火の王の神子
季節は進んで秋となり、その支配は火の王から金の王へと渡った。
それ以降、火の王ホオリは再びシホのもとを訪れるようになったのだ。
「シホ、栗がたくさん落ちているね」
「うん、どんどん拾おう」
栗の木が生えている場所へ行き、シホはホオリとふたりで栗を拾っている。さくさくと落葉を踏んで歩く中、秋の実りがあちこちに見える。
毬から外へ出てしまった栗はたいていが虫に食われてしまっているから、落ちたばかりの毬を探す。良い毬の見分け方は以前に教えたことがあるので、ホオリも真剣に探していた。
「あった。シホ、これはどう?」
「……うん。いいね」
シホが合格を伝えれば、ホオリは嬉しそうに笑って栗を懐へしまった。すでにホオリの懐は、栗でいっぱいになっている。一目で上質と分かる王の衣服に栗など入れるものではないのだろうが、本人が楽しそうなので構わないだろう。
それに、こうしてホオリとふたりでゆったりと過ごす時間は久しぶりで、シホも楽しかった。
しばらく栗を拾って満足し、さっそく焼いて食べようということになった。
「火を熾すなら、水を汲んでくるね」
「どうして?」
「周りが燃えたら困るから」
「わたしがシホに与えた火は、よけいなものを燃やしたりはしないよ」
言われてみれば、シホの持つ火は普通の火ではなかった。無暗に周囲に燃え移ることはないのかもしれない。
「うーん、でもやっぱり水は用意しておこうかな。なんだか落ち着かないもの」
そういうものなのかと頷くホオリを置いて、シホはひとりで泉へ向かった。
この辺りはシホがよく焚き火をする場所で、近くに小さな泉があるのだ。
少し奥へ入った場所に、その泉はある。
岩の隙間から沁み出た水が溜まって出来た泉は、いつもきれいな水をたたえている。夏のどれだけ暑い日でも枯れる気配はなかった。
「きれいな水」
水を汲む前に、そっと手を浸してみる。冷たくて気持ちいい。
なんとなく気分がよくなって、シホはぱしゃぱしゃと泉をかき回した。水中の岩に生えた苔が水流に乗ってそよそよと揺れるのが、見ていて楽しい。
ひととおり楽しんだ後、さて水を汲もうかとシホが顔を上げると。
泉の上に、女性が立っていた。
女性はこちらに背を向けていて、シホに気づいた様子はない。
その背中を覆う長い髪は、底の見えない深い色であり、かと思えば透き通っているようにも見え、きらきらと光る水面のようでもあった。
それはまさに、今シホが遊んだ泉のような、様々に変化する水の色。
呆然とシホが視線を外せないでいると、不意に女性が振り返った。
「………………」
泉の上に立っていること、急に現れたこと、そしてなにより。まるで水のように表情を変える髪を持つこの存在が、人間であるはずもない。
だが、その外見は嫋やかな美しい人間の女性。人外の存在は、高位のものであればあるほど人間に近い外見で現れるものだ。
この女性は、人間そのものに見える。一度だけ出会ったことのある高位の火の精よりも、ずっと人間らしい。
そう、火の王ホオリのように。
加えて、その気配はシホに懐かしいものを思い起こさせる。シホが火の神子になるより前の、水のお社でのあの穏やかな日々を。
(もしかして、この女性は水の、)
その正体に思い当たったシホが目を見開いたところで、女性がシホへ目を留めた。
その、たまたまこちらの存在に気づいたような人間などをいちいち気にしない様子が、いかにも人外者らしい。
「あら、お前。……水の気配があるわね。わたしの神子だったのかしら?」
「え、」
女性の発した言葉に、シホの中にあるものがざわりと揺れた。
(この女性の、神子…………?)
先ほどまで懐かしさを覚え、好意的な感情を抱いていたはずであるのに。今はもう、なぜだか目の前の女性に心がざわついて仕方ない。
暴れ出しそうな何かを抑えようと、シホはぎゅっと胸を押さえた。
「……なあに? なんだか、妙な気配を、」
女性がなにかを言いながら手を伸ばしてくるのに、シホは反応できなかった。自分の中で騒ぐものを宥めるのに必死だったのだ。
白魚のような手がシホに触れようとしたとき。
「タキリ、わたしの神子に触れるな」
ひどく冷たい、だがその場の全てを焼き払うような激しさを秘めた声が遮った。
すると女性は嫌そうに美しい顔をゆがめ、声の主の名を呼ぶ。
「お前、ホオリか…………」
女性の口から自然に紡がれるホオリの名に、シホは、やはりと納得した。
火の王であるホオリの名を口にできるということは、この女性もまた、王なのだ。格下の精では、王の名を軽々しく口になどできない。
そして、水の気配をまとっているということは。
(このひとが、)
シホがあのとき、水のお社が焼け落ちるのを見つめながら待ち望んでいた存在。
人外者の気まぐれを理解していなかった自分が、勝手に信じて失望した。
(このひとが、水の王……)
当時の復讐に燃える心は、すっかり凪いだ。ホオリがシホの復讐を果たしてくれたから。
だからそのときの失望を思い出しても、それほど今のシホの心を揺らしはしない。懐かしいようでもありながら、もうまったく他人のような、不思議な感慨をもってシホは水の王を見つめた。
水の王はホオリをにらみつけ、こちらを見てなどいなかったけれど。
そんなシホの隣に、ふわりと見慣れた白い上着が並んだ。
ホオリがそばに来てくれたことに、シホは少しほっとした。そのとき初めて、水の王に存在を認められたことで無意識に緊張していたのだと気づいた。
そういえば、いつの間にか胸のざわつきも治まっている。
「シホにはわたしの火を与えた。お前が触れていい相手ではないよ」
ホオリの言葉を聞いた水の王は、美しい顔を驚きにゆがめたようだ。
「火を……? お前、人間に対してそれは、」
ここで水の王の視線が再びシホに向いた。
その目にあるのは、わずかな憐れみ。
いつか、木の王もそんな目でシホを見ていた。なぜだろうか。
シホが首を傾げれば、水の王はますます眉をひそめた。
「…………人間、お前はわたしに縁があったようだから教えてあげようか。火の王から火を与えられるということは、魂を縛られるということ。人間にとって、死は魂の解放であり、次の生への希望となる。……けれど、火を与えられたお前は死して後もこれの気が済むまで解放されることはない」
これ、と水の王はぞんざいに火の王を指した。
魂を縛られるとは物騒な響きだが、つまり。
「…………ずっと、私は火の王の神子でいられるということでしょうか?」
シホなりに理解した内容を口にすれば、隣に立つホオリが嬉しそうに頷いた。
「そうだよ。シホはずっとわたしの神子だ」
だがホオリとは対照的に、水の王はますます憐れみの表情を浮かべた。
「…………お前はあまりにこれに従順だね」
水の王は不思議なことを言う。神子が自分の王に従順なのは当たり前だ。そもそも、人間が王という存在に逆らえるはずもない。
そう思ってシホが目を瞬けば、水の王はその美しい眉を寄せた。
水の王との相性は最悪だとホオリが言っていたから、この美しい存在は、ホオリがすることはなんでも気に入らないのかもしれない。今は、たまたまその対象がシホなのだろう。
「火の王に見出された憐れな人間。水の気配を持つお前に、少しだけ同情しよう。……死を迎えたとき、火の束縛に抗えるように」
水の王がすいっと手を上げると、水の塊がシホを襲った。
「シホ!」
鋭いホオリの声が聞こえたと同時に、全身を覆うほどの水が上からざばんと降ってきた。だが濡れたと思ったのは一瞬で、瞬きの間に乾いてしまう。それがホオリによって乾かされたものなのか、自然のことなのかは分からない。
突然のことにシホが状況を把握しきる前に白い上着に抱き込まれ、くるりと視界が反転した。
「……お前が死ぬとき、心から魂の解放を願うなら。きっと叶うだろう」
遠くで、涼やかな水の王の声が聞こえた。
気がつくと、どことも分からない空間にシホはひとり立っていた。
周囲に他の気配はない。
(ここは、どこだろう……)
生き物の気配はないが、何かしらの物はある。だがこれは岩だろうかと見つめれば、それを嫌がるようにふわりと視界がぼやけてしまう。
そうしたぼんやりとした景色の中には、はっきりと認識できるものが何もない。
ここは山なのか、森なのか、海なのか。そもそも自分は地面に立っているのかも分からなくなってくる。
だが、不思議と不安はなかった。
視界が反転する直前、ホオリに抱き込まれたような気がしたが、その腕の中にいるような安心感が今も続いている。
(もしかして、ここはホオリの領域……)
それならば心配することはないなと心を落ち着け、なんとなくシホが胸を押さえると、懐に入れていた栗に手が触れた。
そういえば、拾った栗を焼こうとしていたのだった。
「……栗が、焼きたいな」
ぽつりと呟けば、周囲の景色がさっと変わった。
ぼんやりとした印象は消え、木々に囲まれた場所が現れる。どこかの森の中らしいが、いつもの森ではないような気がする。
周りを見渡すと少し先に開けた場所があり、そこに薪が組んである。
(焼け、ということかな?)
ホオリの領域ならば動いても危険はないだろうと考え、シホはそこまで歩いて行ってみた。
きれいに組まれた薪はよく乾いていて、焚き火をするには申し分ない。それならばと、シホは自分の中にある火に集中して手のひらに小さな火玉を生み出し、それをそっと薪に放り込んで火をつけた。
火の王から与えられた火はすぐに薪に燃え移り、あっという間に大きくなった。
ゆらゆらと揺れる火は、ホオリの髪のように美しい。
(そういえば水の王の髪も、まさに水のようだったな……)
シホが先ほど出会った美しい王を思い出していると、目の前の火が突然大きく燃え上がった。
まるで責めるような火の様子に、シホはその意思の持ち主だろう名を呟いた。
「……ホオリ?」
すると、慣れた気配が近づいて来るのが分かった。
森の奥から現れたのは、白い上着を羽織った火の王。シホの王だ。
「シホ、わたしの神子。……タキリのことなど考えないで」
タキリとは、先ほどホオリが呼んでいた水の王の名だった。
「君はわたしの神子なのだから、他のもののことなど気にする必要はないよ」
「……たとえ他に考えることがあっても、私はホオリの神子だよ」
「………………」
不満そうなホオリに、シホは笑いかけた。
「ねえ、せっかく火を熾したのだから、栗を焼こうよ」
「………………」
「ホオリと一緒に拾った栗だよ。きっと美味しい」
「………………シホが、食べさせてくれるなら」
拗ねたようにこちらを見るホオリに、シホは笑って頷いた。
やはり、ホオリは焼き栗が好きなのだ。
焚き火の前にふたり並んで座り、栗を焼いた。
尋ねてみればやはりここはホオリの領域の中だというので、火事の心配はないからもう水は用意しなかった。シホが水を求めれば、きっとホオリの機嫌が悪くなるだろうということもあったが。
「そろそろ、いいかな」
しばらく冷ました焼き栗を手に取り、シホは皮に切れ目を入れてぱきぱきと剥いていく。
それをホオリはわくわくした顔で、じっと見ていた。
「はい、剥けたよ」
「うん」
ホオリが幼な子のように口を開けて待つのに、シホは小さく笑って栗を押し込んだ。もぐもぐと咀嚼した後に飲み込んだのを見て、尋ねる。
「どう?」
「美味しいね」
あどけない顔で笑うホオリに、シホも笑顔を返す。
「よかった」
「シホ、今度はわたしが剥いてあげる」
シホが神子になってから、ホオリはこうして手ずから食べさせるのを好む。それにより守護を積み重ね、縁を深めているらしい。
おそらくシホから食べさせることにも意味があるのだろうが、尋ねてみてもホオリは笑うばかりだった。そういうときは教えるつもりがないということだから、もう気にしないようにしている。
ぱきぱきと器用に皮を剥いたホオリが、よく焼けた黄色の実を差し出してきた。
シホは素直に口を開いて、ホオリの手を受け入れる。
「美味しい」
「ふふっ」
そうして何度か食べさせ合ったところで、ホオリがふと表情を改めた。
「ホオリ? どうしたの?」
「シホは、わたしの神子だ」
「もちろん、私はホオリの神子だよ」
「うん。……わたしは、シホに他のものの気配があることが許せない。まして、水の気配など」
シホは以前、水のお社にお仕えする水の神子だった。自分では分からないが、王たちが言うのだから、火の王の神子となった今もどこかに水の気配が残っているのだろう。
水の王とは相性が最悪だというホオリが、それを嫌がるのは理解できた。
「……えっと、ごめんね?」
「シホが謝る必要はないよ。ただ、そのことがとても気に障る」
「………………」
「だからもっと深く、シホとの縁を深めたい」
真剣な顔のホオリに、シホはぱちりと目を瞬いた。
縁を深める、とは何をするのだろうか。
こうして改めて言われるということは、これまでしてきたことでは済まず、それなりに重い行為が必要なのだろう。
「……私、耐えられるかな?」
「大丈夫、死にはしない。むしろ死ねなくなるから」
「え?」
ぽかんとしたシホに、火の王は艶やかに笑った。
火の王はもともと人外者らしい美しさを持っているが、今のホオリはなんだかさらに男性的な色気が漂っているようで、ぞくりとした。
「シホ、わたしの神子。おいで…………」
差し出された手は、いつもの何気ない行為ではないのだと分かる。
この手を取れば、きっともう戻れない。
今までも、何度か戯れのようにこういった誘惑はあった。
その度にシホは覚悟が決まらずにうやむやにしてきた。それを火の王は笑って許してくれていたのだ。
だが、今の火の王は本気だ。きっと、シホのごまかしを許してはくれないだろう。
「………………」
シホが察したことに気づいたようで、ホオリはさらに妖艶な笑みを浮かべた。
「さあ、おいで」
差し出された手は、拒むことは許さないと伝えてくるのに、決してそれ以上シホへと近づいてこない。
火の王は、神子に自ら選ばせようとしているのだ。
シホは、その誘惑にそれ以上は耐えられなかった。もっと深い縁を結べば、それだけ長くホオリの神子でいられるということだから。
「…………ホオリ。私の王、」
「うん。わたしの神子」
差し出された手にシホがそっと手を重ねれば、ぎゅっと力強く握られた。この繋がりはもう解けないのだというように。
そのまま、シホはホオリの領域のいちばん奥まで連れて行かれて、もっとも深い縁を結ぶことになった。
気まぐれの寵愛だとばかり思っていたシホは、ここで考えを改めさせられた。
これからもずっと、シホはホオリの神子でいるのだと、魂に刻み込むように直接語りかけられたのだ。
シホは、ホオリの本気を思い知った。
身も心も焦がすような時間が過ぎ去り、シホはホオリの腕に抱かれてなんとか息を整えていた。
人外者の作法に加えて、ホオリがシホから学んだ人間の作法も取り入れた縁を結ぶ行為は、シホには驚くばかりのものだった。
それでもホオリとしっかり繋がることができたことは幸せで、ほうっと熱い息を吐いた。
そんなシホを見つめて、ホオリは耳元で囁く。
「シホ、わたしは火の王だ。火は、怒りや嫉妬などの激しい感情の側面も持つ。あまりわたしの悋気に触れるようなことはしないでほしい」
「悋気…………」
「あれも馬鹿ではないから、わたしが火を与えたシホに近づいたりはしないと思うけれど……。もしも出会ってしまったら、絶対にわたしを呼んで。決してひとりであれと話をしたりしないで」
あれ、とは先ほど出会った水の王のことだろう。本当に相性が悪いらしい。
シホが以前は水のお社にお仕えしていたから、なおさらなのだろうか。
「……でも、水の王がさっき何かをしていたけど。あれは?」
あのとき水の王は、シホへいきなり水をかけて意味ありげなことを言った。
シホが死ぬときに心から魂の解放を願うなら叶うだろう、と。
「ああ、あれか……。業腹ではあるけれど、あれはわたしにもどうにもできない。火は水とは相性が悪いんだ」
「じゃあ、」
「ふふ、心配はいらないよ。シホはもう、死なないから」
「え?」
そういえば、ホオリの手を取る前にそんなことを言っていたような気がする。
「シホは気にしなくていいよ。君はこれからずっと、わたしの神子だ。それは絶対に変わらない」
「………………」
どうやらホオリは、それについて説明する気はないらしい。
そういうところはこれからも変わらないのだなと、シホは小さくため息を吐いた。
そんなシホにホオリは喉の奥で笑って。
「シホ、わたしの神子。これからも、君の火でわたしに栗を焼いて」
「うん」
お社を焼かれ、人外者の気まぐれを思い知ったシホは、火の王の寵愛も一時的なものだと考えていた。だが、違ったらしい。
シホは、これからもずっと火の王ホオリの神子なのだ。




