三、
『都』とは。
『大江戸巷説帳』の地図において唯一の居住区であり、NPCから依頼を受注する場であり、道具が流通する市場であり、狩りに飽いたプレイヤー達が雑談を交わす喧々騒々とした空間のことを指す。
ド・マイナーだったとは言え、常時百人近くがログインしていた『大江戸巷説帳』。
そのプレイヤーの何割かは『都』にたむろして、己が必要とする装備を買い求め、他人の物々交換に難癖を付けたり、はたまた依頼達成の為に行軍仲間の募集を掛けたりしていたのだが。
古き街並みと着物姿をこよなく愛する俺はと言えば、「ストーカー、ダメ、絶対!」と仲間達から寄越される心外な忠告をBGMに、蝮の如き執拗さで『都』の人々を観察することを日々忙しんでいた。
侘しい長屋の一棟一棟から、清楚な看板娘(NPC)が売りの可愛い茶屋、妖しい雰囲気を醸す遊郭、そして無駄に広くて大きい御所に至るまで。その何もかもがツボであり理想郷だったのだから、はしゃいでしまうのは致し方がない。俺の観察行動は純粋な興味と好意に満ち溢れた、正当なる行為だった。
だと言うのにそれを解そうとはせず、通報しました、などと態々お言葉まで掛けてくれたとある見知らぬ暇人さん。その後闇に紛れてPKした記憶は懐かしい思い出だ。きっと相手も俺の名を気に喰わない輩として登録しているだろう。お互い様だ。
と、まぁ、俺にとっては昨日まで普通に楽しんでいた『都』での赤裸々生活を振り返った所で、そろそろ逃避していた現実とやらを見据えでもしようか。
――目蓋を開けたら、そこは『牢屋』だった。
闇と無音と不快な湿気。不安を煽る要素三拍子を揃えた黴臭い土蔵に、俺はいる。安らぎの「や」の字さえ恥じらって姿を見せない環境だ。こんな所に丸一日閉じ込められれば、暗所恐怖症と閉所恐怖症がわんさか量産可能に違いない。
俺はそのどちらも御免被るので、『お道具箱』から誘蛾灯を取り出して灯りを得ている。名前は兎も角、居住区では見た目も効果もただの提灯であり、これで室内の間取りも隅から隅までバッチリだ。――ちなみに、狩場では名前の通り、妖ホイホイとして使用する。ただし雑魚しか釣れないから、レベルが百を超えた辺りで、『お道具箱』の肥やしと化していたが。意外なところで役に立った。
かなり前置きが長くなったが、探索であちらさんの様子を窺う限り、尋問が開始されるまで幾らかまだ余裕があるようだし、ならば更なる暇潰しも兼ねて、俺が何故こんな面倒な状況に陥っているのか、ざっと簡単な経緯でも説明しておこうか。
転移陣を起動させ、引力とは九十度対抗する力が全身を引っ張る感覚に目蓋を閉じること約一秒。そんな一瞬とも言える間に、獣臭が混ざった障気の渦がそこかしこで吹き荒れ、妖が咆哮を上げていた魔境とは全く異なった、生活感に溢れる人々のざわめきと食べ物の匂いが押し寄せた。
『都』だ。
俺は、ほっと詰めていた息を吐く。安堵した。人の気配にもそうだが、それよりもまず、耳に伝わる言葉が理解可能であった事実に。
トリップ物で見掛けるゲームとの齟齬が言語に生じている可能性を、俺は危惧していた。『大江戸巷説帳』は古き良き江戸時代を模倣した世界。ここで何をとち狂ったか、実際に江戸時代に用いられていた古語を使用されでもしたら、俺は絶望のあまり世を儚んでいたかもしれない。
古典は外国語と同義なのだ。只でさえ許容量が少なく、更に成人して数年を経過したことで柔軟性を失った脳を痛めつけるなんて、あるのか分からない次代の人生の頭脳に託した方が遥かにマシだ。
と、そんなこと考えている間に、何やら周囲のざわめきが大きくなっていた。一体どうしたと言うのだろう。好い加減目を開いて確認するか。
見慣れた場所、見慣れた町、見慣れた人。呪文のように三つを唱え、一呼吸。俺は震える目蓋を押し上げて、……そして即座にまた閉じた。
良し、俺は何も見なかった。恐怖と不安が綯い交ぜになった感情を浮かべる町人が輪を作って遠巻きに此方を見詰めているだとか、すぐ目と鼻の先に目付き悪い男の顔が鎮座していらっしゃったとか。俺とはてんで関係ない話だ。さぁてこれから、何処へと向かおうかね。
「……待て」
真っ暗な視界のまま華麗なるターンを決め、その場から颯爽と立ち去ろうとした俺の背を、ドスが聞いた低い声が追い掛ける。が、知らん。
「待て、と言う言葉が聞こえていないのか、貴様!」
そうそう聞こえていなんだって。まずはそうだな、組合でも訪ねてみるか。
組合長を拝命していた俺は、其処に一つ専用の部屋を所有していて、『お道具箱』や『蔵』に入り切れなかった品々を、一時的に仕舞い込んでいた。その中には親玉を倒すことウン百回目にしてドロップする、所謂レアと呼ばれる品々もあったわけで。それらがどうなっているのか、蒐集家として気になる所だ。
それにもしそのまま使用可能ならば、当分の暮らしの拠点は組合に据えようかと考えている。旅籠暮らしも結構だが、所詮は借り宿、体は休めても精神は落ち着かないからな。
「待ちやがれィ、この無礼者!」
と、今後の予定を組み立てていた俺の思考に、今度は別の怒声まで乱入してきた。
巻き舌って意外と難しいんだよな。感心しながらも状況からして嫌な予感という名の確信しかしない。スピードを速めようと俺は大股で素早く次を踏み出すが、惜しい、一歩遅かったようだ。
思いっ切り肩を掴まれ、砂利だらけの地面へと乱暴に引き倒される。拍子に打ち付けた顎骨は石にでも当たったらしい。じん、と痺れ、一拍遅れて痛みが到来した。
「親分を無視するとは良い度胸でィ。それとも妖だから言葉を解せねぇのかィ?」
語尾にあァん? とでも付きそうな尻上がり調子の喧嘩腰。
「しょっ引くぞ、あァ?」
残念、ん、が抜けた。ではなくて、打ち付けた顎と後ろ手に捻り上げられた両腕がかなり痛いんだが。くっそ、INT極振り舐めんなよ。レベルがカンストしていようと、物理には滅法弱い紙装甲なんだぞ、丁重に扱え、丁重に。
離せ、と険を込めて睨み上げれば、眉が太い柄悪そうな人相の男は更なる力を籠めやがった。くそ、反抗的な態度は許さない、ってか。
ここで俺は、巷で見掛けるお昼の警察ドラマを思い出した。威圧的な態度を振りかざし問答無用でタイーホ→あんな尋問、こんな拷問やっちゃうぜ☆→肉体も精神もずたぼろにされた後に、冤罪でしたごめんね、はい釈放! という一連の王道パターンだ。勿論、被害者は泣き寝入りがデフォと決まっている。――ふざけんな、何が何でも御免被る。
平和的かつ穏便なる話し合い、という選択肢を、この時点で俺は取り敢えず脳内から捨て去った。まずはこの柄が悪くて巻き舌太眉の男の下から這い出すこと。そして己が身の安全を確保することが最優先事項だ。こういう輩はこっちが対等、若しくは優位に立たない限り聞く耳を持たない。
ならば。
「お、い」
「あァ?」
「目瞑っていた方がいいと思うぞ」
一応、忠告したからな。
言い置いて額に皺が寄るくらい固く目蓋を閉じ、素早く顔を地面に伏せると、『明滅』と簡易呪を唇に乗せる。言葉尻が空気に溶け込むより早く、あたかも太陽を直視した時のような強烈で容赦ない閃光が薄皮一枚越しに届いた。
「なっ!」
「きゃあ!」
其処彼処で悲鳴が上がる。そういや周りに住民もいたっけな。これは少々申し訳ないことをしてしまった。
俺は緩んだ手から自分の腕を素早く取り返すと、よろめく男を跳ね退けて急いで体勢を整える。大股換算で約七歩分もの距離を飛び退さって稼いだ所で目を凝らせば、俺を拘束していた男と親分と呼ばれていた男も未だ視力は回復していないようで、頻りに瞬きを繰り返しては忌々しげに口元を歪めていた。
よーし、良し。これだけ距離が稼げれば攻撃も可能だし、振り切って逃げ切ることも可能だ。一先ず身の安全を確保した俺は、改めて二人の男達を観察する。
まず一人目。月代を広く剃り、髷先を少し広げて尻を下げた髪型に、着物を裾長に着た上へ三つ紋の黒羽織。大小細身の脇差を落としに差し、下は紺足袋と雪駄ばき。俺が目を開けた時、顔面ドアップに驚いてしまった男はどうやら、時代劇で見掛けるような典型的な同心らしい。目付きはかなり悪いが、顔立ちはかなり整った部類に入る。
ならばもう片方、着流しに裏白の紺足袋、白い鼻緒の雪駄の奴は岡っ引きで決定だな。それらしい格好で装っているし。あ、くそ。こいつもイケメンかよ、爆ぜろ。
あらかた相手方の職業に予想を付け勝手に難癖付けたところで漸く、俺ははて、と首を傾ける。おかしい。何が、って、彼等が存在していること自体が、だ。
――『大江戸巷説帳』の世界で、同心や岡っ引きなんて存在していなかった。
もちろん世界観の設定上、『都』に悪人はいる。事件も起きる。
しかしそう云った輩を捕縛する役目を担っていたのは依頼を受注したプレイヤーで、ついでに奉行所なんて大層なるお役所は『都』に軒を構えていなかったから、捕まえた下手人は御所の一角でぼんやりと佇む愛すべき穀潰し、もとい五右衛門さん(NPC)に突き出していた。更に補足するなら装備に関しても、こんなにも時代劇に忠実な同心セットや岡っ引きセットなんて運営は配布していなかった筈で。
「全く、何がどうなっていることやら……」
これがトリップに有りがちな、『ゲームとそっくりな世界観! だけどやっぱり齟齬とかあるよ!』な展開なのだろうか。自分が知る文化水準から甚だしく後退していたり、はたまたとある装備や技が過去の遺物として扱われていたり。下手すればこの腐るほど所持している通貨、『エン』も一銭の価値すらないのかもしれない。……実に由々しき事態だ。これは何処か店に立ち寄って、使えるか否かを早く確かめなければ。
俺は早くも暗雲が立ち込めかけた今後に憂鬱になりながら、気軽に冷やかせそうな店を求めてぐるりと首を巡らせる。出来れば茶屋なんか都合が良い。最悪、食い逃げが出来るからな――……などと最低かつ不届きな思考は、けれども途中で毒々しげに此方を睨む二対の双眸とかち合ったことで、現実に立ち返った。
「……もう見えるのか」
僅かに感心しながら思わず呟いた先には、未だ手の平で目蓋を覆っている町民達と違い、同心と岡っ引きと思しき人物達は敵意と警戒心を露わに得物に手を掛けていた。思ったよりも回復が早いこって。
「矢張り貴様、妖かっ……!」
血走った目をした同心が憎々しげに吐き捨てる。同時に赤銅色に輝く刀身が日の下にすらりと翳されると、側に控えていた岡っ引きが勢い良く後ずさった。――って、おいちょっと待て。あれってまさか『獄炎の長刀』じゃ。
見覚えある刀に頬の筋肉を引き攣らせた俺は直ぐに、さっきの岡っ引きよろしく野次馬の輪すれすれまで勢い良く後ずさる。
『獄炎の長刀』。獄炎九尾(レベル九十)という中級に位置する狐型をした親玉からドロップする武器で、炎属性を秘めた刀だ。攻撃力はそこそこに高く、普通に斬り付けただけで約三割の確率で相手を火傷状態に陥らせることが可能な、一石二鳥を狙える装備である。物々交換が可能なためレアの中では比較的手に入りやすく(勿論俺も所有している)、中堅どころの『侍』プレイヤー達が好んで使用していた武器だったが。
「……物凄く、嫌な、予感が」
まさかそんな、と訝しむ俺と、いや、きっと大丈夫だ、と無理やり納得させようとする俺。いやいややっぱり見過ごしたら駄目だろう、と反対する俺と、馬鹿野郎、敵に情け容赦かけるんじゃないと詰る俺。そんな、内心で盛大に開催された俺々会議という葛藤から生じた隙を、武人である同心が見逃す筈もなく。
好機、とばかりに瞬時に距離を詰められ、威勢の良い声と刃毀れ一つない刀身が、炎と血飛沫と共に俺の心臓を目掛けて振り掛かってきた。
「は、遅いな……、ってやっぱりか―――――!」
馬鹿野郎、との罵り言葉は最早、音にすらならなかった。
避けたよ、勿論避けられたに決まっている。紙装甲の尊称は、回避の鬼と同義なのだ。先程の出会い頭の様子見は兎も角、今回は曲芸師よろしく降り懸かる火の粉共々華麗に身を翻した。だと云うのに、俺の雪原のように真っ白な羽織を染める鮮紅。――反動だ。
対妖・対物鑑定技術は持っているが、対人用の鑑定技術は取得していない俺でも、これで相手の大体な強さにあたりが付いた。
『極炎の長刀』。効果・効能・由来は先程の説明以下略だが、一般的にレアと呼ばれる装備や道具類はその殆どに、ある意味バランスブレイカーと悪名高い使用制限が付く。こいつに限って言えば、使用最低レベルが六〇以上を要求する。それを下回るレベルの奴等が使用すると、一振りするごとに生命力を三割持って行かれる寸法だ。
つまり。
「ぐっ……! き、さま、こ、いつを、躱、すとは」
口元から多量に血を滴らせ、息絶え絶えになりながらも殺気を消さない男が、俺の自慢の羽織を汚した張本人であり、レベル六〇以下であり、残念ながら自殺志願者と同義なのだ。
「っ、馬鹿! やめろ!」
細められた両眼に、乱れた呼吸が統率される。ゆっくりと、同心の腕が宙へ上がる。……善意の制止虚しくも、二度目が放たれた。
「っ!」
血飛沫と、燃え上がる殺意の炎。一太刀目よりも、明らかに速さと鋭さを増し、重量さえ帯びた剣戟。……それでも容易く見切ってしまうのが、どうしようもないレベルの差だ。
難なく躱した俺に、最早、喰い縛られた男の口からは、一欠けらの苦痛さえ聞かれなかった。ただ静かに佇む様に、俺は否が応でも悟る。クソったれな覚悟を決めてしまっているのだ、傍迷惑この上ない事に。
「――って、させるか!」
トリップなどと云う訳が分からない事態に陥ってすぐ、間接的とは言え、人死の業を背負う。非常に馬鹿馬鹿しくて、重苦しくて、面倒なことだ。まだ一息さえ吐けていないと云うのに、俺から未来の安眠さえも奪おうと云うのか。
巫山戯るな。俺は怒りと己の正義感に身体を震わせた。俺の人生はゲームとゲームとゲームと中途半端な学生生活と、後はほんの僅かばかりの睡眠という実に絶妙なバランスの上で成り立っているのだ。其処に罪悪感と云う名の夢見の悪さが加わってみろ。ただの不眠症が出来上がる。
「水無月」
俺は静かに刀を呼んだ。
2.5次元が3次元となってからは威力がどの程度か確認していないが、人より桁違いに身体能力が高い妖を軽々と爆散させるのだ。人に向けて迂闊な呪術は使えない。ならば。
「来い!」
何もない空間から突如出現した刀にさえ僅かに目を見張るだけで、後は俺の挑発に乗るかのように、雄叫びを上げながら突っ込んで来る男。今度は躱すことなく、眼前に迫る業火を銀色に煌めく刀身で受け止め、――そのまま、態と体制を崩しながら腰を落とすと、鳩尾を爪先で柔く蹴り上げた。