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 幸い外は月夜だった。満月とまではいかないが、かなり明るい月明かりに遙はホッと安堵する。目的の海岸までは車で十分。ガードマンが待機するゲートをくぐって海岸線に下りると、徒歩で待ち合わせ場所の岩場を目指した。

「足元が悪いから気を付けろよ」

 小松崎の後ろを必死でついて行く遙に、その後ろから設楽が心配そうに声を掛ける。少しよろけるだけでサッと腕を掴まれる。さっきの小松崎の言葉を思い出した遙は、どう反応してよいのかわからなくて困った。

 祖母も母も放任主義だったので、遙はこんな風に誰かに心配されたり世話を焼かれたことがない。家族で唯一世話好きだった父親は幼い頃から単身赴任で家にいなかったし、どちらかというと世間知らずな母親の面倒を父親から頼まれていた遙に常に『世話を焼く側』だったのだ。自分を気遣う設楽の言葉や力強い腕は未知のもので、心地良く思う反面、どう反応を返せば良いのかわからなくて困惑もする。何気なく後ろを振り返ると、設楽が目を細めて笑った。

「大丈夫だ」

 励ますように手を強く握られ、力強い大きな手の温もりに遙は困って視線を逸らす。その時、前を歩く小松崎の足が止まった。

「海王……」

 海岸線が緩やかに右にカーブした先、真っ黒な岩の上に誰かがいた。岩場の陰にいるので月明かりが遮られていてよく見えないが、その誰かが小松崎の声にわずかに身じろぐ。

「貢か」

 聞こえてきた声は、驚いたことに若かった。ハリのある艶やかな声に、かなり老齢をイメージしていた遙は驚く。

「お久し振りです。お変わりはございませんか」

 小松崎の声には畏怖と尊敬と親愛の念がある。もっと側に近付こうと、足場の悪い岩場を急いだ。

「急くな、怪我をするぞ。お前の肉体はやわい」

 海王はそう言うと、岩場を器用に移動し始める。手を付いてから身体を引き寄せる動きに、遙はセイウチやアシカなどの海獣を連想した。

「海王」

 小松崎は必死に岩場を登ると、待ち望んでいた姿に両手を伸ばす。

「大きくなったな、貢」

「十八になりました」

 海王の手を取って甲に口付けながら小松崎が言い、海王は頷くと、岩場の下で見上げている二人に視線を向けた。

「そこにいるのは守か」

「はい、海王。お久し振りです」

 どうやら海王は薄明かりでも目が見えるらしい。確認の為の問い掛けに、設楽がいくぶん緊張した声音で答える。自分の手を握る設楽の手がスゥッと冷たくなるのを感じ、遙は隣に立つ長身を見上げた。

「海王、実はお話しなければならないことがあります」

 感動の再会を果たした小松崎が、言い難そうに言葉を選びながら話を切り出す。すると、ハッと見上げた遙と設楽の視線の先で海王の影が小さく笑った。

「ホウシャにまんまと騙されたのであろう、貢?」

「なぜそれを……!」

 小松崎が驚いて問い返す。海王は小松崎に道を開けさせると、更に岩場を下りて来た。

「匂いでわかる。確かに富沙ほうしゃの匂いはするが、これは男だ」

 遙は我知らず後ろに下がる。その手を、設楽が励ますようにギュッと握り締める。

「遙……」

「遙というのか、富沙の孫よ」

 海王はついに岩場の下に降り立つと、月明かりの下にその姿を現した。


 目を射たのは眩い銀色の光だった。神々しいまでの銀の流れが頭頂から肩、背中へと流れ落ち、月の光を弾いている。細面の顔にすっきりと通った鼻梁、赤い形の良い唇もさることながら、強い光を秘めた優しい瞳に遙はボォッと思わず見惚れた。

 綺麗だった。こんなに綺麗な男性を遙は一度も見たことがなかった。祖母の兄だと聞いていたが、どう見ても二十代後半にしか見えない。綺麗だが決して弱々しく見えるわけではなく、裸の上半身は肩もがっしりしていて胸板も厚い。腰から下は足ではなくツヤツヤと光る銀色の尾だっが、なのに全然違和感が無く、遙は若く美しく生命力に溢れた一族の長をまじまじと見詰めた。

「富沙に良く似ている」

 まるで芸術品のように美しい唇が言葉を紡ぎ、遙はハッとして目を見開く。海王は目を細めて微笑むと、遙に右手を差し出して招いた。

「もっと近くで顔を見せてくれ、富沙の孫よ」

 設楽がギュッと繋ぐ手に力を込める。遙はその手をそっと離すと、数歩前進して海王の前に立った。

「遙です。初めまして……」

 手を伸ばせば触れられるほどの距離に海王がいた。月明かりにその滑らかな肌までが見て取れる。吸い寄せられるようにその美しい瞳を見詰めた遙は、虹彩の縁に自分と同じ深い青の輪を見とめて確信した。確かに自分にはこの人と同じ血が流れているのだと。

「富沙は昔から悪戯が好きだった。いくら可愛いとはいえ、確かに男だ。今頃どこかで『してやったり』とほくそ笑んでいることだろう」

 海王が遙を見詰めながら、愉快そうに笑って言う。その声には祖母を非難する響きは無く、むしろ騙されたことを愉しんでいるような響きさえあった。

「申し訳ございません」

 小松崎が海王に頭を下げ、遙も慌てて謝る。

「すみませんでした。こんな所まで来て頂いたのに……」

「ふむ……」

 遙の言葉に海王は一瞬思案顔になると、次の瞬間パッと何かを思いついたように笑顔になり、ガシッと遙の手首を掴んだ。

「いいことを考えたぞ、貢。わたしはこの子が気に入った。少しの間だけ借りてゆくと富沙に伝えてくれ。二日後に返す」

「ええッ?」

 叫んだのは設楽だった。何を言われたのか理解出来なかった遙は、キョトンとして海王を見上げる。海王は間近で微笑むと、遙の細い腰を抱き寄せた。そして、やにわにその華奢な身体を小脇にヒョイと抱えると、左手を岩場に突いて凄いスピードで跳躍する。

「遙ッッッ!」

 次の瞬間、設楽の叫び声と激しい水音が重なる。いきなり水中に引き込まれた遙は無我夢中で海王の身体にしがみ付いたが、海王が一向に浮上する気配がないことに気付くと、その意味を察して一気に青褪めた。

(嘘ッ……!)

 夢中で海王の身体を押し退けようとするが、海王の腕は遙の体をガシッと抱えて離さない。今度は自分を抱き抱えている腕を引き剥がそうともがいたが、一気に息が苦しくなってパニックになった。

「どうした?」

 死に物狂いで逃れようとする遙を、海王が不思議そうに見下ろす。しかし、すぐに状況を理解すると、遙の顎の付け根を指先で両脇から挟んだ。グイと力を入れてこじ開けられ、口中に残っていた空気がゴボリと音を立てて漏れ出る。途端に冷たい海水が勢いよく流れ込み、遙は恐怖に引きつった。

「息を深く吸い込みなさい、遙。大丈夫、お前は富沙の孫だ」

 必死に逃れようと暴れるが、海王の逞しい腕で抱きすくめられて動きを封じられる。やがて急激な酸素の欠乏に脳がジンと痺れ始め、手足の感覚が無くなっていく。急に身体に力が入らなくなり、遙は漠然と死を予感した。

(あぁ……)

 見上げると、真っ暗な海の中で海王の美しい貌だけが白く浮かび上がって見える。あぁ自分は死ぬのだと、薄れゆく意識の中でぼんやり思った。

(人は窒息死する寸前に脳内でエンドルフィンが分泌されるって聞いたことあるけど、今がそれなのかな……)

 なぜかさっきまでの息苦しさは感じなくなっていた。冷たい海水は鼻からも口からも耳からも入ってきて遙の体内を満たしていく。自分の身体がスゥッと溶けて大きな海に同化していくような錯覚に陶然となった。人には色々な最期があるが、こんな美しい人魚に抱かれて逝くなんてのもアリかもしれない。そんなことを考えた瞬間、不意に肺が大きく動いた。

 ヒュウッ……!

 吸い込んだのは海水の筈なのに、肺が取り込んだのは酸素だった。遙は驚くよりも先に夢中で何度も何度も息を繰り返す。飢餓状態にあった脳が運ばれてきた酸素を夢中で貪り、やがて意識がはっきりしてきた遙は自分の身に起きたことを理解して信じられない面持ちで目を丸くした。

「僕は……」

 水の中でも普通に息が出来る。取り込まれた冷たい海水が体内を循環して排出されるのを感じる。全く何の違和感も無かった。

 『泳いでごらん。そうすれば君もきっと実感するはずだ。自分が本来あるべき場所はどこなのかということをね』

 小松崎の言葉を思い出す。見上げると、海王が満足そうに微笑んだ。

「では行こう。城は少し遠い」

 海王は遙の身体を抱え直すと、再び海底に向かって潜り始める。遙は覚悟を決めると、目をギュッと閉じて海王の身体にしがみ付いた。


「どうするんだ、小松崎!」

 海王が遙を抱えて海に飛び込んだのを見て慌てたのは設楽だった。真っ青に青褪め、自分も飛び込もうとして小松崎に止められる。

「海王が一緒なんだから大丈夫だ、落ち着け」

「なんだと! 遙は息が出来ないんだぞ!」

 設楽は取り乱して叫ぶ。再び岩場から飛び込もうとして、小松崎に羽交い絞めにされた。

「もし溺れればすぐに上がって来るだろう。少し待て」

 冷静な小松崎の言葉に、設楽は憤怒の形相で振り返る。

「溺れてからじゃ遅いだろ! ふざけるな!」

 肩で激しく息をし、同い年のはとこを睨み付ける。それでも海に飛び込むことは諦めたのか、再び暗い海面に視線を向けると、少しでも異変がないかと目を凝らした。

「あいつに何かあったらお前も海王もただじゃおかねえッ……」

 搾り出すように唸る設楽を、小松崎は後ろから見守る。生まれてから十八年間ずっと隣で見てきたが、こんなに怒り狂った設楽を見たのは初めてだった。喧嘩もたくさんしてきたが、『お前』呼ばわりされたのも初めてだ。いったい設楽に何が起きたのだろうかと考える。キーワードはやはり『遙』だと思った。やがて五分、十分と時間が過ぎ、誰も上がって来ないとわかるとようやく設楽は振り向いた。

「お前が海王を信じるのは勝手だ。でも、俺はあいつを好きになれねえ」

「お前が言いたいことはわかる」

 小松崎の言葉は落ち着いていた。しかし、それが余計に設楽の気持ちを逆撫でする。

「遙が戻って来るまで絶交だ……顔も見たくねえ」

 設楽は唸るようにそう言うと、小松崎に背を向けて再び真っ黒な海面を睨み付ける。小松崎はその背を見詰めながら、小さく溜息をついた。そして、これはいよいよ早いとこ子離れしなければ痛い目を見るのは自分だぞ、と己に言い聞かせる。

(海王……)

 聞えるのは波の音ばかりで、後は何の物音もしない。二人は暗い海面を見詰めたまま、その場に長いこと立ち尽くしていた。


「……るか……遙」

 自分を呼ぶ声で目を覚ます。寝惚け眼で辺りを見回した遙は、何も見えないことに驚いて一瞬パニックになった。

「起きたか、遙」

 その声で、遙は自分が海王と一緒に海の底に来たことを思い出す。そして、自分をしっかりと抱き抱えている逞しい腕を確認して安堵した。

「海王?」

「たいした根性だな、富沙の孫よ。これまで何人も城に連れて来たが、途中で眠ってしまったのはお前が初めてだぞ」

 暗闇で海王が楽しそうに笑う。どうやら自分は疲れて眠ってしまったらしい。遙は思わず赤面すると、腕を伸ばして海王の身体にしがみ付いた。ここで離れたが最後、自分には元の世界に戻れる自信が無い。

「下を見なさい。もうすぐ城が見えるはずだ」

 海王の言葉に進行方向を見たが、しかし、どんなに目を凝らしてみても真っ暗な暗闇だけで遙の目には何も映らない。

「お前の肺を慣れさせる為に、ゆっくりと大きな円を描くようにして潜っている。苦しくはないか」

 遙は自分の胸に手を当てると、首を横に振った。

「大丈夫……かな。僕はどのくらい寝てたの」

「半日より短い。腹が減ったか?」

 海王の声が笑いを含む。遙はちょっと考えてから、再び首を横に振った。

「さっきたくさん食べたから大丈夫。それより……」

 自分の名を叫んでいた設楽の悲痛な声を思い出す。きっと心配しているだろうと思い、せめて大丈夫だということだけでも伝えられればと思っていると、海王が遙の気持ちを察したように小さく笑った。

「貢は昔からしっかりしていたが、守はいつも誰かの後ろに隠れているような子供だった。しかし、今日の守は必死でお前を守ろうとしていた。ずいぶん成長したものだ」

「設楽……守先輩は優しいです。初めはおチャラけていてイヤな人だと思ったけど、部活とかでは凄く頼りになる先輩だし、僕のことも凄く心配してくれて……本当に優しいです」

 遙は考え考え言葉を選ぶ。すると、海王が楽しそうに笑った。

「ではお前が成長させたのかな、富沙の孫よ」

「え……」

 そう言えば、小松崎もそんなことを言っていたのを思い出す。

「アレはわたしを怖がっている。出来れば今日も来たくなかったに違いない。しかし、お前の為に来た。心配でな」

 確かに海王が現れた時から設楽はとても緊張していた。話し掛けられただけで手の平がスゥッと冷たくなったのを思い出す。真っ暗な中で自分の手の平を見ようとした遙は、指の間に朧な明かりを見付けて目を見開いた。

「海王ッ、あれ!」

「やれやれ、やっと着いたか」

 遙の指差す方を見て、海王が大きく溜息をつく。そして、もう一息とばかりに尾を振ると、その朧な明かり目掛けてグンとスピードを上げた。やがて朧な明かりの中に、尖った塔の先が現れる。近付くにつれて視界がどんどん広がっていき、やがて眼下に光り輝く巨大な建造物が現れた。

「あれが我らの城だ。竜宮城へようこそ」


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