小話:迷子の神子
Twitter(torikaitai_yo)の小ネタから派生した小話です。
ふと、シホは自分が歩いていることに気づいた。
周囲の景色はぼやけていて、ここがどこなのかはよく分からない。だが、不安はない。夢の中にいるような、ふわふわした気分で、どちらかといえば心地よい空間に思えた。ずっとここにいたい。
(…………夢、なのかな)
どうも頭がぼんやりするし、現実感に乏しい。
働かない頭を不思議に思いながら、シホはただなんとなく歩いていた。なぜか、止まろうとは思わない。
どれくらい歩いたのか分からないが、しばらく歩いているような気がする。時間の感覚も曖昧で、やはり夢なのだろうとシホは結論付けた。
そのうちに、行く先に橋が見えてきた。
下に川などが流れている様子はなく、そこに橋だけがある。アーチ状に湾曲した橋を降りた先は、ぼやけていてよく見えなかった。
だが、シホはなぜかその先が気になって仕方なかった。
(あれを渡れば、)
橋に向かって一歩を踏み出した、そのとき。
「シホ」
体が引かれる感覚に驚いて振り返ると、見事な赤い髪の青年がシホの腕を掴んでいた。少し険しい表情をしたその姿に、誰だったかなとシホは首を傾げ、じっと青年を見つめた。
「…………」
青年は黙ったまま、シホを見ている。
なんとなく、このような表情は珍しいようなと感じたところで、不意に思い出した。
「………………ホオリ?」
名前を呼ぶと、ホオリは小さく息を吐いた。だが、まだ表情は険しい。
「……そうだよ、わたしの神子。その橋を渡ってはいけない」
「でも、渡ればもっと先に行けるよ。向こうが気になるの」
「…………」
意識を侵食されているのか、とホオリが不愉快そうに小さく呟いたような気がしたが、よく聞こえなかったので気のせいかもしれない。
「だめだよ。渡れば戻れない。君はわたしと一緒に帰るんだ」
掴まれた腕に力をこめられ、譲らない意思を伝えられた。
橋の向こうは気になるが、ホオリの願いは叶えたいと咄嗟に思った。
ぼんやりした頭で、どうしてホオリの願いを叶えたいと思うのか、シホは理由を自分の中に探した。それは。
「……ホオリの神子だから?」
「そう。わたしの神子だから」
そうだ。そういえば、先ほどホオリもシホのことを、わたしの神子と呼んでいた。
シホはホオリの、火の王の神子だ。火の王が願うなら、シホはそれを叶えたい。
それに橋の向こうに行けば戻れないというのなら、ホオリと会えなくなるのだろうか。
(……それは嫌だな)
橋の向こうには相変わらず気を惹かれるが、このままホオリと別れてしまう方がシホは嫌だと思った。それがなぜなのかは、うまく働かない思考では分からない。
「……ホオリが手を引いてくれるなら、帰る」
「うん」
シホの言葉を聞いて、ずっと険しかったホオリの表情が少し和らいだ。ホオリが嬉しそうに差し出してくれた手をとり、シホは橋に背を向けて歩き出した。
景色も思考も全てがぼんやりとした世界の中で、ホオリの手のぬくもりだけが、道標のようにはっきりとしていた。
どこかの森で、シホは夢から覚めたように、はっと我に返った。
徐々に思考が戻ってきて、慌てて状況を把握しようとすると、繋がっていた手を引かれてその腕の中に囲われた。
「……ホオリ?」
「うん」
シホを腕の中に閉じ込めて、ホオリが安堵したように息を吐いた。
「シホ、君は迷子になっていたんだ」
「……夢じゃなかったの?」
「夢ではないよ。あそこは……、ここではない狭間だね。たまに迷い込む人間がいるんだ。あの場所で帰り道を失えば永遠に出られないし、橋を渡ってしまえばもう戻ることはできない」
「そうなんだ……」
「君にわたしの火を与えておいてよかった。あの中ではすべてが希薄になるから、わたしでも探すのは難しいんだ」
きゅっと腕の力を強められ、ホオリが少し心を揺らしているのが気になったシホは、宥めるようにその背中を撫ぜた。
「ホオリ、迎えに来てくれてありがとう」
「うん……」
しばらくそうしているとホオリも落ち着いたようで、シホを腕の中から解放してくれた。
「それにしても、なんだか不思議な場所だったね。ぼんやりしていて、考えることが億劫になるの。でも、あの橋を渡ると、すごくいいことがあるような気がした」
「あれは、そうして惹き付けるものだから。あの橋は境界。渡った先は別の世界だ」
「そうなんだ……」
渡った先の世界はどんなものだろうとシホは少し考えてしまい、それを見抜いたであろうホオリが咎めるように目を細めた。
「……まだ少し、影響が残っているみたいだね。あまり思いを残してはいけないよ。引きずられてしまうから」
「うん……」
気のない返事をしたシホに、ホオリがすっと近づく。
「シホ」
両手で頬を挟まれて、額をこつんと当てられた。ホオリの顔が間近にある。
ホオリの方がシホよりも背が高いので、赤い髪が肩からこぼれ落ちた。その動きで、髪の色が燃える火のように様々な色に見えた。
それから、きれいな緑青色の瞳と見つめ合う。
「…………」
「…………」
ホオリがじっとシホの瞳をのぞきこんでくるのが、まるで心の中まで入りこまれるような気になる。
ホオリといえば火の色を宿した髪が目立つが、瞳もきれいだなと、シホはうっとりと見惚れた。
するとホオリは、満足そうに微笑んだ。
「そう。そうやって、わたしに意識を向けていて。あんな橋の向こうになど、いいものはないよ」
それから、いつもの場所に戻って二人で焚火をして栗を焼いた。
ホオリと二人だけの時間はすっかり馴染んだ心地よさがあり、シホは自然と笑顔になる。ホオリもいつものようににこにことしている。
もう、あの橋を渡りたいとは思わなかった。