第3話:公女とバルカン牛のハンバーグ (後編)
蛮族軍の陣内にいたのは不思議な黒髪の青年だった。
“メシ番”という職務を、蛮族王から与えられた者。つまり他国との交渉後の晩餐の食事を任された料理人である。
「メシ番……なるほどね。それにしても晩餐会にしては、随分と質素な食事ね」
蛮族軍の幹部たちに聞こえるように、公女ミリアは虚勢を張る。
何故なら国家間の交渉では、隙や弱みを見せた方が負け。
こうして相手国の用意している食事に、難癖をつけるのも外交テクニックの一つ。今後の交渉を有利に進めるために、精神的に上を取るのだ。
「ただの“肉焼”よね、これは? とても晩餐会の食事とは思えないわ。さすがは野蛮な民族ね」
ミリアは鼻で笑う演技で、相手国の料理を蔑む。
黒髪の青年が調理していたのは獣の肉であった。熱々の鉄板の上で焼いている。
おそらくは肉の種類は牛肉。バルカン公国は畜産も盛んであり、牛肉に関してはミリアも少々うるさい。
「ただの“肉焼”だと……」
ミリアの侮蔑の言葉に反応して、黒髪の青年が口を開く。
顔を上げて鋭い視線で、ミリアの瞳を射抜いてくる。それはまるで歴戦の猛者のような鋭い眼光であった。
「あっ……」
ミリアは思わず声を失う。
彼女は公女として、数々の修羅場をくぐり抜けてきた。だが青年の眼光の前に足がすくんでしまった。もしかしたら自分は、このまま斬り殺されてしまうかもしれない。
「確かに、そうかもしれん」
だが青年は反論もせず、再び口を重く閉じる。
そして何もなかったかのように調理を続ける。両手のヘラで次々と楕円形の肉を焼いていく。
「すごい……」
ミリアは思わず声をもらす。これまで見たことのない手品師のような、見事な手際の良さであった。
虚勢を張っていたミリアは、その動きに見とれてしまう。
「それに、いい匂い……」
先ほどの何倍も香ばしい匂いが、ミリアの鼻孔と胃袋を直に刺激する。肉からこぼれた肉汁が、鉄板の上で香りとなって爆発しているのだ。
「美味しそう……」
ミリアは唾をゴクりと飲み込む。そういえば今日は緊張のあまり、朝から何も食べていない。
ここまま肉に手を伸ばして、直接自分の口の中に放り込み食べたい! そんな原始的な食の欲求に襲われる。
「さあ、できたぞ」
そんな食の欲望と化したミリアの夢が、現実のものとなる。最初に完成した肉料理の皿が、青年から差し出されたのだ。
「えっ、でも立ったままで……」
「立食式だ。ここでは」
立ったままの晩餐会など聞いたことがない。
そんな戸惑うミリアに青年は声をかけてくる。この森の民にマナーは不要だと。
「早く食え。熱い方が美味い」
青年に言われるまでもない。肉料理は熱いうちに食べるのが、美味いに決まっている。
「ええ、ちょうだいするわ」
辛うじて残っていた理性で、公女としての口調を保つ。
だがミリアの欲求は崩壊寸前だった。先ほどの調理を眼前で見て五感が刺激されていたのだ。
肉と肉汁の焼ける香ばしい匂い。野生の本能を刺激する肉の焼ける音。そしてこんがりと焼けた肉の色と、光沢のあるソースの視覚で。
(あとは肉の味と……食感……この二つを早く確かめたいの!)
口の中で滝のような唾液が溢れ、隠すために飲み込む。公女とは思えない野獣のような、激しい食の欲求に襲われていた。
「あ、あら。これは牛肉のモモ肉かしら?」
表面上は虚勢を張るミリアは、肉の部位の検討をつける。
焼かれた楕円の肉は、木皿の上に盛り付けられていた。こんがりと焦げ目がついた表面の色は、牛のモモ肉とよく似ている。
(でも何かが違うわ……)
だがミリアは心の中で首をかしげる。何故ならよく見るとモモ肉ではないのだ。
これまで見たことない肉の形と表面の質感。こんなキレイな楕円の形の肉焼など、ミリアは見たことも聞いたこともない。
(こうなったら何の肉でもいい。早く食べないと、冷めてしまうわ!)
ミリアは無駄な推理することを諦める。目の前の香ばしい料理が、語りかけてくるのだ。
“能書きはいい。熱々のうちに早く食え。食えば分かる”と。
(あっ……でも、どうやって食べれば……)
いざ食べようと決意したミリアは、一番大事なことに気がつく。
立食式であるために、左手には木皿を持っている。右手には渡されたフォークが一本だけ。
つまり皿を抑えて、ナイフとフォークで切り分けることができないのだ。
いくら美味そうな肉料理だとしても、食べられないのでは欠陥品。もしかしたら青年がミリアを苦しめるためにワザとやったのか。
「ナイフは必要ない。そのフォークで切り分けられる」
「えっ、ナイフが必要ない……?」
そんなミリアの心を読んだかのように、青年は静かに口を開く。
表面はこんがりと焼けているが、中は柔らかいの。だから女性でも噛み切れると説明してくる。
「ナイフとフォークが不要だなんて、さすがは蛮族の料理ね!」
最後の力を振り絞り、ミリアは精一杯の虚勢を保つ。テーブルマナーも無い蛮族の風習を見下す言葉を発する。
(でも、そんな……表面が硬くて、中が柔らかい肉なんて存在するの⁉)
だが内心は興奮状態に陥っていた。そんな食感の肉の部位など古今東西、聞いたこともない。
本当かどうか早く確かめないと! 青年の言葉に従ってフォークの側面を、おそるおそる肉焼に押し当てる。
「えっ!?……や、柔らかい……」
フォークの側面を少しだけ押し当てた、その次の瞬間。楕円形の肉焼がサッと切れる。
硬い牛モモ肉の肉焼と思っていたミリアは、思わず目を丸くする。
「それに中から、肉汁がこんなに⁉」
そして更に驚く。フォークを入れた肉焼から、滝のように肉汁が溢れ出してきた。
澄んだ色の肉汁。だが何ともいえない、香ばしい匂いの肉汁である。
もしかしたら、これは何かの奇術であろうか?
全てが初めての体験。ミリアは思わず料理に見入ってしまう。
「かなり熱い。気を付けて食え」
「う、うん……わかったわよ」
躊躇していたミリアに、青年は注意を呼びかけてくる。
身分の高い公女に対して、一介の料理人が不敬な口の利き方。
だが食欲の渦に包まれていたミリアは、それにすら気がついていない。むしろ彼女の言葉も普段の地が出ていた。
「それでは、いただくとするわ……」
フォークで切り分けた肉の塊を、ミリアは恐る恐る口に入れる。本当なら一気に被りつきたところだが、辛うじて最後に残った理性が止めている。
「ひと口……んっ!?……これは⁉」
料理を一口食べたミリアは、またもや言葉を失う。
いや口を開きたくても不可能。肉汁が洪水の溢れ出し、自分の口を開けることができないのだ。
(熱い!……でも、美味しい! 熱い! でも、凄く美味しい!)
青年の忠告のとおり火傷寸前の熱々の肉汁が、口の中を走り回る。だが直後には、溢れんばかりの旨味が押し寄せてくる。
ほどよい食感の肉は、噛めば噛むほど味が吹き出す。そして肉汁と旨味が舌の上に溶け合う。
(この甘い旨味は……もしかして野菜⁉ でも、本当に美味しい!)
ミリアは我を忘れて食す。もはや、ゆっくりと味わうのも忘れ、咀嚼して一気に飲み込む。
「ふう……美味しかった……でも、まって? そういえば、これは、いったい何の肉なのだったの⁉」
あっとう間に口の中から、無くなってしまった肉の料理。その正体を再び探るべく、ミリは次の肉の一片を自分の口の中に放り込む。
(ああ……なんて美味しいの……こんなのはじめて……)
そしてまた切り分けては食べ、噛み味わい飲み込む。さらに切り分けて、口の中へ。肉汁と食感と旨味をエンドレスに味わう。
「お代わりもあるぞ」
「ええっ⁉」
なんと青年は追加の料理を差し出してくる。
そしてミリアの理性と記憶は吹き飛ぶのであった。
◇
「あら……ここは、どこかしら?」
気がつくとミリアは立ち尽くしていた。
その左手には空になった木皿。そこにあったアノ肉料理は姿を消していた。調理した黒髪の青年も既にいない。
初めての体験とあまりの美味さ。ミリアは一心不乱に食べ、いつの間にか時間が過ぎ去っていたのだ。
「では、食事の時間。ここで終わる」
その時、蛮族の外交官が宣言する。
公国の客を招いての食事の時間が終わりだと。
「えっ⁉ そ、そんな……」
食事の宴が終わり、蛮族王は警護と共に立ち去っていく。
ミリアの命を賭けた暗殺の策は、見事失敗に終わってしまったのである。