです。多い時は側室が二桁を超える程でして……」
「二桁?! なんだそれ、富豪のハーレムじゃん!!」
「ええ、次世代の王を決める為のハーレムです」
数人いるという婚約者候補との生活さえ考えられなかった勇司には、全く持って未知の世界だった。貧相な脳みそでは玉座の横に沢山女性を並べることぐらいしかできず、到底二桁を超える側室との生活なんて想像できない。
「ハーレムの中では側室が日々の生活の為に王からの寵愛を争うだけでなく、彼女達が生んだ王子や姫も後継者争いをします。あの国は年功序列ではなく、優秀な者が上に立つのが当たり前ですので」
「つまり、王族であれば平等に王になるチャンスがあるってことか」
「そうです。皆自分の部族の王子か姫を優位に立たせたいので、生まれた時から暗殺の危険にもさらされます。しかしテオフィルス様のお母様は少数民族で、温厚な人だったので蚊帳の外だったそうです。でもテオフィルス様の能力が発現したことで目を着けられたらしくて……」
「それで利用されたってわけか」
「これ以上詳しいことは分かりませんけれど、沈静化するのにかなり大変だったらしいですよ」
「そりゃ……あんなだしな」
勇司はテオフィルスと初めて会った時のことを思い出してみた。
能力によって集められた沢山の女性たちが、まるで酒にでも酔ったかのようになり殆ど自分で判断できなくなっていた。挙句に中毒症状で倒れ、とんでもない地獄絵図だった。
あんな風にはなりたくないし、クーデターなんて以ての外だ。
「ユージ様はある程度耐性があるみたいですけど、油断したらダメですよ。耐性があるということは向こうも知っていることですし」
「わっ、分かってるって」
クロは真面目な顔で勇司に詰め寄ったが、魔法初心者にはどう気を付ければいいのか全く分からない。とりあえず一人になることは絶対に避け、常にクロを傍に置いておこうと硬く心に誓う。
「なあ、参考までに聞いておきたいんだけど最悪の事態になったら俺はどうすればいいんだ?」
「最悪の事態と言うことは、私もトール様も動けない状態なのでありえないと思いますけど」
「でも、もしもがあるだろ? 他の国の婚約者候補も向かっているわけだし」
「確かにそうですね……」
クロは顎に手を当ててしばらく考えを巡らせ、答えにたどり着いたのかうんと一度頷くとこう言った。
「テオフィルス様とキスして魅了の力を一部でも手に入れる、これが一番有効な手段だと思います。全員中毒症状に追い込めば一人でも脱出可能です」
クロは明るい笑顔で言ったが、勇司は全く笑えなかった。中毒症状を起こしてのた打ち回る人々の群れの中を歩いていくだなんて、ゾンビ映画のようだ。そんな光景にはできればお目にかかりたくない。
「それ以外は?」
「知らない人について行かないで下さい」
それは最悪の事態が起きたらほぼ手遅れってことか?
クロの顔は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかったので勇司はそれ以上突っ込んでは聞けなかった。
とりあえずキスを阻止する為にも『きほんのまほう』を早めに読破しようと思い、閉じた本を急いで開いたのだった。




