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「崩れた個所は無いか!」
「怪我人はおらぬか!」
外はワァワァと凄い騒ぎになっているようだった。前方から聞こえて来る喧騒に耳をそばだてながら来賓室の並ぶ廊下に出ようとした遙は、扉の脇に立っていた衛兵に行く手を遮られる。
「海王様が出すなと仰っておりますので。申し訳ございません」
年嵩の衛兵が槍を斜めに構えて遙に言う。もう一人の衛兵は外が気になるのか、廊下の曲がり角で顔だけ出して出口の方向を見ていた。
「なに。初めてではございませんので大丈夫ですよ、遙様」
年嵩の衛兵の言葉に、遙は不安に思いながらも小さく頷く。そこへ、外の様子を窺っていた衛兵が慌てて戻って来た。大急ぎで槍を構え直したところへ、海王が角を曲がって現れる。遙はホッと安堵の息をつくと、衛兵の槍の下をくぐり抜けて海王を出迎えた。
「心配ない。いつものことだ」
海王は薄く笑んで遙の肩を抱き寄せると、そのまま遙を腕にぶら下げて奥へと戻る。扉が閉まると同時に外界の喧騒がピタリと途絶え、シンと静まり返った廊下を奥へ奥へと運ばれながら、遙は自分を抱えて泳ぐ海王の端正な横顔を見上げた。
「……なんでそんな顔してるの」
「どんな顔をしている」
遙の問いに、海王が正面を向いたまま問い返す。
「……難しい顔してる」
少し考えてからポソッと答えると、海王は腕の中の遙をチラと見てから再び視線を前方に戻した。
「……貢が言うには、残念なことにこの城は太平洋プレートと呼ばれるものの上、日本海溝のすぐ側に建っているらしい」
「えっ……」
地球の表層がたくさんのプレートで出来ていて、互いに少しずつ動いているのは授業で習って知っている。確か、太平洋プレートは日本のすぐ東側で大陸プレートの下に徐々にもぐり込んでいた筈である。その境目である日本海溝のすぐ側に建っているということがどういうことを意味するのかに遙は気付き、驚いて言葉を失った。
「貢はここを捨てて、用意した住まいに移って欲しいと言っている。しかし、我らはここで生きていく以外に術を知らぬ。家臣もほとんどが年寄りだし、すぐにどうこうでない限りは他所に移るのを渋るだろう。姫達が望むなら妹達のところへ身を寄せさせてもいいが、陸に上がれば途端に寿命が磨り減る」
「陸に上がると寿命が磨り減るの?」
遙が驚いて尋ねると、海王が薄く笑って頷く。
「陸は酸素が濃過ぎるからな」
そう言えば、末子の筈の祖母は海王と違って年老いた姿をしている。遙はふと、童話の浦島太郎を思い出す。竜宮城で夢のような数日間を過ごした太郎が陸に戻ると地上では数百年が過ぎていた、というものだが、自分の身に置き換えるとちょっとゾッとしない話ではあった。
「ここが私の私室だ」
海王は長い廊下を再び一番奥まで泳いで行くと、先程とは別の大きな扉の前で遙を下ろす。鍵の掛かっていない扉を押し開けると、真っ暗だった室内が一瞬でパッと明るくなった。執務用の大きな机と椅子以外には調度品一つ無い、だだっ広いだけの部屋である。王の私室と呼ぶにはあまりにも質素だったが、それがかえって王の飾り気の無い性格を物語っていた。
「隣が寝室になっている。ここにいる間は自由に使うがいい」
「え、ここをッ?」
てっきり来客用の部屋をあてがわれるのだと思っていた遙は驚いて尋ねる。すると海王が片眉をヒョイと上げておどけたように笑った。
「イヤか?」
その顔が何とも言えず『イイ男』で、遙は思わず苦笑する。確かに『自分の近くにいろ』とは言われたが、単に『妹の孫と一緒にいたいだけ』なのがバレバレで可笑しい。こんな顔でお願いされたら家臣達は誰も逆らえないに違いないと思い、誰もが尊敬し畏怖する王の意外な一面に遙は思わず笑みを漏らした。きっと小松崎もこんなところを好きになったのかもしれない。
「そろそろ腹が減ったであろう。食事の手配をして来るからここで待っておれ」
海王の言葉に、途端に遙の腹がグゥと鳴る。
「素直な腹だな」
海王はそう言って愉快そうに笑うと、遙を部屋に残して再び廊下に出て行った。
「え~っと……」
遙は目の前に出された食事、または『食材』と思われるものを見下ろして考え込む。
「どうした。遠慮せずに食べなさい」
「はぁ……」
返事はしたものの、どうしたらいいのかわからない。さっきまでの空腹感が急速に萎んでいくのがわかった。
案内された部屋には大きな長方形のテーブルが一つあり、遙は海王と向かい合う形で反対の端に座らされた。その距離およそ三メートル。各々の目の前には二メートルはあろうかと思われる魚が尾頭付きで横たわっている。ヒレも尾も普通の魚より大きめで、肌が異様に白というかピンク色がかっている。恐る恐る顔を見ると、ギョロリとした大きな目と視線が合った。いや、既に相手は息絶えているのだが……。
その部屋には他に誰もいないので、もちろん給仕してくれる使用人もいない。海王はどうしているのだろうかと思って向かいを見ると、器用に手を動かし、身を切り分けて口に運んでいる。ナイフを使っているのかと思ったが、よく見るとそれは海王自身の長く鋭い爪だった。
(いやいやいや、あり得ないし……)
遙はいよいよ困って、パクパクと美味そうに魚を食べている海王を見詰める。途端に再び腹の虫がグゥと鳴き、その音を聞きつけた海王が笑った。
「側に来なさい」
クツクツと楽しそうに笑いながら遙を手招く。遙は大喜びで立ち上がって自分の椅子を持つと、泳ぐというよりも月面を歩くような感じで海王の近くに移動した。魚と目が合ってしまわぬよう、尾の方に椅子を置いて座る。海王はナイフのようによく切れる長い爪で魚をひと口大に切り分けると、透き通った薄ピンク色の身を突き刺して遙の目の前に差し出した。
「ほれ」
遙は迷うことなく身を乗り出すと、大きく口を開けてパクッと喰い付く。口いっぱいに頬張って噛み締めると、新鮮な魚のプリプリとした食感と甘い旨みがジュワッと口中に広がった。
「美味しい!」
遙は思わず感動して叫び、目をキラキラさせながら隣を見る。海王は笑いながら再び魚の身を切り分けると、それを遙の口に放り込んだ。
「旨いか」
遙は夢中になって魚肉を食みながら、海王の問い掛けに大きく頷く。海王は続けて桜色の身を切り分けながら、旺盛な食欲を見せてモグモグと口を動かす遙を満足そうに眺めた。
「昔を思い出す。富沙にもよくこうして食事をさせたものだ」
ふと漏れた言葉に、次の切り身をワクワクと待っていた遙は隣を見る。祖母の兄と呼ぶにはあまりにも若々しい王は、昔を思い出すようにジッと遙を見詰めて言った。
「母親を幼い頃に失くした富沙は、なぜかわたしの手からしか物を食べなくてな。だから、いつもこうしてわたしが直接彼女に食べさせていたのだ。今のお前のように小さな口をいっぱいに開いて、気持ちいいくらい旨そうに頬張っていたよ」
海王はそう言うと、再び切り身を摘まんで遙に差し出す。遙は急に恥ずかしくなって、口ではなく手を伸ばした。
「遠慮するな。ほれ」
それを見て、海王が笑いながら切り身を揺らす。もしかしたら遊ばれているのではないかと思ったが、海王の目は優しかった。しかし、一度意識してしまうとなかなか口を開けられないもので、これはもう何かのプレイなのではないかと思うほど恥ずかしい。遙は真っ赤になってギュッと目を瞑ると、これも孝行だと自分に言い聞かせて口を開けた。
「お兄様ッ?」
その時、突然別の声がして誰かが部屋に入って来る。途端に海王が小さくチッと舌打ちをした。声のしたほうを見ると、戸口を人魚の姿をした女性が腰に手を当てて立っている。銀色の豊かな髪が豊満な胸を覆っているのを見て、遙はその人が服を着ていないことに気付いて慌てた。そう言えば人魚族は誰も服を着ていなかったのだが、今まではみんな男性だったのと、下半身は鱗に覆われた尾だったので特に気にならなかったのだ。遙が目のやり場に困ってオロオロしていると、その女性が部屋に入って来て海王の脇に立つ。
「何をなさっているの、お兄様?」
再び腰に手を当てて、冷ややかな口調で海王に詰問する。威圧的な口調に驚いて見上げた遙は、再び別の意味で驚いた。その女性はなんと、自分の母親である美波にそっくりだったのだ。
(ええッ?)
一瞬慌てたものの、すぐに気付く。この女性は海王の妹、つまり祖母の何番目かの姉に違いない。彼女も海王と同じで非常に若く、まだ二十歳そこそこに見える。
「見ての通り、食事をしているのだよ、リンショウ」
海王が魚を口に運びながら答える。しかし、彼が妹と視線を合わせないようにしているのは遙にもわかった。もしかしたら仲が悪いのかもしれないと思い、遙はこっそりその女性を見上げる。林鐘は目が合った途端にフンッと大きく鼻を鳴らすと、値踏みするような目で遙を見た。
「あなたが富沙の孫ね。はじめまして、王子様。ほ~んと女の子みたいに可愛いわね」
『王子様』と呼ばれた遙は驚いて目をパチクリする。林鐘は口元に皮肉な笑みを浮かべると、食卓の上にある食べかけの魚を見下ろした。
「知っていて? この魚は『幸魚』と言って、婚姻の儀式の時に新郎新婦が食べるものなのよ。男の子の花嫁なんて滑稽ね。おめでとう、お兄様」
あからさまな皮肉の言葉に、遙は驚いて林鐘を見る。なぜそんなことを言われるのかはわからないが、どうやら彼女はたいそう怒っているらしい。高級な魚を食べてしまったことは悪いと思うが、遙の腹の虫が鳴ったから海王はこれを持って来たのであって、そのせいでこんな皮肉を言われたのでは海王が気の毒である。慌てて弁護しようとすると、それより先に海王が口を開いた。
「幸魚は用意してあったから食べただけだ。この子は男だから花嫁にはなれないし、お前に祝福される謂われもない。貢を連れて来なかったからといって目くじらを立てるな」
最後の一言に、途端に林鐘の顔が赤くなる。そして、海王をキッと睨み付けると、みるみる目尻を吊り上げた。
「なんて下世話なことをッ……!」
そして詰るようにそう言うと、サッと身を翻して部屋を出て行く。遙は思わず唖然としてその後ろ姿を見送った。
「僕のことで喧嘩になったの……?」
恐る恐る尋ねると、海王が楽しそうに笑う。
「そうではない。わたしが貢を連れて来なかったからスネているだけだ。気にするな」
そしてそう言うと、先程食べさせ損ねた切り身を遙の目の前で揺らす。美味しそうな切り身を前に遙が躊躇していると、再び水が動いて誰かが部屋に入って来た。
「また林鐘をお揶揄いになったのね、お兄様」
「カチョウか」
慌てて戸口を振り返ると、先程の林鐘とよく似た女性が立っている。今度は優しそうな人だったので海王に誰かと尋ねると、六人姉妹の長女だと教えてくれた。
「先にわたしを揶揄かったのは林鐘だぞ」
言葉では林鐘を非難するような言い方をしているが、顔は楽しそうに笑っている。華朝は小さく溜息をつくと、遙に視線を移して微笑み掛けた。
「富沙の孫というのは貴方ですね」
「はい。遙です」
二人ともよく似てはいるが、華朝の方がおっとりしていて美波に似ているかもしれない。思わず親近感を覚えて微笑むと、華朝も笑みを深める。
「富沙によく似ているわ。表情が豊かなところも、明るくて元気いっぱいなところも」
「根性も座っているぞ。わたしの腕に抱えられたまま、ここに着く寸前までずうっと熟睡していたのだからな」
海王の言葉に華朝が指先で口元を覆って楽しそうに笑い、遙も照れ隠しに笑った。
「ところで、お兄様がお客様を独り占めしてしまったものですから妹達がヤキモキしているのですけれど、ここへ呼んであげてもよろしいかしら?」
「え?」と戸口を振り返ると、金色の髪が扉の影にサッと隠れる。それを見て華朝がフフッと微笑んだ。
「出ていらっしゃい。大丈夫よ、怒られはしないから」
華朝の言葉に、扉の陰からよく似た三人の姫が顔を出す。そして大喜びで入って来ると、海王の隣、遙と反対の席を取り合って座った。この三人の姫も美波によく似ている。つまり、凄い美人だということだ。
「右からカゲツ、リュウカ、シュメイ。華朝が長女で順番に二、三、四ときて、さっき出て行った林鐘が五番目だ」
海王が実に大雑把に説明する。途端に、嘉月と呼ばれた二番目の姫が小さな唇を尖らせた。
「酷いわ。十把一絡げだなんて」
「おや、難しい言葉を覚えたね。忍の影響かな?」
妹姫の言葉に、すかさず海王が揶揄うように言う。途端に嘉月はパッと赤くなると、遙を気にしてか隣の三女の陰に隠れた。
「既に四人の孫達が姫達と会っていてね、貢の兄たちは華朝と嘉月のところへ、守の兄たちは柳華と朱明のところへ通って来ておる。残っているのは林鐘だけだったな」
確認するように問われて、華朝が「ええ」と答える。
「でも、彼女は貢を気に入っているわ」
と言うことは自分の出番は無さそうだとわかり、遙はこっそり胸を撫で下ろした。
「富沙の孫は女の子だとばかり思っていたから、連絡が来た時にはとても驚いたのよ」
後ろに嘉月を張り付かせたまま、三女の柳華が楽しそうに笑う。彼女も海王と同じで、末のヤンチャ姫が仕出かした悪戯を楽しんでいるようだった。見れば、他の姉妹達も同じようにニコニコと笑っている。
「怒らないんですか……?」
遙が不思議に思って尋ねると、途端にそこにいる全員が一斉に目を見開いて笑った。
「なぜ? 富沙は昔から悪戯が好きだったわ。こんなのは序の口よ」
実に愉快そうな四女の言葉に、他のみんなも顔を見合わせて「ねえ」と言って笑う。
「富沙はみんなのアイドルだったわ。明るくて活発で優しくて、あの子がいるだけで毎日がそれは楽しかった。でも、あの子は人間に恋してしまった……」
華朝が不意に寂しそうに言い、嘉月がその肩にそっと慰めるように手を載せた。
「富沙は一番年下だし、人間の怖さもよくは知らない。私達は心配して彼女を止めたのだけれど、愛する人と一緒に生きることを望んだ彼女は、ある日こっそり城を出て行ってしまったの。私達は迷ったわ。彼女を追い掛けて連れ戻すか、それとも彼女を諦めるか……」
その時のことを思い出したのか、華朝の瞳が憂いを帯びる。その後を嘉月が継いだ。
「でも私達は諦められなかった。かと言って、彼女の恋を引き裂くことも出来なかった。そこで、ランゲツとケイゲツが彼女の側で見守ることにしたのよ」
「蘭月と桂月は貢と守の祖母だ」
海王が遙に説明する。一人だけならまだしも、よく三人も地上に行くことを許したなと思って見返すと、視線の意味を察した海王が苦く笑った。
「それでこんな騒ぎになったのだ」
姫たちが富沙を追い掛けて人間界に行くと決めた時、重臣たちは条件を出した。それは、姫たちに孫が生まれたら王族と娶わせること、というものだった。世継ぎ問題はそれほど深刻なところまで来ていたのだ。
「だが、どこまで本気だったのかはわからない。大方、そう言えば姫達が諦めるかもしれないと思ったのかもしれない。しかし、姫達はその条件を呑んだ」
海王の言葉に、姫達がニコニコと微笑む。ここにいてもどこにいても、もはや一族に次の世代は無いのだ。自分達が次の世代を残す為には陸に上がって人間と交わるしかない。誰もが思っていたことを真っ先に実戦したのが富沙だったのだ。
「でも、まさか本当に妹達が自分の孫を送って来るとは思わなかったわ。ねえ」
その時のことを思い出したのか、華朝が嘉月に笑い掛ける。途端に嘉月が再びパッと赤くなった。
「最初の見合いで、嘉月は貢の兄と恋仲になってな」
まさか自分の妹の孫とだなど思いもしなかったようだが、今ではたまの逢瀬を楽しみにしているらしい。そして、他の姫たちのところへも貢や守の兄たちが逢いに来るようになった。図らずも重臣たちの思惑通りになったわけで、唯一の女孫に皆の期待が膨らんだとしても当然と言えよう。
(なんで嘘なんかついたんだよ、ばあちゃん……)
遙は祖母のついた嘘を恨めしく思う。妹たちが次々と相手を見つけていく中で、海王が末姫の女孫に期待しなかったはずはないのだ。顔にこそ出さなかったものの、きっとがっかりしたに違いない。彼らが祖母のことを怒っていないことだけが唯一の救いだった。
『悪い者は誰もおらぬが、お前にとって良い者ばかりとも限らない』
海王の言葉を思い出す。姫達はともかく、家臣の中には遙が男だったことを……富沙が嘘をついていたことをよく思わない者もいるかもしれない。現に、海王が『じい』と呼んでいる侍従長は遙を連れて来たことを快く思ってはいないようだった。
(だからと言って、僕に八つ当たりされても困るんだけど……)
先程の侍従長の態度を思い出し、遙はムゥと顔をしかめる。そして、やにわに海王の腕を掴むと、指先で摘まんでいた切り身にパクッと喰いついた。
「……うおッ!」
指まで喰われると思ったのか、海王が声を上げて驚いたように目を丸くする。その海王の顔を見て、妹姫たちが声を上げて笑った。