室町時代のお姫様家業は、ツラいです
――室町時代。
室町幕府が治める日ノ本のとある城。
豊かな濡れ羽色の黒髪が美しい姫が居りました。
「今回の父上には困ったものね」
15の少女というべき姫は、たおやかに頬に手を当てて困ったフリをする。
「政略結婚で婚姻を結ばされたかと思えば、離縁され、家に戻されて―――ソラ、どうしましょう?」
お姫様家業は一興だと思ったのだけれど、ここももう終ね。そう思わない?という言葉を紫の瞳に秘めて、ゆかり姫は傍らに控えていた長身痩躯の男を見る。
黒い裃、青の衣、着物の上からでもなんとなくわかる鍛えられた痩躯。黒鞘の刀を床に垂直に立て、片膝立てて佇む姿はまさに従者の鏡。若武者然とした十八歳頃の男だった。
ソラと呼ばれた若武者は、静寂に包まれた一室でそっと息を吐き、目つきの悪い蒼海の瞳を開く。さらさらと風に弄ばれる黒髪の頭と袴を履いた尻に何かがすぅっと生えた。黒猫の耳と二又に分かれた尻尾だ。彼は妖怪だったのだ。
「どうしようもこうもないだろう。この家はもう、終わりだ。主、ここからさっさと逃げよう」
「逃げるって、どこへ? ウカノの神の所へは、もう、迷惑をかけられないわ」
泰然とした調子で姫は言う。庭に満開の桜の花が綺麗に咲いていた。
「では、この城の城主、今生の主の肉体の父を討ち取り、皆を滅ぼしてみるか」
「それもまた、一興ね」
「じゃあ」
「でも、イヤ」
「なぜ……? 人間など、掃いて捨てるほど居るだろう? オレはたくさんの人間が死ぬより、主一人が死ぬ方が嫌だ。もう、主が死ぬところは見たくないっ」
「それでもイヤ。人殺しは悪いことだもの。だからイヤ。それに、ソラに護られ続ける僕、お姫様の僕というのも飽きたわ。どうせなら、自分の敵は自分で打ち滅ぼしたいものね」
「主……。でもっ、でもっ、でも!! オレと主は一心同体で、魂で契約した互いの半身だ! オレはもう、ただの猫じゃないっ。主の、主のモノだっ! 主だけのモノだっ。主だけの従者だ! オレが殺るのと、主が殺るの、どーいう違いがあるっていうんだ。オレは主を護ってはいけないのか!?」
精悍な顔を涙で濡らして、ソラは動揺して、猫に戻ってしまった手で、姫に縋り付く。怯えた風に尻尾が長い足の間に入ってしまっていた。耳がしょぼんと垂れ下がる。
姫はあっけに取られた直後、豪快に腹を抱えて笑った。
「ああ、おかしい。ソラ、君は僕を護っていい。つか、護れ」
頷くソラ。デカい図体で頭を姫の胸元に甘えるようにこすりつける。機嫌を直した尻尾がゆらゆら宙をゆれていた。
姫は彼の頭を抱えて、背中を撫ぜる。まるで恋人同士のような二人だが、姫の方にはそんな感情は一切ない。猫と人は種族が違う。だから、恋愛対象には猫は見られていないのだ。
「オレ、主、護る。ずっと一緒。約束した。主、オレ、約束した」
「うん。約束したね。ずっと守ってくれて、ソラはえらい、偉い。だけど、僕が護ってほしいのは、躰じゃなくて心の方」
「こころ……? 躰は護らなくていいのか? 主、護れ、云ったのに」
蒼空の瞳の縦長の動向がにゅぅっと伸びて、不安そうに姫を見上げる。姫の腰にはソラの手が回され、彼は思いっきり甘えていた。
姫はそっと人化した猫を抱き返し、耳元でバカね、と呟く。
「人間、死ぬときは死ぬの。違うのはそれが遅いか早いかだけ。ね、ソラ? なにも怖いコトないでしょ?」
「わからない、わからない、主。オレは怖い。主がまた居なくなることが怖い。オレが死ぬよりも、主が死ぬことの方が怖い。オレ、また一人……。人間、オレら、バケモノいう。石投げる。迫害する。オレ、主だけ。主だけ。オレには主だけなんだ。他の人間なんてイラナイ。オレ、一人、嫌だ。オレも主とずっと一緒が良い」
ほんとうに、バカね。姫はソラの頭を撫で、その手を彼の頬に滑らせた。そっと両手で彼の顔を包み込み、涙に濡れる瞳をぺろりと舐めて、キュッと引き結ばれた唇に口づけを落とす。
「……っ、あるじ……」
「ほんとうにバカな猫。大好きよ? ソラ。恋愛方面以外でなら、本当に、大好き。愛してるわ。でもね、君がひとりだと思ったら大間違い」
ちゅっ、ちゅっ……と、ソラの顔から首、着物の袂まで唇を這わせて、接吻を落とす。やわやわと与えられる快感という名の褒美の感触に耐えながら、ソラは粛々と涙を流し続けた。この姫は、もうじき命を落とす。断罪の死神の大鎌が刻限を刻み、馬の蹄の音を連れて、遠くで足を踏み鳴らす。音はだんだんと近づいてくる。
姫の幼く、白い繊手がソラの左胸の上に差し入れられる。そこに契約の印があった。絡み合う青の毬文様と赤い彼岸花の証が。
ソラは息をつめた。彼は普段、決して誰にもそこに触れさせようとしない。いつも包帯で隠して、着物もきっちり着て、絶対に誰にも見せようとしない。それは心臓の上。魂を繋げて契約した二人だけの、隠叉の秘密。咎の証。人でもない、妖怪でもない、人ならざるモノになってしまった罪の証。二人の大事なもの。命綱。その証。
左胸の上を弄んでいた姫の手が、そーっと彼の腕に伝い、ソラの服を左胸側だけはだけさせる。猫は空気に寒さに姫にゆるゆると握られた尻尾の先を少し動かした。
姫はソラの胸に右手を当てて、しなだれかかる。
死の福音は、刻一刻と近づいてきていた。
「私はソラとずっと一緒よ? 魂が繋がっているんですもの。ずっと、ずっと一緒。生まれ変わってもまた、こうやって出会えるわ。今生もそうだったじゃない。おまえが私を探して、私はおまえを求める。ね? 簡単でしょ?」
姫はにまっと悪戯っぽく笑って、己の従者の涙に濡れた精悍な顔を眺める。
「私は気長だから、待ってるわ。君が僕を探し出してくれると信じてるから、僕は寂しくない。怖くない」
ソラは姫の小さな体を胸に押し戴いた。涙が止まらない。遠くで城の門が敵兵に破られた音がする。戦だ。戦が姫の命を奪う。この城の城主、つまり姫の父は、家臣たちの下剋上に合い、すでに亡くなった。今、この城は籠城状態にある。逃げようと思っても逃げられない。姫が望まぬ限りはソラも、本来の力を発揮できない。そういう約定を数千年前に交わした。
例え凡百、万の敵を打ち滅ぼす力を持っていても、例え姫をここから連れ出し、裕福な生活をさせてやる財力と権力を持っていても、姫が望まなければそんな力、意味がない。
意味がないじゃないか。
「これでは本当に、オレはただの猫じゃないか」
「それ以外になにがあるの? 君は猫。ずーっと猫。生まれたときから少しは成長したようだけど、種族と生き方を変えることなんて、そうそう簡単に出来ることではないよ。生物の根幹ってのはね、どうしても変わることがないんだよ多分。君は猫。僕の猫。ずーっと僕のもの。私の愛しい愛しい最愛の従者。君が居なかったら私の心はすでに死んでいたわ。だから感謝してる」
「オレは猫以外のは、なれないのか?」
「少なくとも、恋人にはなれない。なってほしくない。だって、そんなすぐ切れる縁じゃ、私達の仲は言い表せないでしょう……?」
ソラは一滴の涙を落とした。
「ああ、……そうだな。オレは………――主の恋人には、なれない、のか」
「………だけど、大切な者には変わりない。私の魂の半身。お願いがあるの」
「なんだ……? 主の願いなら、なんでも聞いてやる」
姫は遠くの方。桜の花の向こう。戦の音へ耳を傾けて。躰を起こして自分の小さなふくらみに手を当てる。再びソラの方を向いた時。 姫の顔は不思議なほど、落ち着いた表情だった。
「この城に火をつけて。そうして、私にその刀を突き立てなさい」
「主……っ」
目を見開き、脳天を鈍器で殴られたような衝撃がソラに走る。姫は笑みすら湛えてソラの顔を真正面からモノ言わず見つめ返した。
「いやだっ。いやだっ、いやだっ、嫌だ!! オレが主に止めを刺すなんてできないッ」
「じゃあ、私が城の敵兵に嬲り殺されるのと、敵兵さん方に犯され、廻され、心を病み、二度とソラの顔を見なくなるのと、ソラが私に止めを刺して、輪廻の向こうでもう一度、一からやりなおすの。どれがいい……?」
絶句。
この姫、可愛い顔していうことがえげつない。
しかもあまり間違っていないから困る。
ソラははたと我に返って、姫を抱きしめ、首を横に振る。
「全部嫌だけど、二番目は絶対ヤダ! オレが寂しくて気が狂って考えただけでもどうにかなっちまいそうだ!」
「あ、三番目は私、いつも通り、たぶん、輪廻の記憶、持越しよ? きっと“いつも通り”、二人で仲良くやれるわ」
困ったように笑って、姫は部屋の外に耳を澄ました。
銃声が聞こえる。敵がこの城に押し入ってきた。ああ、誰かが殺されたわ。私怨を果たすには、早く、この城に火を放って、みんな、この城ごと私の躰とともに道連れにしてやらないと――。
「………主、本当に、もう、だめなのか?」
「そうおまえも云ったじゃない。“この城はまもなく落ちる、早く逃げよう”って。どこにも逃げ場はないわ。残念ながら。もう手遅れ。ソラ、今生も楽しかったわ。おまえのおかげで絶望しきらずにすんでいる。ありがとうね、ソラ。でも、今回はもう、終わりよ。終わりにしましょう。ちょっと、疲れたわ」
「わかった」
ソラは着物の袂を直して、姫を離す。
涙をぬぐって、キリリと引き締まった表情を作ると、城中の蝋燭に火を灯して回り、ついでに敵兵を斬り捨てて、火のついた蝋燭を片っ端から城の木材という木材に燃え移らせていった。
ソラが燃え盛る姫の部屋に戻った時、姫は昔、小さい頃、ソラが買ってやった手鞠を持って遊んでいた。
終わったの? と尋ねるので頷く。そう……と小さい声が帰ってきた。
姫は手鞠をソラに渡して、彼の腰に差した刀をすらりと自分で抜き放つ。
姫に武器など扱えないことは百も承知。姫はこれから、死ぬのだ。ソラに止めをさされて死ぬつもりなのだ。誇り高く、気高い姫。誰も姫の、姫自身に関する決定を覆すことはできない。誰よりも長い付き合いであるソラでさえも――。
姫はソラが自分で創ったという刀をためつ、すがめつ、していると、不意に、思いっ切ってその刀の切っ先を自分の腹に差し入れた。
息をのむソラ。慌てて姫が刺した自身の刀を、姫の躰から引き抜く。
姫の顔が青ざめた。腹を押さえて、腕を差し出したソラの胸に体を力なく預ける。
「無茶をする……。切腹なんて、貴族の姫らしくないぞ。それは武家のモノがすることだ」
ソラの苦し紛れの言葉に、姫は皮肉気な笑みを浮かべていった。一度、どんなものか、試してみたかったと。
ソラの口元に弱弱しい笑みが生まれる。それでこそ、我が主。死ぬ時まで突拍子もなく、飽きないなと。
流れ出る血を片手で押さえながら、姫は最愛の従者の顔に、血に濡れた手を這わせて希う。
ソラは心の底から愛しい者を見る目で、己の刀に手をかけた。
「ねえ、最後に今の私の名を呼んで?」
「“ゆかり”。ゆかり姫。オレの唯一の主君、ゆかり姫。――ゆかり……」
「そう。覚えておいて。ソラ。君だけが僕の生きた現実。今の私のほんと。“わたし”のこと、忘れないでね……?」
ゆかり姫は閉じていたまぶたをゆっくり開き、最期に儚く、優しく、気丈に気高く笑った。
かくして、城は燃え落ち、姫は命を落とした。
城を襲った敵兵たちも、まるで災害にでもあったかのように、次々に死んでいった。
城の中で、たった一人、裏切らなかった武士の男が居る。その男は、姫の唯一の側近で、他家への輿入れにもついていった。姫の情人(恋人)では……?と噂がたったことがあったが、二人を見るにその関係は兄と妹に近く、本物の家族以上に固い絆で結ばれているようだった。彼は姫の死後、忽然と姿を消す。
天津空と名乗っていたその青年は、後日、姫と姫の家を滅ぼした家々に報復に回ったと言われる。それはその時、姫がのことしたといわれるこんな言葉から。
「――ソラ、今生最後の命令だ。契約通り、私が死んだら俺の亡骸を好きにしていい。その代り、私を終わらせた奴ら、全員に、俺の代わりに報復しておいてくれ。一人も見逃すんじゃねぇぞ」
青年は、何故か黒い猫耳と尻尾を生やしていた、という化生の者のような目撃情報があった。同時に、【災厄の猫】の噂が広まる。姫の呪いだとも。
姫を殺したから、真っ黒くて馬鹿でかい黒猫妖怪、【災厄の猫】が出て、姫の敵だった者たちを全て打ち滅ぼし、死体は無残にも食い殺されて、身元の判別もつかなくなってしまったのだ。姫を殺したのが間違いだった。姫を狙ったのが間違いだった。ゆかり姫は猫憑きだったのだ。だから、あの姫の敵方として合戦に参加した家々は、すべて残らず、無残な最期を呪いのように、何年も経った今でも遂げ続けているのだと。
姫の呪いは二十年続き、姫を殺した者たちの家々と、姫の実家の家々は、すべて滅んだ。
滅んでしまったのである。
――――戦国時代。後北条家と上杉家の領境の村。
「――ね? ソラ。だから言ったでしょ? また会えるって」
藍色の髪をした紫眼の幼女は、腕に抱え上げた蒼空色の瞳の目つきの悪い猫に向かって、にんまりと悪戯っぽく笑って云った。
「主……。あるじっ……!」
「さて、ソラ、今生もよろしくねっ♪」
「ああ。ずっと、ずっと、一緒だ。この魂が消える時までずっと、ずっと、オレは主の側にいる。約束だからな」
「うん。約束。ちゃんと見つけてくれて、えらいえらい」
遊楽と名付けられた次代の“主”は、飼い猫従者の頭を“いつも通り”撫でる。猫はそれだけで、死んでいた心が生き返る気がした。モノクロだった世界が綺麗に息づき、色が生まれる。猫は長い安堵の吐息を吐いた。
「さてソラ。今回はなにをしようか?」
「気長に決めていけばいい。オレは何が有ろうと主の側にいる。主を手伝う。主の味方だ」
「うん。毎度のことながら心強い。それじゃあまずは……川で魚でもとろ~う♪」
「おっ、魚か。鮭か虹鱒は居るか?」
遊楽は自分の頭の上に、二尾の黒猫ソラを乗せて、ニヒルに笑う。
「さァね。とりあえず、しゅっぱーつ! 今日の朝ごはんに向けて!」
「おー!」
突き上げた拳。一人と一匹は魚を捕りに川に出かける。いつも通りの自由気ままな親なし生活。赤い子供と出会うまでもう少し。
これは遊楽が三歳の時の話。前世たちと今生の違いが出来るまで。あと、もう少し。
この二年後、彼女は運命を変える出会いをする。
赤い子供、後の旦那様と出会うまで、あともう少し。
それはまた、別のお話―――。