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夜、若竹島のパイロット宿舎の了介の部屋で、了介と帯刀は記者一家心中事件の捜査資料を読んだ。紙の資料なので、写真はあるが動画はなかった。
杉野清彦は革新系大手の北辰日報の社会部記者である。防衛省関連のスクープを連発するエース記者だった。
事件の一年半前、杉野は防衛省の新工場設立に関わる疑惑、通称照石疑惑をスクープした。しかし報道は誤報だった。
事件の十か月前、杉野は芸能を扱う文化部に左遷された。文化部では腫物に触る扱いだった。本人も周囲を遠ざけて関わろうとしなかった。
杉野はこの頃から妻の不倫を疑うようになった。やがて、息子が他人の子供ではないかという妄想に取り付かれるようになった。
今年一月からカウンセリングを受けるようになった。事件で使われた睡眠薬はここで入手した。
二月末、ノイローゼの杉野は自宅のある仙葉区幸生町の木田川署を訪ねて、「誰かに狙われている」と保護を求めた。警察は自宅付近の防犯カメラを確認して、不審者がいない事を確かめさせた後、パトロールの強化を約束して帰らせた。
事件四日前の三月二十五日にも木田川署を訪れて、「殺されるかもしれない」と取り乱した様子で語ったが、カメラにはやはり何も映っていなかった。警察は更なる警備強化を約束して、何とか帰ってもらった。
杉野のマンション内には複数の防犯カメラが設置されていた。事件当日の杉野の行動は、ほぼ全て映像に残っていた。
三月二十九日朝六時四十分、杉野はジャージ姿でマンション八階の自宅を出た。エレベーターを使って一階エントランスに降り、新聞を取って公用トイレで用を足し、また自宅に戻った。
七時三十分、杉野はスーツ姿で自宅を出た。一旦エレベーターで地下駐車場に下りるも、ここで犯行を決意し、再び自宅に舞い戻った。
朝七時四十分~五十分、杉野は自宅台所で妻を殺害した。凶器の包丁からは杉野の指紋が検出された。
朝七時五十分、杉野は園児服の息子を抱き抱えて部屋から出た。息子は泣きじゃくっていた。
朝七時五十八分、杉野は黒いボックスワゴンで地下駐車場を出た。
マンションから高架橋まで移動する黒ワゴンの姿が、防犯カメラやドライブレコーダーに映っていた。
信号待ちする黒ワゴン。
対向車とすれ違う黒ワゴン。
建設中の注意看板を無視して高架橋に入っていく黒ワゴン……
朝九時、杉野は再開発地区を走る国道三十四号線の針生高架橋上で息子を殺害した後、睡眠薬を使って投身自殺した。現場には「全てが嫌になった。死にます」というシンプルな遺書が残されていた。
警察が心中と判断したのは以下の四点からである。
一。第一の犯行が起きた朝七時四十分頃、自宅にいたのは杉野と妻、息子だけだった。
二。妻を殺害した凶器から杉野の指紋が検出された。
三。マンションから高架橋まで、車は一度も止まらなかった。
四。高架橋に入っていったのは杉野の黒ワゴンだけだった。
二つの犯行現場には杉野親子しかいなかった。凶器から指紋も出ていた。だから犯人は杉野だ、という。
了介の部屋の壁にはVRの魚群が投影されていた。時折、本物そっくりのホログラム魚が壁から飛び出してきて、部屋中を自由に泳ぎ回った。家具はスカイブルーの海らしい色使いで統一されていた。水族館の大水槽の中に住んでいるようだった。
本棚にあるのは経済関係の本ばかりだった。大塚久雄やハイエクのいかめしい背表紙に混ざって、「よく分かる財務諸表」「絶対合格!会計士ガイド」といったペラペラした背表紙も置かれていた。
帯刀はラフなジャージ姿だが、了介は部屋でもスーツだった。
帯刀は感想を述べた。
「これだけ見れば杉野犯人だわ。包丁に指紋付いてるし。ただ部分部分見ていくと、んん?ってなる所はある。
ご遺体は火葬されたし、車も処分されてる。今ある証拠だけで崩さなきゃなんねーぞ」
「警察の心中説の中心は、二つの犯行現場に杉野記者以外いなかった事。
自宅を訪れた人間はいない。自宅から高架橋まで車は一度も止まっていない。工事中の高架橋に入ったのは杉野記者の車だけ」
「杉野は朝二度家を出ている。この時入れ替わった犯人が自宅で奥さんを殺して、三人で車に乗り込んだ可能性はある。
犯人は台所で正面から奥さんの肝臓を刺して、へそまで切り下げて、抉って、右上に切り上げている。『レ』の形な。臓器にダメージを与えて確実に殺す刺し方。ヤクザ映画である『抉るぞコラ』って奴。あれな。
ヤクザの取材中に知ったはずがない。だって現実のヤクザは尻を刺すから。裁判で『殺意はなかった』と言い張るために。
今時真面目に対人訓練してるのは特殊部隊とテロリストだけだ。素人なら、しかも強い怨恨が動機なら、何度もバスバスやってなきゃおかしい」
「当日、国内のプロは二人しか動いてなかった。彼らのアリバイは防衛局長が証言してくれる」
「政治家に動かせるのはヤクザが精々だ。照石の怨みで政治家が、て事はない。
ガキの頃、衆院会館を冒険した事があってさ。したら地下のゴミ箱の名刺入れに、黒くて固い、金筋の立派な名刺がバンバン捨てられたの。全部ヤクザのだった。何々会系若頭、みたいなの」
「帯刀君はお坊ちゃまなんだね」
「そこじゃねーよハゲ。醍醐は素人だし、となると海外勢だ」
「不審者侵入の可能性に関して、この資料では言及されていない」
「所詮作文だろ」
「それもあるけど、警察だけでは調べられないんでしょう。これが海外のプロなら直前に入国して、直後に出国してる。外務省、法務省と連携する必要があるけど、大がかりに動けば来年の予算をゼロにされる」
「んー。じゃあ今何が必要だ?」
「味方と証拠、証言」
「証言は要らなくね?この資料でも、杉野の友人が夫婦間トラブルの存在を『証言』してるぞ。フォレンジック(科学捜査主義)に見ていくべきだろ」
「プロなら物証は相当程度捏造出来る。今回は両方バランスよく取っていくべきでしょう」
了介は右手に白いゴム手袋を嵌めて、左手の黒携帯で机に青い科学捜査ライト(指紋その他を調べる光線)を照射した。
机に付いた帯刀の指紋が浮かび上がった。右手のゴム手袋がボコボコに隆起して、帯刀の手に変化した。
「指紋をコピーした」
「それでさい銭盗むなよ。じゃあ、一回上京して聞き込みするか。今回の働き次第で何人かは喋ってくれるはずだ」
「仕事ぶりなら島でもチェック出来る。朝一で図書館を調べてみましょう」
杉野のマンションには防犯カメラの死角が二つあった。一階エントランスの公用トイレと、地下駐車場である。どちらも出入りは確認出来たが、中の様子は分からなかった。
車は駐車中も周囲を録画出来た。車自体が動く防犯カメラなので、二重投資を嫌い、駐車場の出入り口だけにカメラを設置する業者も少なくなかった。マンションの管理業者もその一人だった。
しかし地下駐車場には物陰となる太い柱が何本かあった。また録画するのは車の前後左右だけで、真上や真下(路面と車体の間に微妙な隙間がある)はフリーだった。柱の陰から天井に移動すれば、または住民に協力者がいれば、死角は簡単に作り出せた。
支援組織を持ち、装備も整えたプロ。そんな犯人像が浮かび上がってくる。
外が紫色に光った。二人は窓から空を見上げた。
大小様々な紫の光が宇宙へ上っていった。軍港から発進した宇宙艦隊の光だった。各艦の艦尾スラスター口から、紫色の光がほとばしっていた。
軍艦はどれも無人運転で、ロボットしか乗っていなかった。上昇中の艦は垂直姿勢だったが、艦内は水平に保たれていた。
島のあちこちらから拍手が起こった。
「頑張ってこいよー!」
「役者倒すまで帰ってくるんじゃねえぞー!」