一話
「あ、アリナ?」
俺がそう語りかけると、下を俯いていた小さな顔がハッとしたように上がった。そして俺の顔を見るなり固まった。
「アリナ、だよな?」
俺がそう確信した理由は一つだ。この少女の顔に纏わりつく墨のような黒さには美しさがあったからだ。まるでアリナのような、いや、アリナと同じ墨だった。色々分からないこともある。なぜアリナがブス顔などと呼ばれているのか。なぜ苗字がかつての須藤ではなく柿崎なのか。なぜ、何も喋らないのか。
「何か、喋ってくれよ……」
「っ……」
何か言いたそうなのは分かるのだが、何も言ってくれない。分かる。墨の雰囲気で分かる。この少女は確実にアリナのそれで、今なぜか嬉しさと恐怖が混ざり合っている事が。
「何か怖いことでもあったのか?」
俺は言ってから気づいた。そうか、今この少女はイジメられている。背中の張り紙を剥がして丸めて、近くのゴミ箱に捨てた。
「こんなことやるなんて……」
自分でも分かっていた。自分すらも同罪なのだと。イジメという現実を知っていてそれを他人事であり、無視すべき事なんだと考えていた自分が。口に出した後恥ずかしくなった。
「アリナ。何があったか教えてくれないか?」
「……」
何も喋ってくれない。それどころか、床に水滴が落ちた。
「泣いている、のか?」
「ぁ……」
どういう事だよ。誰か教えてくれよ。
「あれぇ〜?柿崎ィ。前島君に泣かされちゃったのー?」
「きゃっはは!何その顔!ウケるんですけど!」
「ブスもここまでいくと死んだほうがマシだよね」
アリナの後方から聞こえた罵声の数々。語彙があるわけでは無いが、人を冒涜するのにこれでもかというほどの蔑みと嘲笑が含まれていた。
「……!」
アリナの肩がすくみ上った。
「前島君もそんなやつの近くにいるとばっちくなっちゃうよ?」
「前島す君ってカッコいいから、そのブスの影響受けやすそうだよね!キャハッ」
「///ま、前島君っ。そんなやつほっといて、こ、こっちに来てよ」
調子のいいやつらだ。おそらくこいつらがアリナをイジメている奴らだろう。もう一人の柿崎はいないが。
「お前ら、こんな事はやめるんだ。こんなことやって何の得になる」
「うっそぉ!前島君なんでそいつの肩持つん?」
「やってはいけないことをやってはいけないと言っているだけだ」
「うー、でもさそいつの顔見てみ?ヤバくない?きっもち悪くない?」
反省するそぶりもなく、少女達は続ける。
「その爛れた気持ち悪い顔をさぁ」
俺には人の顔が分からない。人間の顔にはあの墨がかかり、見る事ができないんだ。だからアリナのその顔だって分からない。俺はアリナの方を向かずに言った。
「まだアリナをどうこう言うのか?これ以上は許さない」
「うっひゃあー!下の名前で呼ぶ人初めて見た!ウケるー!」
「……え!な、なんで!?前島君頭おかしいの!?」
「前島君こんなブッサイクな奴と知り合いだったんだぁ」
「やめろって言ってるんだ!」
俺はついに耐えきれなくなって前の方にいた女の首を掴んだ。
「お、、げぇ」
「ふっ、ふっ。ごく。ふぅ……」
「や、やめ……」
「キャァァァア!」
「ま、前島君!?」
「っ……!?」
一番前にいた女の首を掴んで壁に押し付けている。今の俺は相当に理性を失っているのかもしれない。ああでも、そんな思考があるって言う事はまだ大丈夫ってことか。こんなに怒ったのは初めてだ。多分久々に見たアリナが、こんな残酷な目にあっている事が許せなかったんだろう。分かりきった事だな。
「お、お前ら何をやってルーーー!」
それから俺は周りにいた男子と、駆けつけた教頭と生徒指導教諭により取り押さえられた。周りを見ると、俺らの口論を聞いてるような奴らは沢山いたらしかった。今の彼らの墨を見ると、分かる事がある。それは俺に向ける慈悲を讃える感情と、アリナに向ける蔑みの感情。つまり、俺は可哀想な少女をイジメから救おうとして、失敗した。そしてみんなはそんな俺を讃え、なぜかその失敗の原因をあの三人ではなくアリナだと決めつけたのだ。間違ってるよ。だけど、俺も少し前まではあの立場だったのかな。自分も許せないよ。アリナ、そんな悲しい感情を作るなよ。なんで俺はそんなお前の悲しい顔さえ分からないんだ。