02 文芸部のアイドル
朝月が扉を開けると同時に悲鳴染みた声が響く。後ろ手で閉められた扉が声を多少は遮っているものの、それでもなお声が漏れている......まるでアイドルだ。テレビ番組か何かで見た男性アイドルを見た女性オタクのリアクションだ。
まあ、アイツもこの手の女の対応は手馴れているだろう。年季が違うからな、年季が。
「あの......うちの部室に何かご用でしょうか?」
壁にもたれて朝月が戻ってくるのを待っていると不意に声を掛けられた。
声の方を向けば、緑色に輝く瞳が俺を見上げていた。上履きの色からして1年......あぁ、思い出した。一人だけ入ったまともに活動をしている文芸部員の子だ。
「あぁ、作品を読んでくれって言うくせに用意してなかった奴が居てな......やけに戻るのが遅いから帰ろうかと思っている所だ」
実際ただ部室に入って、置いてある試し書きの紙を持ってくるだけの簡単なお仕事のはずだ。腕時計を見ればもう少しで入ってから5分は経とうかという時間になっている。
話しかけてきた彼女は、俺の答えに少し怪訝そうな顔をした後に合点がいったとばかりに手を打った。
「もしかして、あなたが伊島先輩?」
「......ソースは朝月か?」
俺の問いかけに彼女は黙って小さく首を傾げて見せた。 ......沈黙は肯定と見なすぞ?
「そう......先輩とは話がしてみたかったんです」
俺の問いかけがなかったかのように彼女は話し始めた。正直いろいろ言いたいこともあったが、彼女の言葉の方が気になった。
「俺と話?」
「はい、先輩には妹がいらっしゃるとか」
どこまでしゃべってるんだろうか、あのバカは。
「名前は奏さん......私、彼女とは仲良くさせてもらってますので挨拶をと」
「そうか......」
度々同じ名字の奴の話を聞いて、気になって確認したとかそういうところだろう。そういうことにしておこう。伊島という姓は同級生の中では俺しかいなかったはずだ。家族の愚痴というのは話の肴にもってこいだ。 ......なんだか、目の前の彼女に奏が何を吹き込んでいるのか不安になってきたがまあ、大したことじゃないだろう。正直、話のタネになるような事には、碌でもない事しか思い当たりが無いが......気にしたら負けだ。
「で、それだけか? 別に友達になるくらい兄貴にお伺い立てるようなことじゃないと思うけどな?」
彼女はそれに答えようと口を開いたのだろう。
だが、間の悪い奴というのは居るものだ......。
ようやく部室から戻ってきた朝月と、さっきまで話していた女子生徒―――神無月というらしい―――はちょうどよかったとばかりに話し込み始めた。
......もう、帰ってもいいだろうか。何が時間は取らせないだ。
「ごめん、ごめん待たせたね」
俺が帰ろうとするタイミングを見計らったかのように、奴は神無月との話を切り上げ俺の肩を叩いた。神無月はそのまま俺の方を向くこともなく部室へと入っていった......おい、話はまだ終わってないぞ。
とりあえず、朝月にいろいろな物を込めた視線で睨み付ける。奴は苦笑いをしながら俺に紙の束を差し出した。
とりあえず、奴の小説と俺の感想については語るまい。いろいろとあってイライラしていたから妙なテンションになっていたしな。
朝月と別れ、家に帰ってみればまだ家には明かりは点いていなかった。奏はまだ帰ってきていないようだ。時計を見れば30分ほどで、針が直線を描こうかいう時間だった。
居間のソファーに座ってため息を吐く。なんだかんだで、立ちっぱなしだったせいか足に違和感がある。
奏がちゃんと帰ってくるならば、まあ1時間も待っていれば帰ってくるだろう。いつも通りならばの話だが......。
気づけばソファーで眠りこけていたらしい。
起き上るとタオルケットが床に滑り落ちる音がした。
「奏......か?」
もしかすれば、殆ど家にいない義母さんかもしれないが。
台所には明かりが点いていた。
「......起きたんですね」
奏の言葉からはどこかよそよそしさを感じた。
「ああ......えっと」
奏は振り向かずに野菜を切り続けている。
言おうと思ってはいるのに、中々口に出せない自分に少し苛立つ。
「......今朝は悪かったな」
まな板と包丁が触れあう音は一定のリズムを刻み続けている。
「あー、ほらアレだ。低血圧。低血圧だから――」
「気が利かなくてごめんなさい。明日、レバー買ってきますね」
......言葉の端々に棘を感じるが、きっと気のせいではないだろう。
「冗談だ」
別に立ち眩みとか、そういうのを経験したことはないから多分そういう症状はないだろう。多分。
「そもそも低血圧にレバーは効くのでしょうか? 兄さんはどう思います?」
知る訳がない。
俺の困った気配を感じ取ったのか、奏は小さく笑った。嫌味な感じは無かった。
「さっきまでのやり取りは全部冗談として流してくれると私はうれしいです」
「どういう意味だ?」
俺の言葉に奏はようやくこちらを向いた。彼女はイタズラが成功した子供のような表情を浮かべていた。
「私もやり過ぎたと思ってましたから......でも、どうやって謝ろうかと考えていたら兄さんが謝ってきたので、ちょっとイタズラ心が芽生えてしまいまして......ごめんなさい」
イタズラ心って......正直言ってこのタイミングでやられると色々な意味でハラハラしたぞ。
「兄さんだって悪いんですからね? 二度寝してサボるとか言い出すから......」
朝には弱いしどうかしてたんだろう。人間だもの。
「それで、起きたばかりみたいですけど夕ご飯は食べますか?」
「......食べるよ。もちろん」
きっと俺は彼女には頭が上がらないだろう。一緒に暮らしている限り、ずっと。