火の王の願いごと
Twitter(@torikaitai_yo)に上げていた小ネタを、加筆修正したものです。
山の朝は早い。
共に暮らすのが老婆であるために、その傾向はより強くなる。
だがシホは、以前はお社で水の精にお仕えする神子であったから、早朝から働くのは苦にならない。水のお社では、早朝の清廉な空気の中でのお勤めというものがあったのだ。
だからその日もいつものように早朝から起き出して、シホは食事の支度をしていた。そこへ、機織りの老婆が言った。
「シホ、知っているかい?今日はね、願いごとをすると叶う日なんだよ」
「願いごと?」
「ああ、お前も何か願ってみるといい」
朝食を取りながら、シホは老婆とたわいない願いごとについて盛り上がった。
家での仕事がひと段落して、シホは落葉を集めて火を熾した。
以前は老婆の家から火種を持って来ていたが、今はホオリにもらった火玉があるので、そういったことは不要になった。
この火玉は、シホの意思で自由に出したり消したりできる。それにホオリが言うように、なんでもよく燃えた。とても便利だ。
(そういえば、水の神子だったときに水玉なんてもらった覚えがないな……)
他の水の神子もそのようなものを与えられたとは聞いたことがない。
やはりホオリは王なので、守護の与え方が違うのだろうか。
ぱちぱちと燃える落葉を見ながら考えていると、すっかり馴染んだ気配が近づいて来た。
そちらに顔を向けて、シホは微笑む。
「ホオリ」
白い上着を羽織った火の王は、相変わらず歩いてやって来る。白い衣装に火色の髪が揺れ、まさに燃えているようで美しく、シホは少しだけ見惚れた。
「珍しいね、君がわたしを呼ぶのは」
どこか嬉しそうにホオリが笑う。
ホオリは気紛れで、そしておそらくそれなりに忙しく、いつシホのもとへ来るのかは分からない。だから今日は、シホから会いたいとホオリを呼び出したのだ。
「ごめんね、急に」
「わたしの神子が呼ぶのだから、かまわないよ」
そう言ってホオリはなんでもないように笑ってくれるが、シホとしては、あまり我がままを言って煩わせたくなかった。
ホオリの仕事は忙しいものであるらしいし、無遠慮な態度をとったことで呆れられて見放されたくはない。
以前に一生懸命お仕えしていた水の精は、お社が盗賊に襲われたときに助けてはくれなかった。そのことを、水の神子だったシホは忘れていない。だから、人外者の気紛れさをいつも胸に留めているのだ。
だが、気紛れに失われるかもしれないものでも、今このときのホオリは、たしかにシホを大事にしてくれている。そしてシホも、ホオリが大事だった。
それが今日の呼び出しの用件につながる。
「あのね、ホオリに聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
きょとんと首を傾げるホオリに、シホは今朝の老婆との会話を伝えた。
「願いごと……」
「そう。人間の風習みたいだから、ホオリはしないだろうけど。だからね、ホオリの願いごとは私が叶えようと思って」
「……君が?」
「うん。せっかく人間の神子がいるのだから、人間の風習を体験してみるのも良いでしょう?それに、私がホオリに何かしたいなと思ったから」
「……なんでも叶えてくれるの?」
「私ができる範囲のことなら。え、そんなに壮大な願いごとがあるの?」
思いのほか真剣に見つめてくる火の王に、シホは少し身を引いた。
それに気づいた火の王が笑う。
「ふふ。わたしの神子がいれば、他は特にないかな」
「ええ?欲がないね。やっぱり人間とは違うのかな。私とババ様は、あれも欲しいこれも欲しいと、けっこう盛り上がったのに」
「そうかな?でも、わたしはシホが欲しいと言ったよ」
「それは当たり前だよ。私はホオリの神子だから、いつまでもホオリに仕えるつもり」
「そう。……いつまでも、ね」
そこでホオリがあまりにも艶やかに微笑むので、シホは恐怖とは違う何かでぞくりとした。
緑青色の瞳が、いつもとは違う輝きを持っているように見える。
「シホ、わたしの神子。君はずっと、わたしの神子だ」
「……う、うん」
真っ直ぐに見つめてくる火の王に返事をしてから、これはうかつに答えてはいけなかったのではないかと、シホは頭の隅で思った。なんとなく、ホオリの言い方がいつもと違う気がしたのだ。
ホオリはたまに、するりとこういうことをする。そしてそれは、シホにとって見過ごせないような意味を持っていることが多い。
だが、火の王の眼力に人間が抗えるはずもなく、シホはそのままどうすることもできずに固まった。
そのままホオリはさらに目を細め、シホに手を伸ばすとそっと唇を合わせてきた。
触れるだけの軽いものだが、水のお社で長く過ごして世間と隔離されていた神子には、いささか刺激が強い。
「……あの、ホオリ。まえから言っているけれど、あまりこういったことは、」
「どうして?守護を深めているだけだよ」
不思議そうに首を傾げて、ホオリが微笑む。
そう言われてしまえば、守護を受ける火の神子としては何も言えない。
この行為に男女間の甘やかな意図はないと、シホも理解している。火の精が、人間に守護を与えているだけなのだ。
ただ、シホが人間的な感覚で勝手に意識しているだけで。
なんとか人間的羞恥を追い払おうとしていたシホは、ふと気になったことを尋ねた。
「……もしかして、ホオリは他の人間に守護を与えるときも、こうするのかな?」
「ん?シホ以外にわたしが守護を与えることはないよ」
「そうなの?」
「わたしの神子はシホだけだもの。だから、もちろん君も他の精から守護など受け取ってはいけないよ。……例えそれが水の王であっても。君はもう、わたしだけの神子だ」
「水の王に会うことなんて、もうないと思うけれど。でも、私もホオリだけの神子でいたいな」
シホがそう言うと、ホオリはひどく満足そうに口角を上げた。
人外者は気紛れなわりに狭量なものが多い。お気に入りが自分の領域にあることを再確認して、感情を動かしたのだろう。
そこには満足だけでなく、もっと深い何かも含まれているようで、人外者らしい妖しさを纏った笑顔だった。
そのような表情を真正面から向けられ、シホは再び固まってしまう。
そんな神子を愉快そうに見やり、ホオリはまたも手を伸ばして、今度はシホの顎を掴んで親指でその唇に触れる。
そのままゆっくりとシホの唇をなぞり、端までいったところで最後にくっと指を押し、そっと手を離した。
「………………」
よく分からないが、シホは今の行為に激しい羞恥を感じて顔を赤くした。
手は離してくれたが、いまだホオリは、人外者らしい雰囲気を纏ってシホを見つめている。
そんなホオリを見ていると、シホは思わず引き込まれてしまいそうで、ふらふらと手を伸ばしたくなってくる。
だが、シホから手を伸ばせばもう戻ることはできないのだと、頭のどこかで冷静な声がする。その覚悟があるのかと。
だからシホは、やはりどうすることもできずに固まってしまった。
しばらく二人で見つめ合っていると、火の王が小さく喉の奥で笑ったようだった。
「じゃあ、他の願いごとにしようかな」
そこでホオリが、ぱっと切り替えて明るく言ったことで場の空気が崩れ、シホはほっと小さく息を吐く。
「シホ。シホの焼いた栗が食べたいな」
「……そんなことでいいの?」
ホオリは、にこにことシホを見ている。さっきまでの不穏さはみじんもない。
先ほどのやりとりで、おそらく何かホオリの望むものがある程度成されたのではないかと、シホは推測している。それについて本人に説明がないのはどういうことだろうかとも思うが、そこは高位の人外者たる火の王であるから仕方ないのかもしれない。
困ったことに、そこで仕方ないと思ってしまうくらいには、人外者らしいホオリのこともシホは好ましく思っていた。あのような雰囲気を出されると弱いのだ。
気を付けていないと、先ほどは踏みとどまれた一線をうっかり超えてしまいそうになる。一度超えてしまえば、もう戻れない。
「仕方ないな。じゃあ、ホオリのために栗を焼くね」
「うん。嬉しい」
しかし先ほどのやりとりで何かあったなら、これで栗を焼いてやると願いごとはふたつになるなと思いながら、シホは用意してあった栗を焚火に放り込んだ。