小話:鬼
老婆と暮らす山の中は、シホにとって歩き慣れた場所だ。
もともとシホは、水のお社で暮らしていたときでも、焼き栗のために度々山へ入っていた。足腰は丈夫だと自負している。
だがいくら慣れた場所でも、山は恐ろしい場所だということもシホは知っている。
だからその日、薪を求めて少しだけ奥へ入ったのも、きちんと目印はつけていたし、ほんの少しのつもりだった。
そこで、禍々しい黒い靄に出会ったのだ。
旅人のための道を、少し逸れた場所。
もちろん辺りに人の気配はない。
シホの目の前で、黒い靄はふわふわと漂いながらその場から動こうとはしない。
ざらりとした嫌な気配が伝わってくる。その中に、深い悲しみと無念さが凝り固まっているように思えた。
「これは、」
目が離せないままに見つめていれば、漂っているだけだった靄が変化を見せた。
ばらばらに散らばっていたものが徐々に集まっていくようで。
やがて、薄い靄だったものがはっきりとした影を持ち始める。
はじめに、中心部分が現れ。
それからその上に、もうひとつの塊。
中心部分から、四つの部位が伸びていく。
むくむくと大きくなるそれは、特定の形を成していくようだった。
(…………もしかして、人間?)
頭と胴体に、四本の手足。
黒い靄は、まるで人間のような形をとった。
そうして、ますます濃さを増していく。
「そういえば、ババ様が言っていたな……」
最近、この辺りで盗賊がうろついているらしいから気をつけるようにと。
では、盗賊に遭遇した旅人が襲われて埋められでもしたのか。その無念がこうして靄となってしまったのか。だから靄はその場から動かないのかもしれない。
あちらこちらで戦のある乱れた今の時代は、油断すればあっさりと命を奪われる。仕方のないことではあるが。
(盗賊…………)
シホが暮らしていた水のお社を焼いたのも、盗賊だった。
当時のシホが持っていたすべてを焼いて去って行った者たち。
あの日、シホが気づいたときにはもう手遅れで、焼け落ちるお社を見ていることしかできなかった。
ホオリのおかげで復讐は終えたが、今でも盗賊という存在に思うところはある。
「………………」
シホが少しばかり心を動かしてしまったのを、感じとったのか。
人間の形をした靄が、おもむろにその手をシホの方へと伸ばした。
「っ、」
そうして距離が近づけば、これはよくないものだとはっきりと分かった。
その嫌な気配にシホは後退るが、まるで幼子が親を見つけたかのように靄はこちらへ向かってくる。その動きはゆっくりではあるものの、はっきりとシホを目指していた。
これはどうしたものかと、困ったとき。
ぱしり、と音がした。
直後、そこにあったはずの靄が突然に消え去っていた。
あれほどはっきりと形を成していたものがきれいさっぱりと消滅し、今や、そこに靄があった痕跡は何ひとつない。
驚きに目を瞬いたシホは、それからすぐに隣へ降り立った赤に、その理由を悟る。
「ホオリ、」
隣へ視線を向ければ、眉を寄せたホオリがシホを見ていた。
「シホ、こんなところでどうしたの?」
「薪を拾いに来たの」
「そう……。あまり、妙なものに近づいてはいけないよ」
妙なもの、とホオリは不愉快そうに言った。
「ホオリ。……今のは、人間だよね?」
「そうだね、死んだ者の無念が変化したものだろう。もう少し経てば鬼にでもなっていたかもしれない。相当に思い残すことがあったのだろうね」
ふと、シホは思う。
自分もこうなった可能性があったのだと。
水のお社が焼かれた後、シホは幸運にも老婆に拾われた。だがそうでなければ、山をさまよっているうちに命を落とし、未練を残してこの靄のようになっていたかもしれない。
「………………」
シホが、じっと靄のいた辺りを見つめていれば、不意に隣の気配が動いた。
「シホ。ああいったものに、あまり心を向けてはいけない。そこから縁ができてしまうこともあるから」
まるで悪いものを取り除くように、肩を撫でられる。
「先ほども、君が心を向けたものだから、あれに縋られそうになったのだろう」
「……さっきの靄は、ホオリが何かしたの?」
「わずらわしいから祓ってしまったよ。本来であれば人間の魂は次の生へ向かうが、ああなってしまっては、もうどうにもならないだろうし」
それを聞いて、また少しだけ靄の主のことを考えそうになったが。どうしたのと不思議そうに首を傾げるホオリに、なんでもないよとシホは微笑んだ。
火の王にとっては、ひとりの人間が鬼になろうとしていた理由など些末なことだ。
そして、火の王の神子であるシホにとっても、そうであるべきなのだろう。
「ホオリ、これから仕事に行くの?」
「そうだね、少し騒がしい場所があるようだから」
「……ついて行っても、いい?」
黒い靄に遭遇し、その主のことを考え、シホは少しだけ感傷的な気分になってしまった。
その気分を変えるために、きれいなものを見たい。
シホにとって一番きれいなものは、やはりホオリの火だ。
深い縁を繋いでから、ホオリの火がますます美しいと思えるようになった気がする。
「ホオリの火が見たいな」
「…………いいよ。わたしの神子の望みを叶えよう」
シホが率直な希望を口にすれば。ホオリはようやく不愉快そうな表情を解き、満足げに笑った。
「シホ、おいで」
ホオリが差し出す手に、シホは自分の手を乗せる。
ぎゅっと握られると、そこからホオリの火が感じられるようで、それだけで嬉しくなった。
顔を見合わせて微笑み合えば、もう靄のことは気にならなかった。