カラクリオートマティック
当作品はフィクションであり、実在の人物、団体、事件などには一切関係がありません。
牛飼怜には、一つだけ確信を持って言えることがある。それは、人間が集中力を高めるためには、ある種の儀式めいた行為を必要とする、ということだ。自分の場合は、それなりに上手い珈琲を淹れ、ゼミ室の一角を占めるオーディオセットでお気に入りのジャズを聴きながら机に向かうことがそれに当たるのだろう。そう思っている。
コーヒーメーカのフィルタを変え、豆を量って流し入れ、抽出のスイッチを入れる。流れるようなメロディに合わせて指で机を叩きながら、フィルタから立ち昇る香りを楽しむ。珈琲は、味もそうだが何より好きなのはこの香りだ。珈琲の芳香には覚醒と創造を促す効用がある。少なくとも、牛飼はそう信じている。これなくして人がここまで発展することは決してなかっただろう。
ゆえに牛飼は、珈琲の香りを損なうものが嫌いだ。部屋に芳香剤の類は置かないし、香水もつけない。昨今は男でも香水をつける大学生が多いが、本音を言えば止めて欲しいところだ。とは言え、それも個人の自由。無理に止めさせるわけにもいかない。
だから牛飼は、ゼミ生のいない早朝や深夜を選んで創造的な仕事をすることにしている。日中は研究に専念するための雑務をこなす時間と割り切らなければ、気が散るばかりで無用なストレスを溜め込みかねないからだ。
また、早朝や深夜の大学には他にもメリットがある。人が少ないし、広い敷地面積を誇る大学の構内では、学外の騒音も届かないのだ。それは逆に、こちらがいくら音を出そうが、それが学外にまで影響することはほぼないということを意味する。好きな音楽を、好きなように鳴らせるのだ。
これが自宅のアパートで同じように大音響のジャズを鳴らそうものなら、すぐに苦情が殺到してしまう。言い換えれば、牛飼が趣味で自作したスピーカやアンプを設置し、かつその能力を余すところなく発揮させられるのは牛飼にとってこのゼミ室しかなかったのだ、とも言える。
実際、准教授になって一番うれしかったのは、ある程度自由になる空間を学内に手に入れられたことかも知れないと牛飼は思う。ゼミ生や院生の指導は面倒だと思うときもあるが、それは仕方のないこと。
将来は、誰にも邪魔されない辺鄙な田舎にでも引きこもって、好きなことをして、好きなものを楽しみながら過ごしたい。牛飼はそんな夢を抱いている。そして、それはいつかきっと叶うだろうと牛飼は考える。こんなに望んでいるのだから、手に入らないはずがない。世間では必ずしもそうではないようだが、牛飼にとって夢を持つということは目標を設定するということを意味し、決して叶わないままに望み続けることを意味しないのだ。
心地よいピアノとサックスのリズムを背に、机に置かれたマグの取っ手を指に引っ掛けて持ち上げ、シンクで軽く流してから珈琲を注ぎ入れる。それからスティックシュガーの頭を二本まとめて破り、マグに流し込む。かき混ぜるものはと辺りを見回し、まあいいかと目に付いたボールペンを使う。
「さて、やろうかな」
軽く独りごちて、椅子の背を引く。かけ声のようなものだが、これが言えるのも一人きりだから。他人の眼や耳があると何となくできない、ということは結構あるものだ。別に誰も気にすることはないのだし、他人がやったところで自分もそれを気にしないのに、と思ってくすりとする。
そんなことを考えていたからだろうか、自分の時間を邪魔する無粋なノックの音にも、そう気分を害することなく自然に対応できた。
「機織です。牛飼先生はいらっしゃいますか?」
「開いてます。どうぞ」
「失礼します」
ドアを開けてぺこりと頭を下げたのは、三回生の機織綾目だった。肩まで届く黒髪と整った顔立ち、そしてそれとなく高級さを感じさせる落ち着いた服装もあいまって、いかにもお嬢様然として見える。実際、いいところのご令嬢なのだと本人が冗談めかして語っていたのを聞いたことがある。
「こんな朝早くから、申し訳ありません。ただ、あまり人目のないところで見ていただきたいものがあったものですから……少しだけ、お時間を取っていただけないでしょうか?」
綾目は頬をわずかに上気させ、形の良い唇で笑みを形作りながらおっとりと喋る。それが、また様になっているのだ。客観的に見て、大変可愛らしく、そして高貴な生まれの者に特有の、少しだけ近寄り難い雰囲気を身にまとう女性だと牛飼は評価している。
「構いません。で、見せたいものって?」
「はい。これなのですが……」
そう言って綾目が鞄から取り出したのは、巻物でも収めるかのような細長い形の桐箱だった。箱書きはかなり崩れた書体で、一目見ただけでは何を書いてあるのか判別できない。彼女は特に何も説明することなく蓋を開けると、中に入っていた紙を取り出し、机の上にそれを広げていく。
「これが何か、お分かりになりますか?」
「…………」
まず目に入ったのは、絵図。丈夫そうな和紙の大半は、墨書きの絵で占められていた。複雑で精巧な木組みの手順や、鉄製の蝶番に錠前、金銀の細工による意匠案、加えて歯車、シャフト、カムなどの部品も見て取れる。それに添えられた説明書き、というよりメモのような文章の数々。そして、左下には朱印と花押。花押の方は読み取れないが、朱印からは〈絡繰久助〉の名が読み取れた。
「絡繰り(からくり)の図面だね。これはどうしたの?」
「はい、機織家の家宝なのです」
一つうなずいて、続く言葉を待つ。が、綾目はそれっきり何も言おうとせず、牛飼をじっと見つめている。
「……えっと、なぜこれを私に?」
「わたし、この絡繰りがどんな働きのものなのかを知りたいのです。けど、自分で調べてもよく分からなくて……機械工学の専門家で、歴史にも造詣が深い牛飼先生であれば何が書かれているのか分かるのでは、と考えたのです。先ほども、一目見てこれが絡繰りの設計図であることを看破されていましたよね? さすがです」
「いや、そんなことはないと思うけど……」
そもそも牛飼の専門は流体力学であり絡繰りとは何の関係もない。歴史の知識に至っては完全に趣味の領域であり、素人の域を出ない。だいたい、これが絡繰りの図面であることぐらいは専門家でなくとも分かる。
彼女は大げさに褒めてみせたが、それぐらいのことは彼女自身知っていたはず。単に、牛飼をおだてているのだ。それが誰にでも通用すると思ったら大間違いだよ、とは口にしないでおく。しかし、大抵の男は綾目に褒められて悪い気はしないだろうというのも事実である。だから、これも彼女なりの処世術なのだろうと思うと、微笑ましい気分になれる。
全部で十枚ほどある絵図を順番にめくっていく。どうやら、絡繰りの仕組みを説明する意図で作られたものらしい。肉厚のしっかりした和紙に痛みはほとんど見られず、これならきちんと保存すれば百年後にもそのまま残っているだろうと思われた。
「ざっと見た感じだけど、うん、これはすごい。どれくらい前のものなのかな?」
「正確には分かりませんが、百年以上前のものと聞いています」
「製作者の絡繰久助というのは?」
「少しお待ちくださいね」綾目はバッグから手帳を取り出すと、端を折ってあったページを開いて読み上げる。「祖父から聞いたものをメモしてあります。……本名は機織久助。わたしの先祖に当たる人で、安政元年、西暦一八五四年に指物師の家系に生まれ、長じてからは指物師の仕事をしながら様々な絡繰りを手掛け、天才絡繰師と呼ばれたのだとか。号である〈絡繰久助〉は明治二十一年、三十四歳の時に内国勧業博覧会へ作品を出展した際に、さる方よりお褒めの言葉と共に授かって名乗り始めたそうです」
「へえ。どんなものを出したの?」
「それが、タバコの〈自動販売機〉なのだそうです。……街中にも並んでいる、あれですよね。先生、自動販売機というのは、百年も前から存在したのですか?」
綾目は可愛く首を傾げて見せる。
「うん、自動販売機自体は、百年どころか二千年以上も昔から存在したよ。紀元前二一五年、ギリシャ人ヘロンが考案し、ローマ属州エジプトの神殿に置いた聖水の自動販売機が始まりとされているね」
「聖水……ですか?」
「そう。仕組み自体は、てこの原理を使ったシンプルなもの。硬貨を入れるとその重みで受け皿が沈み、硬貨が皿から滑り落ちるまでの間、弁が開いて聖水が流れ出る。制作の目的は、神殿の神秘性を演出しつつ、参拝者からお金を徴収することにあったと考えられている」
「なるほど……神社で、バイトの女の子が巫女装束をまとうようなものですね?」
「うん、的確な比喩だ」
牛飼が図面から目を上げて微笑むと、それを見た綾目も嬉しそうな笑みを浮かべる。
「それで、いかがですか?」
綾目は期待を込めた眼で牛飼を見上げる。
「そうだね……だいたい分かったかな」
「絡繰りの仕組みが分かったのですね!?」
両の掌を上品に組み合わせた綾目は、飛び上がらんばかりにして喜びを表してみせる。
「いや、分かったのは個々の絡繰りの仕掛けだけだよ。どうやらこれは、もっと大きな一つの絡繰りの部分部分を抜き出して、それぞれの仕組みを説明したもののようだね。おそらくは、設計図というより、発注者に対してのプレゼン用の資料だったのだろう」
「もっと大きな、一つの絡繰り、ですか?」
「そう。絡繰り箪笥というものを知っているかな?」
「タンスと言えば、衣服をしまう……」
綾目は先ほどとは逆の方向に首を傾げて言った。
「うん。だが絡繰り箪笥の目的は衣服の収納ではない。絡繰り箪笥とは、江戸時代に富裕層の間で愛好されたもので、泥棒除けに様々な絡繰りが仕込まれたタンスのことを言うんだ。金品や証文、印鑑その他の貴重品を保管するために用いられた」
「では、これは絡繰り箪笥の設計図なのですね?」
「断言はできないけど、多分。個々の絡繰りの仕組みを推定していくと、絡繰り箪笥のようなものを造ろうとしていたのではないかと思える、というだけ。全体を表した図面がない以上、断言はできない。ちなみに、図面はこれで全部?」
「いえ、門外不出とされているものが家にまだ沢山あります。ちなみに、それと関連して一つ面白い話があります。機織家には絡繰久助が最期に残したという言葉が残っているのですが……」
「ふうん。どんな言葉?」
「こうです。『絡繰久助の全ては箱の中に封じ入れ置いた。わしの夢を継がんとする者は箱の秘密を解いてみせよ。解けぬのならば、水に沈めるもまた良し』そして『一族以外の者が夢を継ぐも一興。比類なき美しさ誇りし橋を渡らんと高き塔より望むならば、箱より取り出した対価を支払うべし。その時こそ我が求めた夢の境地をお目にかけようではないか』と言ったのだとか」
「へえ……面白い人だったんだね」
牛飼の正直な感想に、綾目は口元をほころばせる。
「わたしも、その話を祖父から聞いたときにはいかにも天才、という気がしました。でも、当事者にとってはそんなに気楽な話でもなくて、当時は大騒ぎになったそうです。久助は箱の中に財宝を隠したんだとか、箱の中にはついに完成には至らなかった新しい絡繰りの技術を記した図面が残されているんだとか、いや実はこれは久助一流の冗談で、箱を開ける方法は存在せず、中には何も入っていないのだとか、色々と言われていたそうです」
「ん? ということは、その箱というものは結局開けられなかったの?」
綾目のために追加で淹れたコーヒーを手渡しながら問いを投げる。
「ええ、久助が最後に造り、そして未だ誰も開けることに成功していない箱があり、それが遺言に言われている箱なのだとされていますが、そもそも、あれを箱と呼んでいいものなのか……そもそも今の機織家には、図面をきちんと読み解ける人間がおらず、どの図面が問題の箱に関わるものなのかも定かではないのです」
今度は牛飼が首を傾げる番だった。
「……亡くなった当時、お弟子さんや他の絡繰師はその箱を開けようとしなかったの?」
綾目は首を横に振って見せる。
「久助は弟子を取らない人だったそうです。また、機織家が箱を他の絡繰師に見せることはありませんでした。それに久助の遺言に従うなら、出てきたものは箱を開けた人のもの、ということになりますから。それはできない、と当時の機織家は考えたのでしょう」
「なるほどね。でも、取り出せないものに何の意味がある?」
「さあ……正直に言えば、何が入っていたところで意味はない、というのがわたしの考えです。機織家はお金に困っているわけでもなければ、久助の絡繰師としての技術を今に伝えているわけでもありません。家業は旅館で、絡繰師の末裔としての名残は、久助が残した絡繰りを年に一度の祭りで上演するお役目として、名残を残しているだけですから」
だから、金品が入っていたところで無理に取り出す必要はないし、久助の絡繰師としての秘伝書のようなものが入っていたとしても、それを生かす術がない、ということだろう。その理屈はよく理解できたが、彼女のおっとりとした雰囲気に似合わない、意外な淡白さを孕ませた声に牛飼は少しだけ意表を突かれた。ゆっくりと一度、瞬きをする。
綾目はその瞬きを見て、牛飼の無言の問いを感じ取ったようだった。
「……父と母が」一呼吸おいて、綾目はゆっくりと切り出した。「結婚しろ、とわたしに言うんです。すみません、こんな話を突然に。でも、よければ聞いていただきたいんです。先生は、お嫌ではありませんか?」
「聞くだけなら、構わないよ。役に立てるかどうかは分からないけどね」
冷えかけたコーヒーをすすりながら牛飼が言うと、綾目はやや涙ぐんだ眼を細めて微笑んだ。
大抵の男はこれで落ちるだろうな、と感想を抱く。
「牛飼先生のそういうところ、好きです。とっても、クールで」彼女はぱちぱちと目をしばたたかせると、感情を切り替えるように笑顔を作る。「ええ、ではお話させていただきます。去年の暮れに帰省したときのことでした。父と母が、大学を卒業したら結婚しなさいと言うのです。相手は、江戸絡繰りで有名な一家の次男、ということでした。その方を機織家に婿入りさせて、箱の絡繰りを解かせようと言うのですね」
黙ってうなずいて、続きを促す。
「そもそもの発端は、わたしの曾祖父に当たる方が早逝したことに始まります。祖父が生まれて間もない頃に心臓の発作で亡くなったために、機織家の絡繰り制作技術はそこで途絶えてしまいました。どうしようもないことだったとは言え、父は、村の観光資源として絡繰りの技術を機織家に取り戻したいと願っているのです」
「図面のようなものは残っているのでは?」
「ええ、残っています。けれど、図面と言っても素人がそれを見て一から作れるほど詳細なものではありません。しかも、ほとんどは断片的なものしか残っていないのです。父も、独学で絡繰師を志した時期があったそうなのですが、結局は諦めざるを得なかったのだとか」
「……なるほど」
「それに、技術だけ取り戻したところで、どうなるでしょうか? 経営として成り立たなければ、結局は同じこと。過去の作品の再現に留まらず、新作を発明するくらいの才がなくては、芽はないのでは?」
「うん、それは道理だ」
確かに、絡繰久助の生きた時代と現代では、絡繰りを取り巻く環境は大きく変わってしまっている。古来、絡繰りは全く仕組みの分からない不思議なイリュージョンとして一般大衆の人気を博したが、現代ではそれは望みようもない。もっと他に楽しいものは沢山あるし、絡繰りにはタネも仕掛けもあるということを皆が知っているからだ。
例えば、江戸時代末期の傑作として有名な〈弓曳童子〉という絡繰りがある。牛飼は、これがキットとして一万円前後で市販されているのを見かけたことがある。キットの売りは、人形が弓を射るという不思議ではなく、それを実現する精巧な仕掛けの部分だった。この一点を見ても、評価の軸が、不思議さへの興味や感動から、精巧な工業製品に対するそれへとシフトしてしまっていることが分かる。
「ですから、わたし、ついタンカを切ってしまったのです」綾目は少しだけはにかむ様子を見せる。「卒業まであと一年。機織家の名誉にかけて、箱はそれまでにきっとわたしが開けてみせる。もし開けられなかったら、結婚でも何でもお父様とお母様の言う通りにいたします、って」
そう言って、牛飼の眼をじっと見つめる。
「えっと……それを私に言ってどうするの?」
「手伝って、いただけませんか?」綾目は両手の指先を揃えて、頭一つ低いところから牛飼の顔を見上げる。「自分でも、色々調べてみたんです。でも、正直に言えば手詰まりで……ぶしつけなお願いであることは重々承知ですが、牛飼先生の力を、ぜひお借りしたいのです。もし、箱が開いた暁には、ええ、ご迷惑でなければ、多少のお礼もさせて頂きます」
詰め寄りながら言い切った綾目を、一歩引いてかわす。
「……機織さん。君に、いくつか言っておかなくちゃならないことがある。まず、私は絡繰りの専門家ではない。そして、まだ私は問題の〈箱〉を目にしてはいない。付け加えるならば、私は部外者でもある。よって、箱を開ける力になれると断言はできない」
たっぷり三秒は静止した後、綾目は一歩引いた。
「先生がおっしゃる意味は分かります。わたしも話を性急に進めすぎましたこと、お詫び申し上げます。……では、こうしたらいかがでしょうか? わたしは、日頃のお礼として先生を実家の旅館にご招待いたします。〈箱〉のことは、余興の一つとでも思って見たままの素直な感想をいただければ、わたしとしては十分なのですから」
「……ふむ」
正直に言えば〈箱〉の実物は見てみたかった。一人の絡繰師がその人生の最後に残した一世一代の秘伝の絡繰り。それをこの目で見られる機会など、頼んだって得られないだろう。
「温泉もあります。食事も、ええ、お口に合うかどうかは分かりませんが、精一杯のおもてなしをさせていただきます」
その言葉が決め手だっただろうか。
「まあ……たまにはそういうのもいいかな」
そう口にしたことを、牛飼は後日、盛大に後悔することになるのだった。
一週間後。
祝日も含めた三日間の連休のスケジュールを、無理矢理に開けた牛飼は、綾目に連れられるままに電車に乗り、二度の乗り換えを経て無人駅のホームに降り立った。単線というものを見た経験は両手の指で数えられる牛飼である。駅周辺には田畑しかなく、民家はまばらだ。遠くには山が見える。
「……次はバスかな?」
「いえ、迎えが来るはずです」
綾目の言葉に呼応するように姿を現したのは、黒塗りのBMWだった。目の前に音もなく停車すると、運転席から白髪の老紳士といった雰囲気の人物が降り立ち、深々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お迎えが遅れましたこと、深くお詫び申し上げます」
老人は頭を上げると、牛飼の方をきっと見据えてきたので、思わず目礼を返す。
「牛飼先生、家令の久保です。久保、先生の荷物をお持ちしなさい」
前半と後半では、声のトーンが全く違っていた。
これがお嬢様というものか、と変に納得してしまう。
「久保と申します。お見知りおき下さいませ、牛飼様。荷物をお預かりいたします」
「あ、ええ、お願いいたします」
久保と名乗った老紳士は慇懃さを感じさせる仕草で二人の荷物を受け取ると、車のトランクに手早く積み込んでいく。牛飼の荷物の扱いが、綾目のそれに対するよりも心なしか乱雑に思えたのは気のせいか。
綾目は久保の手によってドアを開けられたBMWに乗り込み、ドアが閉じられる前に座席の反対側へ身体をずらす。それを見た久保はわずかに顔をしかめ、牛飼も車に乗るよう目で促してくる。肩をすくめたい気分に襲われるが、面倒なことになるのも嫌なので、それは我慢して黙って乗り込むことにする。
車内に音楽は流れていなかった。心地よく吹き上がるエンジン音と共に発進してしばらくすると、牛飼は肘をつつかれて綾目の方を見た。彼女は久保の目につかないように一度だけウィンクすると、後は取り澄ました表情を作り直して、じっと前を見据えている。
意味は分からないが、言いたいことは何となく分かった。こういうときは、大人しくしているに限る。上品であることとは、分かったような振りをすること、なのだから。
会話のない車中で見るでもなく窓の外を眺めていると、目に留まるものがあった。最初に目に入ったのは水車だ。併設された建物は舞台のように屋外に向かって解放された造りになっており、近づくにつれてあちこちに施された彫刻による装飾が見て取れるようになる。水車も例外ではなく、摩耗しつつも竜を象ったのだと分かる彫刻が輪状に施され、水に出たり入ったりしている。明らかに、観る者の眼を意識した造りだ。
何のための施設なのか、近くでじっくり観察してみたかった。
「あれは、水からくりの舞台です。明日、ご案内いたしますわ」
牛飼の視線を読んだかのように、綾目が言う。
ほどなくして、車は電動の門扉を抜け、ロータリで停車した。駐車場は塀の外で、ガレージらしき建物もそこにあったことから考えると、この車寄せは後から作ったものらしい。純和風、総二階の古風な旅館は佇まいがよく、十分に手入れされた庭と相まって落ち着いた雰囲気を醸し出している。目に付く範囲に宿泊客の姿がないのも好ましい。
牛飼は車から降りてトランクから荷物を出そうとしたが、走り出てきた使用人らしき男性に押し留められてしまう。綾目がそれに目もくれず、こちらです、と言い残して屋内へ入ってしまうので、仕方なくそれに続く。荷物はどうするのかと聞いてみたが、後で運び込ませます、との答えが返ってくる。
廊下を抜けると、つやつやと光り輝くまで磨かれた縁側に面した枯山水が目に飛び込んできた。何と呼ぶのか知らないが、熊手のような道具で砂利に線を描く作務衣姿の老人が一人、こちらに背を向けて立っている。
「おじいさま!」
綾目の声に振り向いた老人は、彼女を見て顔をほころばせた。
「綾目か。よく帰ったな。元気でやっておるかね」
「はい。おじいさまもお元気そうで」
「おう。何もやらんと身体が鈍るでな。こうして庭男の真似事などしておる。して、そちらの方はどなたかな」
「大学でお世話になっている、牛飼先生です」
「ほう、大学の先生。して、先生は綾目とどのような関係でいらっしゃるかな?」
「綾目さん……お孫さんは、私の研究室に所属していて、学業面では大変優秀な成績を収めていらっしゃり……」
言葉は途中で遮られた。
「そういう表面的なことを聞いておるのではない。貴方は綾目を好いておるのか、と問うておるのです」
柔和な笑顔は消え、冷徹さを感じさせる無表情が牛飼を捉える。
「えっと、私は……」
「おじいさま! 牛飼先生は、そのような……」
懐深くまで斬り込まれたような気分に襲われ、言葉に詰まる。
綾目も、途中まで言いかけたものの言葉を継げずにいる。
しかし沈黙は、長くは続かなかった。
じっと牛飼の顔を見ていた老人は、ぴくりと眉を震わせると、今度は眉根を寄せ、さらに牛飼の顔を観察していたかと思うと、急に破顔した。
「ふむ、なるほどそういうことであったか。これは失礼した。歳を食うと、目が悪くなっていかん。いや、目のせいにしてはいかん。要は、思い込みが激しくなるのですな。年寄りの戯言と思うて、忘れて下されよ」
「いえ、何も失礼は受けておりません」
牛飼がそう言って笑みを浮かべると、老人は呵々大笑した。
「申し遅れた。私は綾目の祖父で機織鶴翔と申す者。孫が世話になっておるせめてもの礼。自分の家と思うて、気兼ねなくくつろいでゆかれるとよい」
「ありがとうございます」
「先生には離れを使っていただこうと考えております、おじいさま」
「よかろう。うちの者にはわしから命じておこう。それとな、綾目。……わしには最近の若い者の恋愛観は分からんが、わしは、何があろうともお前の味方だ。お前の、好きなようにするといい」
「はい、おじいさま。それでは後ほど」
鶴翔老人は重々しくうなずくと、そのまま庭の手入れに戻ってしまう。
「では、行きましょうか、先生」
振り向いた綾目は、にこやかな笑顔を浮かべていた。
離れと聞いて牛飼が想像したのは四畳半程度の規模だったが、部屋は優に十畳はあった。
「離れって言うから、茶室みたいなところかと思った」
「茶室もあります。ご案内しましょうか?」
「えっと、いや、別にいいよ」
冗談半分で言ったのに、普通に返されてしまった。
「離れの方が、気楽でいいかと……お気に召しませんでしたか?」
「いや、できるだけ人の気配がしないのが好み」
「ええ、そうだと思いました。今日は、ゆっくりお休みになって下さい。夕食の時間になったら、またお伺いします。温泉に入られるのでしたら、旅館の方へお越し下さいね。うちの者に言いつけて下されば分かります」
「うん。ありがとう」
綾目が立ち去るのを待って、鞄から本を取り出す。専門書が一冊と、小説が何冊か。全部、趣味の品だ。ページを開き、挟んであったしおりを抜き取る。旅先に出てまで仕事をする事の愚かさといったらない。後で苦労することになったとしても、旅先では絶対に仕事をしないと決めている牛飼である。そのまま、本の世界に没入していく。
外から声をかけられて、ふと外が暗くなっていることに気付いた。旅館に着いたのは夕方だったが、本を持つ手を返して腕時計を確認したところ、それから二時間ほどが経過しているようだった。
「先生? そろそろお食事はいかがですか?」
開かれた障子の隙間から、きちんと床に膝をついた綾目が顔を出す。
「うん……そうだね」
返事をしながら、脳を読書モードから対人モードへと切り替える。
「えっと、どこへ行けばいいのかな」
「いえ、ここへ運ばせます」
「え、いいの?」
「はい。先生は大切なお客様ですから」
綾目が軽く手を打ち鳴らすと、数人の女性が手早く食事を整えてくれる。だが、牛飼はそれを見て首を傾げた。
「え? 二つ?」
「私もここでいただきます。いけませんか?」
綾目はおどけるように軽く頬を膨らませてみせる。
「あ、いや、もちろん構わないよ。けど、ご家族はいいの?」
「いいんです。おじいさまも、父も母も、いつも別々ですから。あ、でも、別に仲が悪いというわけではないのです。ただ、そういう家風というだけで」
「ふうん。家風、ね」
食事は、大変豪勢なものだった。何となく歓迎されていない雰囲気から、もてなしには期待できないのでは、という予想はいい意味で裏切られた形となる。まあ、綾目がいるところで粗略な扱いはできない、というだけかも知れないが、牛飼としては別に粗末な食事でも全く構わなかった。大学では普段、まともな食事をとる方が珍しいくらいなのだ。
「ああ、これ、おいしいね。おいしい、以外の感想が出てこないけど」
「食べ物は、おいしい、というだけでいいんだと思います」
「うん、それは真理だ」
見慣れない野菜の天ぷらや、川魚のあらいや塩焼きは地元で取れたものなのだろう。非常に美味だった。逆に、どこから運んできたのだろうエビの天ぷらやマグロの刺身などは、ごくごく平凡な味でしかない。
「海のものはおいしくないでしょう、先生? でも、地元の人たちにはこの方が喜ばれるんです。おいしくても食べ慣れたものよりは、普段口にすることのないエビやマグロという名前が喜ばれるんですね」
「へえ。そういうものなのかな」
「でも、そうやって妥協して、おいしくないものを出していれば、結局は……」
綾目は途中まで言いかけるが、思い直したように口をつぐんでしまう。
「いえ、これは先生にお話しするようなことではありませんね。忘れて下さい」
そう言って、そのまま話題を変える。
「昼間にお約束しました通り、明日は村の中に残る絡繰り久助の遺作をご案内します。その後に、例の箱も見ていただければと思うのですが……」
「うん、君に任せるよ」
「はい、お任せあれ」
にこりと笑ってみせた顔に、先ほど感じさせた屈託は全く見られなかった。見事な抑制。これは、彼女の美質の一つと言えるだろう。牛飼は、そんな彼女がとても好ましいと、そう思った。
翌朝は、七時に目が覚めた。布団の中でぼんやりしながら自分のいる場所をゆっくりと認識し、ここではコーヒーが飲めないことに気付いて舌打ちする。
「お目覚めですか、先生?」
障子越しに、綾目の声が聞こえてきたが、返事をする気にならない。
「…………」
「先生?」
「……うん」
「朝食は、ご飯とトースト、どちらにいたしましょうか?」
「…………」
「……トーストと、コーヒーを淹れて、お持ちしますね」
「……コーヒー、あるの?」
「それくらい、ありますよ」
「ごめん、お願い……」
そのまま眠りに落ちそうになったので、無理にも起き上がることにする。身体を起こした状態でしばらく固まっていると、綾目が再び障子の向こうに現れた。
「先生、入りますね」
彼女の持つお盆の上には、トーストの乗った皿が二枚と、湯気を立てるコーヒーの入ったカップが二つ乗っていた。その匂いを嗅いで、ようやく少しだけ頭がはっきりとしてくる。
「バター、要りますか?」
「……要らない」
「朝、弱いんですね?」
「……幻滅した?」
「いいえ、とってもキュートだと思います」
「…………そう」
それっきり、二人とも黙り込んだまま黙々とトーストをかじり、コーヒーをすする。
九時に出発する、と言い残して部屋を去る綾目を見送り、牛飼も準備にかかる。と言っても、顔を洗って着替えるだけなので十五分もかからない。それから三十分ほどして綾目が再び姿を現したが、白のワンピースにつば広の帽子という出で立ちはどこのお嬢様かと問いかけたくなるようなものだった。実際、彼女はお嬢様なのだが、こういった服装や言葉遣いは狙ってやっている節もある。
「お待たせしました」
「じゃ、行こうか」
「腕を組んでもいいですか、先生?」
「人目があるよ」
「あ、そういう反応なんですね、嬉しい! もちろん、冗談ですよ」
「……そう」
何を喜んでいるのかは分からないが、本人が喜んでいるのだから構わないだろう。
旅館の前のロータリまで来ると、そこには赤いフィアットが停められていた。昨日のように運転手がいるのかと思って窓から覗き込むが、運転席に人の姿はない。
「さあ、乗って下さい」
「え、君が運転するの?」
「はい」
何か問題でも、という笑みを向けられてしまう。
仕方がないので、自分でドアを開けて助手席に乗り込む。
「ああ、先生と二人きりでドライブなんてどきどきしますね」
「うん……まあ、そうだね」
幸い、危惧したようなことは起こらなかった。
牛飼の感覚ではややスピードが出過ぎているような気はしたが、田舎はこんなものなのだろうか。口は出さずにおく。
村の中を走る農道を走り抜け、昨日通りかかった建物のすぐ側に車を停める。綾目の話では水からくりの舞台とのことだったが、今は舞台上には背景だけがあり、絡繰りの姿は見えない。
「こっちです」
綾目が向かったのは、建物の脇だった。そこでは、数人の男たちが水車を前にして話し合っていた。
「ご苦労さまです。調子はいかがですか?」
「おお、機織のお嬢様! 帰っとらっせるとは聞いとったけども、こんなところへどうされた?」
「こちらの牛飼教授は、大学で絡繰りの研究をしていらっしゃいます。ぜひ水からくりをご覧になりたいとおっしゃるのでお連れしたのですが、お邪魔ではありませんでしたか?」
普段よりもおっとりとした喋りの綾目が笑顔を浮かべてみせると、男たちは綾目と牛飼の間で視線を往復させる。
「ほう、大学のえらい先生かね……そりゃまた」
そこで言葉を途切らせ、お互いに顔を見合わせ黙ってしまう。
ここは、綾目に合わせておいた方が無難だろうか。
「牛飼と申します。ご迷惑かとは思いましたが、機織さんのお言葉に甘えて見学に伺いました。絡繰りの機構を、拝見させていただいてもよろしいでしょうか? もちろん、勝手に写真を撮影したり、仕組みについて無断で発表したりといったことはいたしません。今回の見学は、あくまで純粋な好奇心からのものとお考えいただければと思います」
「いや、絡繰りは機織さんとこのもんだから、お嬢さんがいいと言っとらっせるなら、わしらは構わんけども……」
「では、中を見せていただきますね」
「あ、でしたら、案内を」
「必要ありません。私も、機織家の者なのですよ?」
「ああ、いや、こりゃ、失礼を……」
「いいえ、何も失礼など受けておりませんわ」
綾目がそう言って微笑むと、案内を申し出た男は恐縮しきった様子で頭を下げる。
「では、参りましょう」
引き戸を開けて中に入ると、意外に広い空間に出る。
まず目に入ったのは、大量の歯車。
おそらく外の水車を動力として動いているのだろう木造の巨大な歯車たちは、シャフトを通じて天井へと力を伝えている。外から見た建物の構造から考えて、舞台の辺りだ。要所に組み込まれたカムにより、シャフトは回転と停止を繰り返している。
「明日のお祭りでは舞台上に人形が設置され、それらは水車を動力として様々な題材を演じるのです。歯車の切り替えや入れ替えにより、複雑な動きを実現したり、複数の題材を演じ分けることが可能です。絡繰り久助、中期の傑作と名高い作品の一つです」
横で説明する綾目の声を聞きながら、牛飼は歯車の動きにじっと見入っていた。歯車は、大きいものでは牛飼が両手を広げたほどもあり、それらがゆっくりと確実に動く力強い様子は、それだけで牛飼の胸に訴えかけるものを持っていた。
「もっと、近くで見ても?」
「ええ、構いません。ですが危ないので、巻き込まれないように気を付けて下さい」
「うん、分かった」
水車の動力を直結できるよう、半地下になった部屋へと階段を降りる。鑑賞に堪えるように装飾が施された水車とは異なり、歯車の機構には一切の無駄がないということが近づくほどに分かる。
「ああ、なるほど、ここで系統を切り替えるのか……」
「はい。たった一つの歯車の入れ替えで全部の動きが変わるんです。不思議ですよね」
不思議ではない。それはちゃんとした計算の結果だ。しかし、綾目が不思議だという気持ちも何となく分かるので、何も言わずにおく。精巧な機械は、それが駆動する様子だけでも人にある種の感動を与えうるのだということを教えるいい実例だ。
「全部で三つの系統があり、水からくりの上演に使う系統は二十年ごとに切り替える決まりになっています。もちろん、保守のために残りの二系統も年に数回だけ動かしはしますが、上演に使われるのはあくまで一種類です。ちょうど、今年は切り替えの年に当たりますね」
二十年に一度切り替えるのだとすれば、演舞が一周するまでには六十年かかる。現代ならばともかく、久助の生きた時代ならば、子供のころに見た演舞を再び見られるかどうか、といった設定だ。
製作者の死後、なお新しくなり続ける絡繰り演舞。非常にユニークな発想だと評価できる。これもまた、久助の天才性を表すエピソードと言えるだろう。
そしてよく見れば、歯車の中には比較的時代が新しいと思われるものが混じっている。全体的には、小さい歯車の方がより新しいものである割合が高い。部品が小さいほど、消耗は早くなるからだ。
「すごいね。絡繰りそれ自体もそうだけれど、それを受け継いできた人たちの努力が素晴らしい。消耗した部品の修繕や新調だけでも、大したものだ。これだけ複雑な機構になると、かなり精度の高い工作をしないといけないはず」
「はい、機織家では最後の絡繰師だった曾祖父の仕事だと聞いています」
「そうか……亡くなられたということだったね」
「ええ、修理できる人はもう村には一人もいませんから、このままでは、わたしが家を継ぐころには水からくりは見られなくなるのかも知れません」
綾目は無表情に言う。淡々とした態度からは、感情が読み取れない。
「さあ、行きましょう、先生。久助の残したものは、これ以外にも色々ありますから」
車に乗って水からくりの舞台を離れ、向かった先は高台にある神社だった。
優に百段はありそうな石積みの階段を上りきると、小さな村としてはかなり立派な神社が姿を現す。後ろを振り返ると、村の様子が一望できた。
「ここに?」
「ええ、こちらです」
綾目に先導されて着いたのは、手水舎だった。そこには通常の神社にあるような水盤と柄杓に加え、陶製の奇妙な置物があった。壺のような形をしたそれは、上部に硬貨を入れるとおぼしき穴が開き、下部には口を開いた立体的な龍の彫刻が彫られている。
ハンドバッグから財布を取り出した綾目は、五百円玉をそこへ入れる。
すると、龍の口から水が流れ出した。
綾目は柄杓でその水を受けると、手と口を清める。
「どうです? 面白くありませんか? 金額によって、出てくる水の量が違うんですよ」
「これは……ヘロンの自動販売機だね」
「ええ。先日、先生のお話を聞いてこれを思い出したんです。それで、ぜひ実物を見ていただきたくって。驚いていただけましたか?」
「うん、驚いたよ。名前と仕組みは知ってたけど、実際に動いているものをみるのは初めてだ。へえ……きっと、久助も聖水の自動販売機の話を聞いて、これを作ったんだろうね」
「はい、そうだと思います。それに、ただ機能をコピーしただけじゃなくて、久助は独自の工夫も凝らしているんです」
綾目はそう言うと、今度は財布から数枚の十円を取り出し、続けざまに投入口へ入れる。
龍の口からは、一瞬だけ水が出て、そしてすぐに止まってしまう。
「へえ?」
「ズルをして、何枚も硬貨を入れると水が止まってしまうんです」
一枚だけ入れると正常に動くが、複数枚を同時に入れるとそれを感知し、水を止める仕組み。製作当時の技術で、そんなことが可能だっただろうか。いや、不可能だ。一瞬の思考でそう結論し、思考の方向性を切り替える。
どうやって硬貨の枚数を感知しているか、ではなく。どうやったら複数枚を同時に入れた場合に水を止められるのか、を考えればいいのだ。
「……なるほどね。多分、一定以上の重さになると、天秤の皿から硬貨が滑り落ちるようになっているんだ」
「すごい技術ですよね。いったい中はどんな構造になっているんでしょう」
そう、そこだ。仕掛けのタネは推測できても、実際にどうなっているのかを確かめるにはこの陶製の自動販売機を割ってしまわなければならない。限られた技術でそうした繊細な仕組みを実現させる久助の技術の高さが理解できる者であればあるほど、これを割るなどというのがどれだけとんでもないことなのか、肌で理解できてしまう。
中を見たい。しかし、見てしまえば二度と元に戻すことはできない。
牛飼は思う。
久助は、天才だ。
まさしく、絡繰り久助と呼ばれるにふさわしい。
「手水の自動販売機のような小さいものから、水からくりのような大仕掛けのものまで、多才な人物だったんでしょうね。そうそう、この神社の石積みも、全部久助が手掛けたものなんだそうですよ。他にも、高いところから見ると久助の残した石積みがいくつか見えますね。ほら、先生、あれや、あっちの川の側のものもそうです」
神社を取り巻く石段の上に立った綾目が、次々に指さしていく。
それらを見るでもなしに周囲の眺めを楽しんでいると、ふと目に付くものがあった。
「あの、石の塔はなに?」
「え?」
「ほら、村の外れにある」
村の中心を流れる川を上流へとたどっていった先にある、石造りの塔のようなもの。川の側に立ち並ぶ木々の上から頭を出していることから考えると、かなり高く積まれている。十五メートルほどだろうか。
「ああ、あれもかなり古いものですね。大雨や台風で川が増水すると危ないので、それをいち早く知らせるための監視塔、と言われていますが、どうなのでしょうね、あんなに近くて意味はあるのでしょうか? 元々は木製の粗末な見張り台だったのを、久助が強化したそうで、わざわざ壊すのももったいないのでそのまま残してあるそうですよ」
「わざわざ、それだけのためにあんな立派なものを?」
思わず、驚きを声ににじませてしまう。
ここから見えるということは、それなりの高さだ。それぐらいの高さにしなければ見張り台の意味を成さないとも言えるが、そもそも石造りである必然性がない。あれだけの規模の石積みをしようと思ったら、個人では賄いきれないほどの巨額の資金を要したはず。どうしても必要なので村でお金を出し合うにしても、木造にして、適宜補修する方法を取った方がずっと楽だったはずだ。
「何か、石造りである必然性が?」
「さ、さあ……わたしは、何も聞いていませんけど……」
何となく、違和感があった。
久助は、絡繰師だ。
そして絡繰師とは、すなわち技術者、エンジニアなのだ。
技術者である久助が、意味もなくあんなことをするだろうか。
しかし、どう考えても石造りである理由が見い出せない。
もちろん、村から離れた場所でメンテナンスが行き届かないことを考えれば、石造りの方が丈夫でいいという考え方はある。しかし、当時は重機もなければ、開かれた道もなかったのだ。全て人力で石を運び上げたのだとすれば、相当の労力と資金があの見張り台にかけられたことは間違いがない。その場で周りの木々を切り倒して組み上げた場合と比べれば、雲泥の差だろう。
「あの、先生?」
考え込む牛飼に、綾目が控えめな声をかけてくる。
「そろそろお昼ですし、一度戻りませんか?」
綾目の声、そして顔が、ふっと意識に入ってくる。
いつの間にか、考え込んでいたらしい。
どのくらい時間が経ったのか、その間ずっと無視されていた格好になる綾目は、少しだけ不機嫌そうな表情になっていた。手首を返して腕時計を見ると、綾目の言う通り、昼飯時と言ってもいい時刻だった。
「ああ……そうだね。降りよう」
「はい」
長い石段を降り、綾目の運転で旅館へと戻る。離れに二人分用意された昼食は、昨日の夕食から想像していたものよりもシンプルなもので、少しだけほっとする。あんまり豪華なものが続くと、胸やけを起こしそうだったからだ。
綾目は食事を終えると、午後からは用事があると言ってどこかへ行ってしまう。牛飼としては綾目がいないと勝手が分からないので、そのまま温泉に入ったり、本を読んだりして過ごすことにする。明日が祭りだからなのか、人々は皆忙しそうにしていて、牛飼を構わずにいておいてくれるのはありがたかった。綾目がいないからなのか控えめな豪華さの夕食を終えると、そのまま早めに床に就く。
明日は、水からくりの実物が見られるはずだ。綾目には悪いが、久助の遺した箱よりも、こちらの方が楽しみだった。
そして祭りの当日。牛飼は、夜明けと共に鳴った爆発音で目を覚ました。びっくりして飛び起きるが、続けて鳴らされた音をよく聞けば、それが花火によるものであることが分かった。連想したのは、小学校の頃の運動会だ。おそらく、祭りの開催を知らせる花火なのだ。
案の定、そう時を置かずに障子を開いて姿を現したのは、行灯を手にした綾目だった。行灯とはいっても、電球式なのでちらつきもなければ光量も大きいものではあるが、旅館ともなると雰囲気が大事、ということなのだろう。
「……おはよう」
「おはようございます、先生。朝早くから申し訳ありませんが、祭りの当日で皆が忙しくしている今がチャンスです。箱をお見せしますので、ついてきていただけますか?」
「ん……分かった。十分だけ待ってくれる?」
最低限の身だしなみを整え、綾目の後を追う。連れて行かれた先は、蔵のようだった。
「この中に?」
辺りはまだ暗い。自然と、小声になってしまう。綾目は黙ってうなずくと、和服のたもとから鍵を取り出し、重厚な錠前に差し込む。がちりと音を立てて外れたそれを脇に置き、鉄製の取っ手を持って扉を引き開ける。
静かに開けたつもりでも、音は意外に大きく響いた。誰かに気付かれはしないかと、無性にどきどきする。
行灯を手にした綾目が、扉の隙間からするりと中へ入っていく。ふわりと漂う香の匂いを追って、牛飼もそれに続く。
「見えますか? あれです」
大小の木箱が並ぶ通路の一番奥、一段高くなっているとおぼしき場所にぽつんと置かれたそれが、高く掲げた行灯に照らし出される。
最初に抱いたイメージは、太鼓橋だった。横から見ると全幅で一メートル余り、幅三十センチほどの太さで優雅なアーチを描くそれに綾目の先導で近づき、よく観察する。欄干めいた彫刻が成されていることから、やはり橋をイメージして製作されたのだと推測できる。
奥行きも三十センチ弱あり、最上部には幅十センチ、奥行き一センチほどのスリットが入っている。綾目の持つ行灯を頼りに中を覗き込んでみるが、暗くて何も見えなかった。
「スリットはかなり深くなっています。昼間でも、箱の中を覗き見ることは不可能です」
綾目の説明にうなずき、他の部分も見ていく。どうやら箱は一枚板をくりぬいて作ったものらしく、継ぎ目は全くない。久助がこの箱に何かを仕込んだのだとすれば、蔵の床と接している足の部分だろうか。
そう考えて、箱に手をかけて傾けてみようとした牛飼は、それがびくともしないことに、そしてよく見れば床板と一体となっていることに、ようやく気付いた。
「え? もしかして」
「はい。この部分……箱と、箱に接するここの床板だけは、一本の大木からくりぬかれたものなのです。父が床下に人を潜らせて確認させたこともありますから、間違いありません」
中に絡繰りを仕込んだ後に箱を塞ぐのは不可能、ということだ。
「ということは、ボトルシップの要領だね」
ビンの口から差し込んだピンセットで帆船模型を組み立てるように。
上部に開けられたスリットから工具や材料を差し込み、全ての工程を行ったのだ。
「ええ、そうだと思います。すごい技術ですよね……」
確認のため、箱のあちこちを叩いてみる。
感触から見て、中はほぼ空洞になっているはずだった。
「うん、このスリットから中を綺麗にくりぬく手間だけでも、気が遠くなりそうだ」
なるほど、これは難物だった。
中を確かめるためには、製作者である絡繰り久助の意図を読み解くか、完全に箱を壊してしまうかしかない。当然、機織家が後者の方法を取ることはない。何しろ、不世出の天才絡繰師、機織久助の遺作なのだ。その価値は計り知れず、直接の子孫である機織家にとっては何にも代えがたい宝だろう。
「何か、分かりますか?」
「…………」
研究室で綾目から聞いた、久助の言葉を思い返す。
『絡繰久助の全ては箱の中に封じ入れ置いた。わしの夢を継がんとする者は箱の秘密を解いてみせよ。解けぬのならば、水に沈めるもまた良し』
もう一つ、
『一族以外の者が夢を継ぐも一興。比類なき美しさ誇りし橋を渡らんと高き塔より望むならば、箱より取り出した対価を支払うべし。その時こそ我が求めた夢の境地をお目にかけようではないか』
確か、この二つだ。
久助の言う箱が、牛飼の前にあるこの橋形の箱であることは間違いないように思われた。二つ目の文言にある遥かなる橋とは、おそらくこの箱を指すのだ。久助は、この箱の謎を解いたものこそが自身の夢を継ぐ者であると言っている。それは裏を返せば、謎を解けないのなら血縁であろうとも『絡繰師』としての後継者とは認めない、ということも意味する。
であれば、この箱は何かしらの合理的な方法によって中に収められた何かが取り出せるのだ。ここまで見てきた久助の遺作は、職人としての誠実さがひしひしと伝わってくるものばかりだった。そんな彼が残した最後の作品が、単に人をおちょくる目的で作られたなどあり得ない。
久助は、この箱に何を仕掛け、何を封じ入れたのか。
軽く目蓋を閉じて、久助になったつもりで考える。
自分なら、いかにして一つの箱に自身の持てる技術を注ぎ込むか。
自身の人生をかけて追った夢をその中に封じ入れるのだから、万が一にも謎が偶然に解かれるようなことがあってはならない。単に仕掛けることを考えれば、一枚板の構造にしたり、床板と一体化させる必要はないのだ。
逆に考えれば、一枚板でなかったり、箱が独立して動かせるようであれば成り立たない仕掛けを考えればいいのではないか。
「ああ……」
牛飼は、止めていた息をゆっくりと吐き出した。
訪れたのは、予感のようなものだ。
それは、研究している最中に訪れるそれと同質のもの。
後は答えを手繰り寄せればいいという確信。
それだけが、先にある。
人に説明できる形で論理が整うのは、それからだ。
「分かったのですね、先生」
綾目が、ひどく真剣な顔で牛飼の瞳を見つめる。
「外に出ようか。煙草が吸いたくなった」
蔵の外へ出て、シガレットケースから取り出した煙草に火をつける。たまにしか吸わないが、こういう時は無性に吸いたくなるのだ。
大きく息を吸い込み、吐き出した紫煙が曙光を受けて立ち昇っていくのを目で追っていると、綾目がじっとこちらを見ているのに気付く。
そして、もう一つ。
牛飼は、自分が一つミスをしたことに、答えにたどり着いたことを綾目に悟らせてしまったことにようやく気付いた。
「…………」
「先生、答えが分かったのですよね? もったいぶらずに教えて下さい」
答えていいのだろうか、と迷う。
自分は機織家の人間ではなく、絡繰師でさえない。
牛飼は自分が出した答えにほぼ確信を持っているが、実際に試せるかと聞かれたら躊躇するだろうことも確信する。牛飼が考えた箱の謎を解くための手法は、不可逆的かつ侵襲的なものであり、もし誤りであった場合には取り返しのつかない事態を招く可能性が高い。
しかし牛飼を信じる綾目は、それを実行するだろう。
仮にそれで失敗し、箱を損なった場合、機織家における綾目の立場は非常に悪いものとなる。
軽々しく、話すわけにはいかなかった。
牛飼のそんな感情を顔色から読み取ったのだろう。
「教えて、いただけないのですね?」
綾目の言葉は問いではなく、確認だった。
牛飼は、黙ってうなずく。
「分かりました。自分で考えます。けど、いくつか質問させて下さい」
「うん……いいよ」
これは、機織家の人間が自力でたどり着き、そして実行することに意味があるのだ。綾目自身が牛飼と同じ考えにたどり着くのなら、その答えが正解である確率は高まるし、綾目にとっても様々な意味で意義のあることとなる。
「わたしの持っている情報は、先生のたどり着いた答えを導き出すに足るものなのでしょうか? 私が知らず、先生は知っている、未知の情報は存在するのでしょうか?」
「存在しない。材料は出揃っている」
「久助が遺言で指定した箱とは間違いなくこの箱であり、そして謎を解く鍵はやはり、遺言の中にあるのですね?」
「そう、その通りだ」
「何度も読み返しているうちに、すっかり覚えてしまいました。『絡繰久助の全ては箱の中に封じ入れ置いた。わしの夢を継がんとする者は箱の秘密を解いてみせよ。解けぬのならば、水に沈めるもまた良し』そして『一族以外の者が夢を継ぐも一興。比類なき美しさ誇りし橋を渡らんと高き塔より望むならば、箱より取り出した対価を支払うべし。その時こそ我が求めた夢の境地をお目にかけようではないか』……この二つで合っていますよね」
軽くうなずき、間違っていないことを示してやる。
綾目は軽くうつむき、目を細める。
おそらく、それが彼女にとって最も集中できる状態なのだ。
「……以前から、不思議に思っていたんです。一つ目の言葉の最後、解けぬのならば、水に沈めるもまたよし、という下り。日本語の言い回しとしてはやや不自然だし、いかにも唐突です。そもそも久助が得意としたのは水からくりや手水の自動販売機など、水に関わるものが多い。そんな彼が、水をネガティブなものとして扱うでしょうか?」
問いではなく、つぶやくような調子で綾目が言う。
「解けぬのならば、水に沈めるもまたよし。解けないのなら、闇に葬って忘れてしまえという意味ではない? それなら……ええ、きっと、そう。これは、久助が子孫に宛てた、アドバイス……?」
綾目は、もう牛飼の顔を見ようとはしない。うなずいてやりたくなるのをぐっと我慢し、彼女の言葉を待つ。
「そうか……分かりました」
ふっと上げられた顔は、半ば放心しているようにも見えた。
「水に、沈めるのですね?」
答えにたどり着いた綾目の反応は、素早かった。母屋に取って返すと、水で満たしたヤカンを二つ提げて戻ってきた。
正解かどうかは分からない、家族の意見を聞くべきだ、との牛飼の意見を振り切り、上部のスリットから水を注ぎ入れていく。もう、後戻りはできない。二つ分を注ぎ入れても足りないと見るや、また水を汲みに行ってしまう。
仕方がないのでその後を追い、牛飼自身も両手にヤカンを提げて蔵へと戻る。それら全部を流し込み、おおよそ木箱の容積を満たしたのではないかというところで、箱に変化が現れる。
スリットから姿を現したのは、円形の物体の、頭の部分だった。スリットにぴったり収まる大きさのそれを、綾目が指でつまんでそっと抜き取る。おそらく、浮力の強いものを台座に使って、普通ならば水に沈んでしまう重い物を持ち上げているのだ。
「これは……」
直径十センチ、厚さ一センチほどの真鍮製の円盤には、凝った装飾と「一橋」という文字が彫り込まれている。裏返してみると、そちらには「値千金」という文字が浮き彫りになっていた。
「硬貨?」
もちろんこんな硬貨は正式には存在しないだろうが、意匠は明らかに硬貨を意識したものであり、サイズは大きいが二人とも硬貨として認識したのだから、硬貨と呼ぶのがふさわしいのだろう。
二人で硬貨をためつすがめつしていると、箱の方にも変化が起きる。何かの外れるような音と共に、細い管を水が抜けていくあの独特な音が鳴り出したのだ。
「水が抜けてます!」
綾目は驚いたような顔をするが、すぐに首を傾げる。
「でも、どこから? 水が抜けるような穴はないはずなのに」
「……おそらく、床板の裏だ。箱とは離れた場所に、節穴とかはなかった? そこから箱の中まで管が入っていて、硬貨が架台から外されたことで弁が開く仕組みになってたんだと思う」
「では、水が抜けたあとに硬貨を元に戻せば?」
「最初の状態に戻るはずだ。絡繰り久助ともあろう者が、それが可能なのにしようとしないはずがない」
「わたし……感動しました」
綾目の眼は、心なしかうるんでいるようにも見えた。
しかし、牛飼は首を横に振って返す。
「いや、それはまだ早い」
「え?」
「久助の遺言には続きがある。まだこれで終わりじゃないはずだ」
牛飼は、久助の絡繰り技術を目の当たりにしたことで軽い興奮状態にあると自覚する。仮にこの先が分からなかったとしても硬貨を元あった場所に戻せるということが分かったこともあり、綾目と共に最後まで謎を解いてみたいという気持ちが湧き上がってくるのを押さえられない。
ここからは、牛飼にとっても未知の部分だ。
『一族以外の者が夢を継ぐも一興。比類なき美しさ誇りし橋を渡らんと高き塔より望むならば、箱より取り出した対価を支払うべし。その時こそ我が求めた夢の境地をお目にかけようではないか』
一つ目の言葉が箱を水に沈めることを暗示したものであるなら、二つ目の言葉にも何らかの謎が隠されていると見るべきだった。
最初に目につくのは、やはり「比類なき美しさ誇りし橋」という部分だろうか。これは今しがた硬貨を取り出した橋形の箱を指しているとも取れる。しかし、本当にそれだけなのか。牛飼が発した疑問に、綾目はしっかりとうなずいた。
「確かに、絡繰りの精緻な動きは比類なき美しさと呼べるでしょう。けどそれは、絡繰師である久助や、工学の知識がある先生やわたしだからこそ。水からくりや手水の自動販売機のような、一般人に魅せる絡繰りを志した久助が比類なき美しさと言うからには、もっと分かりやすい、陽性の美しさを指しているのではないか、という気がします」
「その後には、橋を渡る、という表現もされているしね。箱の謎を解くことを渡ると表現するのは、少々強引に過ぎる。箱が橋形をしていたのは、仕掛け上の理由に加えて、ミスリードの意味もあったんだろうね」
「はい、そう思います。では、高い塔というのは……」
「私は昨日見た石積みの塔を連想したけれど、機織君は他に何か思いつくものはある?」
「いいえ、というより、わたしは……ああ、何で今まで気付かなかったのかしら。答えは、こんなにはっきり示されていたのに」
綾目は頭を抱えていたかと思うと、思いを振り切るように勢いよく首を振り、牛飼の手を取る。
「こうしてはいられません。早く行きましょう、先生」
早朝の村を、赤のフィアットが駆け抜ける。
綾目は和服なので、運転は牛飼だ。
「そこを右です、先生」
「見えた。後は大丈夫」
念のため、塔から少し離れた位置に車をつけ、降り立つ。
「もっと寄せても構いませんよ?」
綾目は、少しだけ不思議そうな目を向けてくる。
「うん……まあね」
腕をまっすぐ伸ばし、指を立てる。全高はおよそ二十メートル、直径は一番太い部分で五メートル、頂上付近では三メートルといったところか。一周してみるが入口らしきものはなく、外部に鉄製のはしごが取り付けられている。
「へえ、こうしてみると、塔と言うよりは……」
綾目の顔を見ると、唇を軽く噛んでいる。
「ええ、単なる石積みです。正直に言えば、久助の作品にはふさわしくないとわたしは思っていました。ですから、昨日も近くではお見せしなかったのですけど……馬鹿ですね、わたし。答えは、ずっと目の前にあったのに……」
苔むした外壁に手をつき、綾目は言葉を途切れさせる。
「……子供のころ、塔に登ったことがあるんです。そこに不思議な切れ目があったことを思い出しました。わたしの考えが正しければ、これはきっと、あそこに入れるためのものなんだと思います」
そう言って、たもとから硬貨を取り出す。
「お願いです、先生。塔に登って、硬貨を切れ目に投入していただけませんか? ……ああ、わたし、なんだってこんな日に和服なんて着ているのかしら!」
もどかしさのあまり、軽く地団太を踏んでいる綾目を見て、牛飼は思わず笑みをこぼす。
「分かった。じゃあ、行ってくる。何が起こるか分からないから、少しだけ離れた方がいいと思う」
「何をおっしゃるんですか、それなら先生が一番危ないはずです。わたしがお願いしたのですから、わたしはここで先生をお待ちするのが筋です」
それとこれとは関係ない、と言おうと思ったが、思い止まる。何しろ、久助が百年以上前に仕掛けたままになっている代物だ。牛飼は、仕掛けが上手く働かずに塔が崩壊する可能性を考えていたのだが、それを口にすることは、技術者にして天才絡繰師である機織久助が信用できないと言うに等しい。
機織家の人間である綾目の前でそんなことは言いたくなかったし、牛飼としても彼のことを信じたいという気持ちになっていた。
はしごに手をかけ、ぐっと体重を乗せる。
錆びてはいるが、腐食はしていない。無茶をしなければ、牛飼の体重ぐらいは支えてくれるだろうと判断し、一気に身体を引き上げる。
ほぼ垂直に近いはしごを二十メートルも登るのは初めてだった。下にいれば気持ちいいとしか思わないそよ風ですら、手のひらにじっとりと汗をかかせるには十分だった。
ようやく登り切り、ほっと一息をつく。頂上は、はしごのかかっている部分を除いて胸壁が立てられているため、ひとまず落下の心配はない。額に手をかざして上を見上げる綾目に手を振ってやると、向こうも嬉しそうに振り返してきた。
「さてと」
綾目の話では、はしごのかかっている場所の反対側、ほぼ直角に切り出さしてぴったりと組まれた石組みの、一部分だけに隙間があるとのことだった。朝日の中で、それはすぐに見つかる。
これが自動販売機か何かの硬貨の投入口に見えてしまうのは、金槌を持つ者には全てが釘に見えるというやつだろうか、と苦笑する。
一センチ幅で十センチほどの奥行きを持つその隙間は、確かに硬貨を入れるとぴったり収まりそうだった。中を覗き込んでみると、かなりの深さがあるようで中がどうなっているかは分からない。入れてしまえば、二度と取り出せなくなる可能性もある。
「じゃあ、入れるよ! 本当にいいんだね!」
塔のふちから下を見下ろし、確認の言葉を投げる。
「はい!」
迷いなく答えてみせる綾目の目を見て、お互いにうなずきかわす。
向き直り、もう一度硬貨を見る。
一橋、そして、値千金。
天才絡繰師機織久助をして値千金と言わしめた橋、その答えがすぐ目の前にあるのだ。
硬貨を投入口にゆっくりと差し入れる。
ふちを持った指が塔の床面に触れても、硬貨が底に触れる気配はない。
思い切って指に込めた力を緩めると、硬貨は音もなく吸い込まれていく。
何が起きるのか、黙って待つ。
何も起こらない。
さらに待つ。
変化はない。
「え?」
「せんせーい! もう入れましたかー!」
「入れたのに……」
半ば呆然とするような気持ちでつぶやく。
「え、何ですか? 聞こえません!」
「入れた! けど何も起きない」
「ええ! そんなことって……」
その時だった。
ごとん、と思い音がした。
続けて、ばしゃあっ、という何かをぶちまけるような音。
度肝を抜かれた牛飼は、反射的に振り返り、それを目にした。
間歇的に吹き上がる水、そのすぐ側に転がる石の板。
水は次第に勢いを増し、天に向けて盛大に吹き上げる。
まるで、噴水のようだった。
しぶきによって一瞬でびしょ濡れにされた牛飼は、たまらずにはしごを下りる。
降りた先では、綾目が呆然と上を見上げていた。
「噴水? これが、久助のやりたかったこと……?」
理解が訪れたのは、綾目のそのつぶやきを聞いた瞬間だった。
「こっち」
綾目の手を引く。
「わっ、何ですか、先生」
「いいから、こっちへ」
車の方へ。
「後ろを見ちゃだめだよ」
「え?」
「いいから」
「は、はい」
十分に離れたと思ったところでちらりと振り向き、それを確認する。
「あははっ」
自然に、笑い声が出てしまう。
稀代の天才絡繰師、機織久助とは。
なんという、ロマンチストだったのだろう。
「な、何ですか……?」
怪訝そうな顔を牛飼に向けた綾目も、横目でそれを確認したのか、大きな瞳を丸く見開いて、後ろを振り返る。
きらきらと舞い散る水の雫。
天高く上がるは煌めく太陽。
現れ出たのは七色の架け橋。
音を立てて吹き上がる水の紗幕へ虹がかかっていた。
言葉もなく、ただじっと二人で見入る。
綺麗だ、という言葉を発することさえ無粋に思われた。
どれだけそうしていただろうか、綾目はぽつりとつぶやいた。
「愛してます、先生」
「……うん」
「けど、わたし……やっぱり、結婚することにします」
牛飼は黙ってうなずく。
綾目はこちらを見なかったし、牛飼も彼女を見はしなかった。
だが、それで十分に伝わった。
ただ、立ち尽くしたまま虹を見つめ続ける。
手を繋いだままだということも忘れて、ずっと。