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『竜宮城』という名は小松崎が小学生の頃に絵本から付けたのだと海王が言った。大きな城の中心には背の高い尖塔があり、その周りを四本の塔が取り囲んでいる。二階部分に張り出した大きなバルコニーに近付くと、中からたくさんの人魚が出て来た。手に槍のようなものを携えているところを見ると、どうやら衛兵らしい。しかし、どの人魚もかなり老齢に見えた。
「海王!」
「海王、ご無事で!」
中でも一番年寄りそうな、白い顎ヒゲをたくわえた老人がズイと前に進み出る。そして、深々と一礼すると、苦い顔で海王を見上げた。
「心配しましたぞ、海王。上から何度も連絡がありました」
「少しゆっくり降りたからな。じいにも心配を掛けた。すまない」
海王は幼い頃から『じい』と呼んでいるらしい侍従長に労いの言葉を掛けると、小脇に抱えていた遙を下ろす。よろけた遙は必死で体勢を立て直すと、何とか直立して頭を下げた。
「遙です。初めまして」
「男の子なのにお連れになられたのでございますか」
既に地上から連絡を受けていたらしい侍従長が、あからさまに眉をひそめて言う。
「一族の者を連れて来て何が悪い。それにこれは富沙の孫だ」
「……そうでしたな」
海王の言葉に侍従長は答えたが、しかし歯切れは悪かった。もしかしたら自分は招かれざる客なのではないかと思い、遙は途端に居心地が悪くなる。とは言え、自分は無理矢理連れて来られただけで、それをとやかく言われても困る。心配して隣を見ると、海王が遙を見下ろして上機嫌で笑んだ。
「後で姫達にも紹介しよう。その前に館内を案内するから付いて来るがよい」
そして、大きな尾ヒレを一振りすると、スイと先にたって泳ぎ出す。遙は慌てて両手で水を掻くと、夢中でその後を追い掛けた。
「侍従長は気難しくてな」
バルコニーは城の出入り口になっているらしく、中に入ると真っ直ぐな廊下が延びていた。海王は苦笑しながらそう言うと、必死で泳ぐ遙に手を差し伸べる。遙がその手に掴まると、グイと自分の側に引き寄せた。
「わたしの傍から離れるなよ、遙。悪い者はおらぬが、お前にとって良い者ばかりとも限らぬ」
素早く耳打ちされ、遙は「えッ」と驚いて海王を見る。海王はニヤリと笑うと、再び先に立って奥に進んだ。
「廊下の右手は大広間だ。昔は来賓を招く際に、ここで舞を鑑賞したり会食を行ったりしていた。ここ百年以上開けた記憶は無いがな」
遙は豪華な装飾が施された大きな観音開きの扉を見る。昔、人魚達は久方振りに会う友とご馳走や舞を楽しみながら語らう為にこの扉をくぐったのであろう。今は当然のことながら、壁の向こうはシンと静まり返っている。
「左に並んでいるのは会議室だ。大小合わせて五つある。昔は各部族の長が集まって会議を開いたり、城の重臣達が頻繁に閣議を行っていた。外からの使者も途絶えた今では、話し合う議題すら無くなってしまったがな」
海王の皮肉とも郷愁とも取れる言葉に、遙は大広間の向いに並んだ扉を見る。海王は廊下の突き当たりで立ち止まると、モタモタと後をついて来る遙を待った。
「その棒の様な足は不自由だな」
必死でバタ足のように足を動かしている遙を、海王がシゲシゲと眺めながら言う。遙はようやく追い付くと、ふわふわと安定しない身体を支える為に海王の腕につかまった。
「陸上を歩くには便利なんだけどね」
思わず溜息混じりに言うと、海王が楽しそうに笑う。そして遙を腕につかまらせたまま、その先を左手に折れた。
「こっちだ」
やがて、廊下の前方に大きな観音開きの扉が現れる。ここにも衛兵らしき人魚が二人、槍のようなものを携えて立っていた。海王が近付くと、左右から手を伸ばして大急ぎでその扉を引き開ける。扉の向こうにも同じような廊下が伸びており、先程の会議室と同じ様なドアが両側に等間隔に並んでいるのが見えた。
「ここから先は貴賓室だ。主に外から来た客人が泊まる。今は来る者も無いので、貢や一族の孫達が来た時に自由に使わせている」
では自分もこの中の一つを使うのだろうかと思っていると、海王は止まることなく更に奥へと遙を連れて行く。そして、その先を再び左に折れると、大きな扉の前でようやく立ち止まった。
「お帰りなさいませ、海王様」
突然現れた海王に、扉の前でやはり槍を携えて控えていた二人の衛兵が直立不動の姿勢を取る。
「うむ」
海王は頷くと、腕にぶら下げている遙を二人に見せた。
「富沙の孫だ。滞在中は自由に出入りさせてよい。頼んだぞ」
「かしこまりました!」
自分の父親くらいに見える厳つい顔をした衛兵が、槍を立てて海王に敬礼する。
「よろしくお願いします」
慌てて遙が頭を下げると、もう一人の年嵩の衛兵が微笑ましげに笑みを浮かべた。
「良い子ですな、王よ」
懇意の仲なのか、親しそうに海王に話し掛ける。
「当たり前だ。我が一族の孫ぞ」
海王は嬉しそうに破顔すると、衛兵が引き開けた扉の内側へと遙をぶらさげたまま滑り込んだ。
「ここから先は王族と一部の者しか入れない。わたしと姫達の居室もここにある」
そんな所にまで入ってもいいのかと思い、遙は思わずドキドキする。しかし、海王は構わずに更にたくさんのドアの前を通り過ぎると、突き当たりの壁の前で遙を下ろした。海王が右側の壁にある小窓を覗き込むと、ピッと微かな音がしてその壁が横にスライドする。その奥は小さな小部屋になっており、床の代わりに真っ暗な穴が地下深くへと落ち込んでいた。
「この奥は城の者にも見せたことがない。怖がらせてはいけないと思ってな」
「僕も怖いんだけど……」
いったいどんな所へ連れて行かれるのかと、遙はちょっと心配になる。誰も来ないということは、もしこの奥に閉じ込められてしまったら誰も助けてくれないということだ。怯えた遙の顔を見て、海王が楽しそうに笑う。
「危険は無いから安心しろ。貢は大層気に入ったようで、城に来ると必ずここに篭るぞ」
「貢先輩が?」
遙は途端にパッと目を輝かせると、興味深々で穴の中を覗き込む。しかし、地の底へと延びる真っ暗な穴にはやはり本能的な恐怖を感じ、すぐに笑みを引っ込めてタジタジと後退った。そのクルクルとよく動く表情に、海王が懐かしそうに笑みを浮かべる。
「富沙も表情の豊かな姫だった」
いつも皆に笑顔を振り撒き、彼女がいるだけで場がパッと華やいだ。
「ばあちゃんが?」
海王の昔話に、遙は今の祖母を思い出して苦く笑う。残念だが、遙には怒っている顔と不機嫌そうに口を引き結んでいる顔しか思い出すことが出来ない。
「しかし、気が強くて涙脆くて誰よりも優しかった姫は、あっという間に大人になって自分の手から巣立ってしまった」
海王は溜息混じりにそう言うと、自分の左手を見下ろす。ぽっかりと空いてしまった左手はもうその体温すら忘れてしまったが、初めて抱き締めた遙の体からは彼女と同じ匂いがした。
「手元に置けるだろうか……」
海王の無意識の呟きに、遙は「?」とその顔を見上げる。
「いや……」
遙は首を横に振る海王の顔から穴の奥に視線を戻すと、再び海王を振り仰いだ。
「行かないの?」
入口に立ったまま入ろうとしない海王に、怖いながらも尋ねる。海王は口元に笑みを浮かべると、遙の腰をグイと抱えて暗い穴の中に頭から飛び込んだ。
「ワアッ!」
いきなり真っ暗な通路に引きずり込まれた遙は、驚いて海王の腰にしがみ付く。海王は美しい尾を器用に振って曲がりくねった通路を進むと、程無くしてピタリと止まった。途端に眩い光に包まれ、遙は驚いて辺りを見回す。そこは円形の大きな部屋で、まるで管制室か何かのように様々な計器で囲まれていた。正面には巨大なスクリーンがあり、その周りにたくさんのモニターが並んでいる。竜宮城の内部に突如現れた近代的な設備に、遙は驚愕して目を瞬いた。
「ここは……?」
「見た通りだ」
海王はそう言うと、操作盤の前に遙を招く。
「装置は全て生きている。動力部はこの下、動力源は不明だ」
そう言えば、暗黒の海底でこの城だけが白く浮かび上がっていたのを思い出す。通って来た廊下も部屋も全て明るかったので、あれだけの光源を生み出すにはそれなりのエネルギーが必要な筈である。それが地下にある動力部で全て作られているのだとしたら、しかも何千年も前から動き続けているのだとしたら、それは非常に莫大なエネルギーを蓄えた動力源だと思われた。その動力源が不明とは、一体どういうことなのだろうか。
「貢はこの装置類と動力室に非常に興味を持ったようでな。しきりにあちこち眺めているので、『後を継ぐならこの城をやるぞ』と言ったら本気で悩んでいたぞ」
海王がその時のことを思い出したように笑って言う。最後に会ったのは五年前だと言っていたから、まだ小学生か中学に上がったばかりの頃だろう。可愛い顔で真剣に悩んでいる小松崎を想像して遙も笑った。
「前王の頃にはまだこの装置を操れる技術者がいたらしいが、今ではこの部屋の存在すら知っている者もいない。どの計器が何を示しているのかすらわからない。だが、城が城として機能していくには必要なものだということはわかる。すなわち、これが壊れた時が城の最期だということだ」
「ヘルプ機能とかは無いの? メインコンピュータが話したりとか」
SF映画を思い出して問うと、海王が苦笑する。
「陸の世界では機械が言葉を話すらしいが、残念ながらここでは機械は機械でしかない」
海王がコンソールに触れると、途端に室内が暗くなり、前方の巨大スクリーンに見慣れた星空が映る。
「貢が来て、このボタンを押した。『宇宙』だと教えてくれた。しかし、これは現在の星空ではないらしい。大昔の記録ではないかと貢は言っていた」
星空が消え、室内が再び明るくなる。その時、不意に『ゴオッ』と地鳴りのような音がして、城全体がガタガタと揺れた。
「地震ッ?」
遙は慌てて身構える。海王は遙を片手で捕まえると、軽々と小脇に抱えて元来た通路に飛び込んだ。猛スピードで浮上すると、海王の接近を感知した扉が自動的に開く。元の廊下に降り立つと、海王が安心させるように言った。
「このくらいの地震なら心配ない。わたしは外の様子を見て来るから、お前はここで待っておれ」
「僕も一緒に行く!」
慌てて付いて行こうとしたが、あっという間に引き離される。海王の優美な尾ヒレが力強くうなりながらグングン遠ざかって行くのを、遙は必死で追い掛けた。