2. 火の神子になった
思いがけず復讐の予定はなくなったが、変わらずにシホは落葉を集めて焚火をしている。
もう習慣のようになってしまったし、栗を焼けば美味しいし、火を見ているとなんだか心も落ち着いた。
それに最近は、お客も来る。
「シホ」
ホオリは今日もやって来た。
「今日は栗を焼かないの?」
「焼こうと思っているのだけど、どうも火の付きが悪くて」
「ふうん。じゃあ、わたしの火を使うかい?」
「火種を持っているの?」
「火種というか、わたしの火だよ。……シホは、わたしが人間ではないと気づいているだろう?」
「まあ。火の精なのかなとは思ってるよ」
「そうだね、わたしは火を管理するものだ。だから、どこでも自由に火を熾すことができる」
やはり人間ではなかったのだなとシホが頷いていると、ひらりと振られたホオリの手のひらに、小さな火玉が現れた。
宙で燃えるその火は、シホの瞳の色と同じ赤茶色だったり、黄色だったりと、いくつもの色で煌めいて見えた。
まるでホオリの髪の色のようだ。
「……きれいね」
「そう?ありがとう。この火はわたしそのものでもあるから、そう言われると嬉しいな」
ぽつりとシホが呟くと、ホオリは喜んだようだった。
火玉はきれいだが、どちらかというと火玉がホオリの髪の色のように見えるからきれいだと思ったのだが、どちらでもけっきょくは同じことかと、シホはあえて訂正しなかった。
「さあ、これを使うといい。手を出してごらん」
言われるまま、シホは手を差し出した。
すると、ホオリの火玉がほわりと浮いて、シホの方へやって来た。熱くはない。手のひらでちろちろと燃える小さな火玉は、なんだか小動物のようで少し可愛い。
「これを落葉に入れればいいの?」
「うん。なんでもよく燃えるよ」
言われた通り、落葉の山に放り込む。すると、ぱっと火の粉が上がって、あれほど燻っていた落葉があっという間に燃え始めた。
「わ。すごい。ありがとう、ホオリ」
笑ってシホがお礼を言うと、ホオリも嬉しそうに微笑んだ。
今日もとびきり美味しい栗を焼いてご馳走しよう。
水のお社の跡地を見に行ってから、シホは焚火をしていても穏やかな気持ちでいられるようになった。
火の王が盗賊たちを地獄の業火で焼いてくれて、お社の人たちを神火で送ってくれたと知ったからだ。
あれだけ怒りに燃えて復讐を誓っていたのが嘘のように、今では火を見ていると、凝った激情が浄化されるような気がする。
そこでふと、そういえばホオリは、シホの怒りの感情がこもった火を気に入ってやって来ていたのではなかったかと思い出した。
であれば、この凪いでしまったシホの感情では、ホオリの気に入る火は熾せないだろう。
それはつまり、ホオリがそのことに気づいてしまったら、もうシホの前に姿を現さなくなるということではないのか。
シホは、その日もいつものように落葉を集めて火を付けた。
ホオリは来ていない。
そのうちに、なんとなく別の火の精がやって来た気配があった。
そういえば最近はいつもホオリが来ていたから、他の火の精に会うことがなかった。火の精たちは同時に現れることはないようだから、お互いに縄張り意識のようなものがあるのかもしれない。
では、今日はホオリは来ないのだなと思うと、シホは少し残念な気持ちになった。
不意に、おぼろげに漂っていた火の精が人の形をとった。
ぼんやりとしているが、人のような姿をとることができるということは、それなりに力のある火の精らしい。
その火の精が、シホに声をかけてきた。
「ねぇ、あなたの火は悪くないわね。私の守護をあげましょうか」
「え、」
シホはこのところ、復讐を為してくれた神火の君に仕えるのもいいかなと考えていた。あのお社が焼け落ちた日、水の王は来なかったが、火の王は来てくれたのだ。
こうして焚火をしていれば火の精が寄ってくるのだから、おそらく火の神子になることはできるだろう。
この火の精から守護をもらえば、もう火の神子も同然だ。
だが、同じ火の精から守護をもらうのであれば、ホオリの方がいいと思ってしまう。ホオリが気に入っていた怒りの感情を、もうシホは持っていないけれど。
そんなことを考えていたら、返事が遅れた。
ふわり。
シホのすぐ横に、赤い髪をなびかせた慣れた気配が降り立った。どうやら、他の火の精がいても現れることもあるらしい。
いつもは歩いて来るのに珍しいなとその横顔を見上げると、ホオリはいつになく表情のない人外者らしい顔をしていた。緑青色の瞳が不穏に煌めいている。
そのような顔をシホに見せるのは初めてだが、凛々しくて格好いいなと、うっかり見惚れてしまった。
しかし先ほど声をかけてきた目の前の火の精は、なぜか顔を真っ青にし、ホオリを直視できないとでもいうように目を伏せてがたがた震えている。今にも倒れてしまいそうだ。
「スセリ」
ホオリの発した声は、これもシホが初めて聞くほどに冷たく冷え切った、温度のないものだった。
火の精であるのに、これだけ凍えるほどの空気をまとえるのだなと、シホは場違いに感心した。
「………………、王」
「この人間には、わたしが火を与えているのだよ」
「…………火を……」
ここで、スセリと呼ばれた火の精は、シホの方を向いて信じられないとばかりに愕然と目を見張った。
「それで、わたしが火を与えたこの子の前で、君は何をしているのかな?」
「…………いいえ、私は何も。神火の君の庇護を受けた人間には、もう二度と触れはいたしません」
「そう。この子が見ているから、今回は見逃そう。二度は無い」
「…………御前を失礼いたします」
火の精は深々と頭を下げて礼をとると同時に、ふっと消えてしまった。まるでろうそくの火を消したかのような去り方だったが、それよりも、先ほどシホにとって気になる名前が聞こえた。
「…………神火の君?」
「そうだね、そう呼ばれることもある」
ぽつりと落ちた呟きに、ホオリが返事をしてくれた。
ホオリのことを力のある高位の火の精だろうとは思っていたが、まさか火の王だったとは。
先ほどの火の精が何やらとても驚いていたが、シホも同じくらい驚いている。
「さて。シホ?」
名前を呼ばれて向き合ってみると、火の精に対していたときのような冷気をまとってはいないし声にも温度があるが、なんとなく、ホオリは機嫌が悪いように見える。緑青の瞳は、まだざらりと不穏さをまとっている。
その不機嫌さに思わず身を引きかけたのに気づいたものか、ホオリは手を伸ばしてシホの頬に触れた。そうされると、それ以上は下がれない。
「君はもしかして、今の火の精から守護を受け取ろうなんて考えていたのかな」
「え、」
「違うの?」
「…………守護をもらうならホオリからがいいなと考えていたから、すぐに返事ができなかっただけ」
その守護も、今となってはもらえるかは分からないけれどとは、シホは口には出さなかった。
しかしその返答を聞いたホオリは満足げに笑って、褒めるようにシホの頬を撫でた。その仕草には、自分を選ぶのが当然だというような王らしい傲慢さがあるような気がした。
「そう。君はもうわたしの火を受け取っているのだから、他の火の精などと親しくしてはいけないよ」
「え?」
「先日、わたしから火玉を受け取っただろう。あれがあればいつでも火が熾せるのだから、他の火の精など要らないね?」
「え、でも、あの火玉はもう使って無くなってしまったけど」
「わたしの与えた火だもの、無くならないよ。君が望めばいつだって火玉が出せる」
「そうなんだ……」
「その火であれば、燃やせないものはない。わたしの気配があるから、先ほどのように他の火の精が無暗に寄ってくることもないだろう」
では、ホオリはすでに守護を与えてくれていたのかとシホは驚いた。
水の精から守護を与えられたときは、もっとふんわりとした曖昧なものだった。このように形のあるものを受け取るというのは、火の精だからなのだろうか。
それとも、ホオリが王であるからなのか。
「君が怒りを向ける相手にだって、その火を使えばいい」
「…………私の恨みは、もうホオリが晴らしてくれたみたい」
言うと、ホオリはきょとんと目を瞬いた。
「え?そうなの?」
「うん。少し前に、ホオリはこの近くの村を襲った盗賊を滅ぼしたでしょう?あいつらが、私の復讐相手だったの」
「そういえばそんなこともあったかな。ただの仕事だったのだけど。ごめんね、自分で手を下したかったよね?」
「うん……、最初は自分の手でって思っていたけど、火の王が容赦なくやってくれたと聞いて、その方が徹底的にさっぱりして良かったかなっていう気がする」
それは、シホの偽らざる本当の気持ちだった。
当初は自分の手で盗賊たちに復讐することしか考えていなかったが、シホでは、火の王がしてくれたように地獄の業火で奴らを苦しめることはできなかった。
最も苦しそうな方法でといろいろ考えていたのだから、ある意味では目的は達成されている。
「そうか。よかった、君が不愉快に思っていなくて。……でも、だから今の君の火は穏やかになったのだね。初めて君を見たとき、君の瞳に映る火には鋭い怒りがこめられていて、そういった激しい感情は火の側面のひとつであるから、とても心惹かれるものがあった。だけどそのうちに、君の火は変わってきて、今では不思議な穏やかさをたたえているんだ」
「それって、やっぱりもう私に興味はなくなったということ?…………ここへは来なくなる?」
守護はもらえていたらしいが、ホオリの興味は続かないのかもしれない。人外者とは気紛れなものだと、水の精でよく分かった。
懸念していたことを尋ねたシホの声には、少しばかり落ち込んだ響きがあった。
それに気づいたのか、ホオリは笑ったようだった。
「まさか。わたしの管理する火には、激情という側面の他に、すべてを焼き尽くした後の静謐も含まれている。君の、激情を越えた後の穏やかさは、とても心地よいよ。言っておくが、わたしの与えた火が消えることはない。君は死ぬまでわたしの火を宿しているんだ」
それはつまり、シホが死ぬまでずっとホオリの守護があるということだろうか。
「私が死ぬとき、ホオリの火で送ってくれるの?」
「君がそう望むなら。でも、君の火はとても心地よいから、わたしがまだ満足していなかったら送らずに側に留めてしまうかもしれない」
「そこはさっぱり送ってほしいところだけど…………」
呆れたように見やると、ホオリは意味深に微笑んで明確な返答を避けた。
そこに人外者の執着を見た気がして、シホは少しだけぞくりとしたが、今は深く考えないことにした。
「……私の火が穏やかになったというなら、それは、火の王が私の復讐を果たしてくれたから。それにお社のみんなを送ってくれた。それから、あなたが一緒に焼き栗を食べてくれるからだと思う。ありがとう、ホオリ」
シホが素直な気持ちを吐露して感謝を伝えると、ホオリも今度は柔らかく微笑んでくれた。
ホオリの守護はもらえたようなので、シホはもう火の神子だ。
神子であるなら、以前のシホが水のお社にいたように、普通はお社でお仕えするものだが。
やはりそうするべきだろうかとホオリに尋ねると、行く必要はないと言われた。
お社に入ってしまうと、ホオリが気軽に会えなくなってしまうから、と。
「あそこで姿を現すと、いちいち騒ぎになるだろう?」
「まあ、たしかに」
水のお社でさえ、水の王が現れることはまずないことだった。
神子とはいえ、王たちは人間の前に姿を現すことはそうそうないのだろう。
もしも今の調子でホオリが現れたら、きっと大騒ぎだ。
その様子を思い浮かべて、ふふっとシホは笑った。
しかし、お社に行かなければ、火の神子としての務めが分からない。
そう言うと、火の王はにっこり笑って答えた。
「わたしの神子。君は、わたしのお願いだけを聞いていればいいよ。君が仕えるのは火の精ではなく、火の王たるわたしなのだから」
すいっと、ホオリはシホの手を取って引き寄せ、指先に唇を寄せた。
「だから、君らしい火を熾して、また栗を焼いてほしいな」
もしかして、シホを神子にしたのはそのためなのか。
思わず呆れて目を眇めてしまうが、まあ仕方がない。
火の王がそう望むなら、シホは神子としてそれを叶えるだけだ。
しかしそれが一生続くと考えると、なんだかこの言葉は求婚みたいだなとシホは思ってしまったが、神子は神に身を捧げるものだから大して違いはないかと頷いた。
そうしてそれからも、ホオリは変わらずやって来る。
だからシホは、いつものように落葉を集めて栗を焼くのだ。
「神火の君」は、これにて完結です。
お付き合いいただきまして、ありがとうございました。