夕暮れ商店探偵街「ねこじゃらし」
吾輩は猫であった。今ではすかっかり人の形相をしているが、その頃はまだ私の手の内に肉球は納まっていたのだ。
猫型インフルエンザなる病気が蔓延しだした当時、私は神社の社を塒にし、毎日を必死に生きていた。愚鈍な人間に媚を売って食事にありつく事もあったが「これも生きる為だ仕方なし」などと自分を誤魔化しては文字通りに猫をかぶって過ごしてきた。
隣町で猫型インフルエンザが爆発的に流行しだした頃、私は動物的な勘というやつで町を出た。街頭のテレビによれば、この奇怪な病気は人間が生きるために作りだした原子力が原因なんだそうだ。愚鈍な生き物だとは思っていたが、ここまでとは。呆れを通り過ぎて笑いさえ込み上げてくる。
町を出た私の身体を病魔が蝕んだのは、それからすぐの事である。倦怠感。微熱。峠をひとつ越える頃には朦朧とした意識の中で歩を進めていたのを今でも覚えている。私は水が飲みたい一心でひたすらに歩き続けた。肉球に異変が現れたのはこの後である。
斜陽の影を踏みながら歩き続けていると、ふと違和感を足元に感じたのだ。空虚を踏むといえば良いのか、人間がよく階段で段差を踏み外して体制を崩している姿を見たが、まさしくそんな感じであった。私は恐る恐る足のうらを覗き見ると、そこにあったはずの肉球が抜け落ちていた。
一瞬、思考が停止したが、程無くして死を意識した。私は常々、美意識を感じて生きてきた。そんな私の身体がボロボロに壊れ、あろうことか私の美しい肉球すらも壊してしまった。こんな身体で生きる意味など果たしてあるのだろうか。朦朧とした頭は考えを纏めさせてはくれない。ただひたすらに歩くことだけに私は専念せざるを得なかった。
霞む視界の中、私の視界は暗転を繰り替えしながらもひとつの町を捉えた。水を探して峠を彷徨っていたつもりが、いつのまにかどこかの町に辿り着いてしまったようだ。夕暮れに紅く染まった町が私の頬を照らしている。人間がいれば私を見かねて看病してくれるだろうか、そんな安堵を感じた瞬間、私の意識は途切れた。
夕日が降り注ぐ中で目が覚めたときには、私は黒い学生服に身を包む少年へと姿を変えていた。どういうことだ。猫型インフルエンザというものは猫であることを終わらせてしまうものなのか。いや、理解できない。いや待て。それ以前にこれは現実なのだろうか。それともこれが死なのだろうか。私もこの世に生を受けた生き物であるから、死というものは無に近いものなど錯覚していた。だがもしかしたら、ここが黄泉なのではないだろうか。答えを知る術もなく項垂れていると、学友が私を呼ぶ声が聞こえた。ふりかえると桜の花びらを乗せた一陣が風が頬の熱をさらっていく。名も知らぬはずの学友は、私の手を取ると私の名を呼ぶ。ああ、何故だろう、こんなにも心地よい気持ちは。こんな異常な事はあり得ないはずなのに、おかしいとわかっているのに。僕はどうしてしたがってしまうんだ。
その日から、学舎に通う日々が始まると、少しずつ私の記憶から猫だった記憶が薄れていった。毎日毎日、覚えることが多すぎてそれ以外の事はどこかに忘れていってしまうようだ。今日も、猫だった事を少しでも忘れぬように手帳にあの頃の記憶を書いておきたいと思う。いつまでも夕日の色をしたこの商店街を何回通っただろうか、ここを過ぎれば寮母のおばちゃんが食事を作って待っていてくれる。確か、そう。献立はカレーだった。僕は辛口が好きなのに、おばちゃんはいつも甘口を作る。そんな事を考えながら少し微笑んで、僕は手帳に筆を走らせる。「○月○日、今夜の献立はカレー」。